| 【 映画雑感 】No.125 |
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ストーリー 恐慌時代、奇跡的な復活を遂げたことから “シンデレラマン” と呼ばれた実在のボクサー、ジム・ブラドックの家族愛を描いた ヒューマン・ドラマ。 ジム・ブラドック(ラッセル・クロウ)は、強力な右ストレートを武器に次期チャンピオンも目前と思われていたが、1929年、 肝心の右手を負傷してしまう。奇しくもアメリカ大恐慌が始まった年だった。怪我を隠して試合に出ては負け続けるという悪循環の末、 ボクサーのライセンスも失ってしまう。 3人の子どもを抱えたジムは、あふれる失業者の1人となって、日雇い仕事を探す日々を送る。そんな時、かつてのマネージャー、 ジョー(ポール・ジアマッティ)から一夜限りの復帰戦を持ちかけられる。世界ランキング2位の選手との試合で、負けは初めから 織り込み済みという人を喰った話だが、ファイトマネーが入る。ジムは飛びつくように承知する。 ボクシングというスポーツがとくべつ好きな訳ではないのに、ボクシング映画ってどういう訳かつい引き付けられるように見てしまう。 裸でひたすら殴りあうだけ。原始的といえば原始的、凄まじくて、ひどく孤独で、苛酷なスポーツだなと思う。 不思議と、相手を叩きのめして勝つ場面はあまり思い浮かばない。ノックダウンされ惨めにリングに横たわる敗者のほうが印象が強い。 ボクシングが作り出すドラマは、勝者より、敗者のものだ。
彼らはなぜリングに立つのか。もちろん理由は人それぞれだろうが、本作の主人公ジムの答えは明瞭だ。家族のため、これに尽きる。大恐慌下の凄まじい窮乏が描かれる。この映画は食べ物の場面がよく出てくる。子どもたちに「夕べは夢の中ですごいご馳走を食べた」 と話すジム。「だからもうお腹がいっぱい」と、自分のスープを幼い娘の前に押しやる。 一夜限りの復帰戦の控え室で、マネージャーのジョーは妙な音を聞く。「今のはなんだ」「俺の腹の虫が鳴いたのさ」。腹をすかせ 試合に臨むつもりだったのか、と呆れたジョーは急いで食事を運んでくる。テープを巻いてしまって手が使えないジムは、犬のように 皿に顔を突っ込んで貪り食う。 なかでも印象的なのは、ヘビー級チャンピオン、マックス・ベアとの対戦を決めた後、ジムと妻のメイ(レネー・ゼルウィガー) レストランに招待される場面だ。食べ残しのステーキが乗った皿をウェ
イターが下げようとすると、ジムはあわてて「まだ終わってない」
と言い、ウェイターが去った後、大急ぎでハンカチに包んでポケットに滑り込ませる。もちろん、家で待っている子どもたちへ持って帰るつもりなのだ。ジムは家族を養うためにリングに立つ。勝ち目のない試合でも、カネになるなら飛びつく。込み入った理由は要らない。このシンプルさ が胸を打つのだと思う。 ボクシング映画の魅力の1つに、汗(や時には血)が飛び散るボクシング場面の臨場感がある。本作でもファイト・シーンの迫真力は もの凄い。もう中年のラッセル・クロウの身体は正直いって、若い相手と戦うには少々苦しい。しかし妙なもので、かえってそのために 6年近く実戦を離れていたジムがリアルに感じられる。 復帰戦の勝利も、骨折した右手を庇って左手で力仕事をしたために、いつの間にか鍛えられた左のパンチのお蔭というのだから、 説得力がある。
よろよろ、ふらふらしながらも倒れず、しつこくリングに立っているジムを見て、初めは舐めてかかっていた相手が、だんだん焦って くる。「なんだ、こいつは」とイライラし、次は薄気味悪くなる。 ゴングが鳴ってコーナーに引き上げてきたジムに、ジョーが「椅子に座るな」「向こうに見えるように、座らない、と首を横に振れ。 余力があることを見せ付けてやれ」という。ボクシングがこんなに繊細な心理的駆け引きのスポーツだというのを、この映画で初めて 知った。 ジムは一度は敗者としてリングを去ったが、人生を捨てなかった。家族のために自分のために誠実に生きていた。沢木耕太郎の本に 「敗れざる者たち」というすぐれたノンフィクションがある。 カシアス内藤や円谷幸吉など、勝者になりきれずに去った人たちの姿を追い、彼らを愛惜を込め
て “敗れざる者” と表現した。ジムは結果的に奇跡的な復活を果たしたけれど、そうでなくても、真の意味で “敗れざる者” だったのだと思う。ラッセル・クロウの 抑えた演技が印象的。 マネージャーのジョーを演じたポール・ジアマッティが素晴らしい。パンフによると、実際のジョーは映画で見るほどいい人では なかったそうだが、少なくともジムの力を信じ、支え続け、ジムの終生の友であったのは確からしい。リングサイドから声を嗄らし ジムを励ます一心同体の戦いぶりには、胸が熱くなった。 この映画を後味のよいものにしているのは、奇を衒(てら)わずに真っ直ぐに家族の愛や友情を描いているからだと思う。 【◎○△×】7 |