| 【 映画雑感 】No.166 |
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ストーリー アフガニスタンでタリバン政権崩壊後に製作された映画第1作。実話をヒントに、イスラム原理主義のタリバン政権下で女性が置かれた 苛酷な状況を描き、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭新人監督賞など、多くの賞を獲得した。 主人公を演じたマリナは実際に内戦で2人の姉を失い、戦争で脚が不自由になった父親と乳飲み子を抱える母親に代わって、幼い弟と ともに5歳の頃から路上で物乞いをして生き延びてきた少女だという。 厳格にイスラムの戒律を守るタリバン政権下では、女性一人だけの外出が禁止されている。戦争で父と兄を失い、12歳の少女、母 (ゾベイダ・サハール)、祖母(ハミダ・レファー)の女3人だけになってしまった一家は、このままでは生活の糧を得ることが できない。 少女(マリナ・ゴルバハーリ)は髪を切って少年になりすまし、父の友人の牛乳屋で働き始める。ある日、街のすべての少年が、原理 主義を学ぶために、タリバンの宗教学校に召集される。少女であることがばれそうになるたびに、お香屋の少年(モハマド・アリフ・ ヘラーティ)が必死にかばうのだが・・・。 アフガニスタンでは23年もの長きにわたって内戦が続いたが、本作はその最後の5年にあたるタリバン政権下の時代を背景にして いる。登場人物はみな名前がない。どの個人というのでなく、アフガニスタンのすべての人を襲った悲劇として、この映画が撮られて いるからだろう。
イスラム世界では女性は1人前の人間としての人格が認められておらず、男性の同伴者がいないとバスにさえ乗れない。そんな様子は イラン映画『チャドルと生きる』(00)にも描かれている。 まして、厳格な原理主義のタリバン政権下では、女性は労働に従事することが禁じられ、看護婦だった少女の母も働くことが 出来ない。父と兄を戦争で亡くし、働き手を失った家族を養うために、少女は髪を切って “男” に成りすますのだ。 その時に、便宜的にお香屋の少年が彼女に与えた名が、オサマだ。ニューヨーク・テロで一躍名を知られたオサマ・ビンラディンを すぐに連想し、なんとも皮肉な思いになる。 女性として、見ていてこんなにつらい気持ちになる映画も珍しい。それがもっとも極まるのが、少年たちが収容されたタリバン宗教 学校で、オサマが騒ぎを起した罰として井戸の中に吊り下げられる場面だ。あまりの恐怖で、彼女に初潮が訪れる。引き上げられた時、 彼女の足に伝う血のむごさは、おそらく女性でなければ分からないだろう。 本来は、ある日、ひっそりと訪れる徴(しるし)なのだ。母の手助けで処置の仕方を学び、大人の女性に なったことをかみしめる、少しの不安と大きなときめきとともに。しかし、オサマは取り囲んだ少年たちの好奇の目にさらされる。 そしてまるで「罪」であるかのように、“女” であることがばらされてしまうのだ。それまで陰に陽に彼女を庇ってきたお香屋の 少年も、もうどうすることも出来
ない。逃げるように立ち去る後ろ姿を見ながら、彼はオサマが好きだったんじゃないのかなと思ったりする。彼の初恋が幼いだけに、その後、 オサマを待ち受ける運命はいっそうむごさを増すように思える。彼女は “男” に成りすました罰で、地主の老人に4人目の妻として 受け渡されるからだ。 3人の妻たちが、代わる代わる彼女に初夜の化粧を施しながら、「あの男のために私の人生はめちゃくちゃになった」と嘆く。これ からのオサマの人生を思い、暗澹たる気持ちになる。 金持ちの老人が、貧しい家の少女を人買い同様にして妻に迎える風習は、広く中近東からアジアに渡って行われていた。今どの程度に それが残っているのか知らないが、女性本人ばかりでなく、その女性を愛する男性にとっても不幸な風習と思わないではいられない。 映画は、欧米のジャーナリストがカメラに収めるアフガンの街路の様子から始まる。それがいつかカメラのフレームを離れ、ドキュ メンタリーのように一人歩きし始める。しかし、裁判の場面で引き立てられる欧米人の姿がちらりと写り、「あのジャーナリスト?」と 記憶が呼び起こされる。 「死刑」という判決と「そんなバカな・・・」というジャーナリストの声が聞こえ、すぐにダダダと銃声が響く。この場面で胸に湧き 上がった皮肉な思いをどう説明したらいいだろう。 普通に考えれば、フィルムを没収して国外追放というところだろう。「死刑」だなんて、まさに「そんなバカな」なのだ。タリバン政権の無法ぶりはあまりにむごい。 【◎○△×】7 |