| 【 映画雑感 】No.195 |
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ストーリー 17世紀末にマサチューセッツ州セイラムで起こった “魔女狩り” を基に、1950年代、アメリカを席巻した赤狩りを弾劾する ために、劇作家アーサー・ミラーが書き上げた戯曲の映画化。 17世紀末のマサチューセッツ州セイラム。満月の夜、牧師パリス(ブルース・デイヴィソン)は森
で村の少女たちが踊り狂う異様な
光景を目撃する。黒人娘の呪術で恋の願いが叶うという噂が広がり、娘たちが集まったのだ。パリスはこれを悪魔と契約した魔女の仕業
だと主張し、魔女狩りに乗り出す。少女たちの中に、農夫ジョン(ダニエル・デイ=ルイス)の家の雇われ女アビゲイル(ウィノナ・ライダー)がいた。彼女はジョンとの 不倫がばれて、妻エリザベス(ジョーン・アレン)に解雇されたことを恨んでいた。ジョンへの思いが断ち切れず、アビゲイルはエリザ ベスを魔女として告発する。妻を救おうとするジョンもまた魔女として逮捕される。 ボストンからやってきた判事(ポール・スコフィールド)によって、本格的に魔女裁判が始まった・・・。 《魔女狩り》について何冊か本を読んだことがある。13世紀頃から500年近くにわたってヨーロッパを暗雲でおおったキリスト教 の異端者狩りだ。関心を持った発端は、中学生の頃読んだポーの短編「振り子と陥穽」。とても面白かったが、ゾッとするほど恐かった。 今でも《宗教裁判》というと、あの小説のことが真っ先に思い浮かぶ。 人間の心の暗部を知りたい、という小さな欲求が「怖いもの見たさ」の心理と重なって、大人になってから《魔女狩り》についての本 に向かわせたような気がする。 しかし、私はずっとこれはヨーロッパだけの出来事と思っていた。17世紀、アメリカのマサチューセッツ州で起きたセイラム事件を 最後として《魔女狩り》は終息したと知った時、むしろ、「あのアメリカでもあったのか」という驚きのほうが大きかった。当時は、 まだアメリカを自由で開放的な国という幻想で見ていたせいかもしれない。 じっさいのアメリカは基本的には保守的な国だと私は思っている。とくにヨーロッパの宗教弾圧を逃れたピューリタンによって開国 されたこともあって、当初は厳格な教会の規律が人々の精神と生活を支配していた。こうした閉鎖的な抑圧社会で少女たちが集団ヒステ リーを起したのがセイラム事件だといわれている。
連合赤軍の凄惨な事件を思い起すまでもなく、一度ある力(狂信・思い込み・正当化された理論・硬直した教条主義など、その時々で いろいろと思うが)に覆われると、そこに属する人々は、それはおかしい、間違っている、変だ、と思っても、それを口に出来なくなる。 たちまち自分が次のターゲット(スケープゴート)にされるからだ。恐怖が人の思考を止め、口を閉ざさせる。冷静にあるいは客観的に、 距離を置いて見ること・考えることが許されなくなるのだ。 こうしてだれも留められない集団の暴走が始まる。日本が戦争に突入した時も、こうした心理メカニズムが国全体を覆ったのだ。本当 に恐ろしいのは集団に働くこうした心理だと思う。 堅苦しい話になってしまったが、本作にはそうしたことを思わずにおれない力にみなぎっている。農夫ジョンは手伝いの少女アビゲイ ルに心迷い、過ちを犯してしまう。アビゲイルはそれを愛だと信じ込む。当時は性の抑圧が現代では想像もつかぬほど厳しかった。それ がかえって性の妄想を生む。初めて知ったセックスに少女が狂的に執着したのも、こうした時代だからこそだ。 ウィノナ・ライダーのカリスマ性を帯びたエキセントリックな演技は鬼気迫るものがある。いくつか見た彼女の映画の中では最もすぐれ た演技だと思う。
人間は愚かだが、真実に殉ずる強靭さ、愛を貫く崇高さもまた、その本質なのだ。なにものも冒すことの出来ない人間の尊厳を、2人 の姿が力強く伝えてくる。ダニエル・デイ=ルイス、ジョーン・アレンの静かな中にも毅然とした演技に感動した。 この映画が示すのは、社会あるいは集団が不安や恐怖に捕らえられ、思考停止状態になった時の恐ろしさだ。それは時代を越えた人間 の普遍的なテーマだと思う。けっして過去の物語とは言えないと思った。 【◎○△×】8 |