| 【 映画雑感 】No.204 |
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ストーリー オーストリアの天才作曲家ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトと、イタリア人作曲家アントニオ・サリエリという実在の人物を 主人公に、モーツァルトの死の謎に迫ったピーター・シェイファーの戯曲の映画化。アカデミー作品賞・主演男優賞など8部門を獲得 した。 1823年冬、ウィーンの精神病院に自殺を図った1人の老人(F・マーレイ・エイブラハム)が収容される。彼はかつてオーストリア 皇帝ヨーゼフ2世(ジェフリー・ジョーンズ)の宮廷に仕えていた作曲家のアントニオ・サリエリで、「モーツァルトを殺したのは私だ」と、 病室を訪れた若い神父(リチャード・フランク)に意外な告白を始める。 宮廷楽長としてウィーン中の尊敬を集めていたサリエリは、神童としてその名が轟いていたモーツァルト(トム・ハルス)に出会い、 粗野で奔放な言動と天賦の才能に驚愕する。やがて彼に激しい嫉妬と憎悪を抱くようになったサリエリは、復讐をもくろみ始める・・・。 モーツァルトは35歳という若さで亡くなったために、死後間もなくから “暗殺” の噂が囁かれたという。彼自身その一員だった フリーメーソン陰謀説、彼に恨みを持つ者の毒殺説(そのなかにはサリエリの名もある)などなど。原作者のピーター・シェイファーが こうした中からサリエリ復讐説を大胆に推理解釈し戯曲化したものを、さらに映画化したのが本作だ。 精神病院の一室で、サリエリは訪ねてきた神父に自分の作った曲を口ずさんでみせる。神父は聞いたことがないという。違う曲を 奏でる。やはり知らないという。そこでサリエリはさらに別の曲を口ずさむ。神父はホッとしたように「知ってます。これはあなたの曲 だったのですか」というが、そ
れはモーツァルトの曲だった。作曲家としての2人の立場が残酷なまでに対比される、冒頭のこのシーンの印象は強烈だ。それを自分で明らかにして見せるところに、 サリエリの凄みが表われている。私は彼の人物像にとても興味を感じた。 サリエリは自分を “凡庸” と卑下する。しかし、オーストリア宮廷に長く音楽長として仕え、その曲は喝采を持って迎えられてきた のだ。自らの才能に揺るぎない自信を持っていたに違いない。一見傲慢だが、彼は本質は謹厳な努力家だと思う。おそらく、血の滲む ような研鑽を積んでここまで這い上がってきたのだろう。 それだけに、モーツァルトに初めて会った時、下品で行儀が悪く女たらしのこんな男に、なぜこれほどまでに美しい曲が作れるのか、と 自分の築き上げた世界が根底から崩れていく気がしたのではなかろうか。品性と神が与えた才能は別物だというのは、なんと不思議なこと かと思う。
モーツァルトの天才ぶりは、サリエリの曲を一度聞いただけで記憶し、即興で編曲したり(もちろん曲は各段によくなった)、ピアノを
バッハ風やヘンデル風や(笑いを誘うためにサリエリ風も)、果てはさかさまになって弾いてみせたりするところに遺憾なく発揮されて
いる。しかし、これがどれほどサリエリのプライドを傷つけ、憎悪を掻き立てたことか想像に難くない。 モーツァルトは終生、父の影響から逃れられないファザコン男だったんじゃないかと思う。あのバカ騒ぎは父の厳格さに対する反動の ような気がする。 終盤、サリエリはモーツァルトにレクイエムの作曲を依頼する。彼が扮した謎の “灰色の男” はモーツァルトには亡き 父の亡霊に思われて、病んだ心身はますます衰弱し、サリエリの悪巧みではその意味では一応成功したことになる。 しかし、ベッドから起き上がれないモーツァルトのために写譜を引き受けたことから、サリエリの内面に変化が起きる。モーツァルトが 旋律を口ずさみ、サリエリが五線譜に書き取る。モーツァルトの魂がそのままサリエリのペン先に乗り移る。一心同体の作業だ。
「あなたは私を嫌っているとばかり思っていた」と言うモーツァルトの言葉はあまりに率直で驚かされるが、彼はサリエリの視線に父を感じて、ほんとうは怯えていたんじゃないだろうか。この病床の共同作業で、2人は初めて人間としてほんとうに触れあえたのだと思う。サリエリは “天分” がなんたるかを知る能力と、それを認める誠実さを持っていたと思う。本当に “凡庸” ならば、自惚れと自己 満足の中で生きられただろう。音楽への真摯な愛、天分に恵まれなかった哀しみと絶望、モーツァルトへの尊敬と嫉妬、さらに若きサリ エリと老残のサリエリ。F・マーレイ・エイブラハムは彼の複雑な人間像を演じきり、アカデミー賞も納得の名演だった。 生きいきしたモーツァルトをスクリーン上に甦らせたトム・ホルスも素晴らしかった。とくに自作の曲を劇場で指揮する時の天真爛漫さ には魅了された。 【◎○△×】8 |