| 【 映画雑感 】No.98 |
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ストーリー 『太陽がいっぱい』として映画化されたパトリシア・ハイスミスの原作を、アンソニー・ミンゲラ監督が再映画化している。 偶然のことから大会社の社長グリーンリーフ(ジェームズ・レブホーン)に息子の友人と間違われたトム・リプリー(マット・ デイモン)は、イタリアで放蕩三昧の日々を過ごす息子ディッキー(ジュード・ロウ)を連れ戻す役目を負って、イタリアにやって くる。 マージ(グウィネス・パルトロウ)という恋人はいるものの、刺激のない毎日に退屈していたディッキーは、トムを連れ、 セーリングやジャズクラブで遊び回る。自由奔放なディッキーの発散するオーラに魅せられたトムは、ついにディッキーを手にかけ、 彼になりすます。 しかし、それからディッキーが生きているように見せ掛ける、トムの地獄のような日々が始まった・・・。 『太陽がいっぱい』(60)は上昇志向の強い貧しい青年が、その野心を満たすために金持ちの友人を殺す、という比較的シンプルな 物語という印象を持っている。もう40年以上も前に見た映画なので、今見たらまた別の感想を持つかもしれないが・・・。 それでも、アラン・ドロンの翳りのある美貌やリリシズムあふれるテーマ曲で、今も鮮烈に記憶に残る映画だ。 一方本作は、金持ち息子に対する主人公の同性愛的感情が表面に打ち出され、それに “自分が何者か分らない” という 自己喪失の苦悩がからみ、現代的な味つけがされている。
リメークというより、まったく違う映画と考えた方がよいようだ。トムはディッキーのすべてに憧れ、ディッキーのようになりたいと思う。『太陽がいっぱい』のトムは、完全犯罪の方便として フィリップ(本作でのディッキー)に成りすますのだけれど、本作のトムは、もっと情緒的・心情的にディッキーと一体化しようとした ように見える。 ディッキーに連れられていったナイトクラブで物真似で歌う「マイ・ファニー・バレンタイン」が、トムのこうした気持ちを如実に 表している。紗のかかったようなハスキーで柔らかな歌声は、男とも女とも分かちがたい響きを持ち、聞いていると、まるでトムの中の女性的な面が 顔を覗かせているような気持ちになる。 これにディッキーがサキソホンを合わせる。2人の間に一種、性的な恍惚感が漂い、どきっとさせられる。ディッキーの中にも、トムの 思いに呼応するゲイ的な要素があることを、強く匂わせるシーンだ。 トムは天才的に人の物真似がうまい。グリーンリーフ氏の声色をあまり巧みに真似るので、ディッキーが気味悪がるほどだ。下層 階級に属するトムにとって、物真似の巧みさは人の関心を引いたり好意を寄せてもらうためには便利な道具だったろう。しかし、これを 繰り返すことで、徐々に、彼は本当の自分が分からなくなっていたように思う。 トムがディッキーの筆跡を練習する姿が、いくつも重なった鏡に映るシーンがある。彼の分裂した自己像を象徴しているようで、とても 印象的だ。
ディッキー殺しに成功し、彼に成りすましたトムは最初のうちこそ有頂天になってディッキーの生活を享受するけれど、綱渡りの
ような生活に次第に疲れてくる。いつ〔ディッキー=トム〕のからくりがばれるか・・・。このサスペンスが後半、神経の緊張をぎりぎりのきわどさまで高めて、非常に 面白い。耐え切れなくなったトムはディッキーの自殺をでっち上げ、自分は〔本来の自分=トム〕に戻ろうとする。 けれど、彼をディッキーと思い込んでいる富豪の娘メレディス(ケイト・ブランシェット)と再会したことで、この計画は脆くも 崩れてしまう。これからも彼はディッキーであることを装い続けなければならなくなったのだ。 彼をトム本人として受け入れてくれたただ一人の友人、ピーター(ジャック・ダヴェンボート)さえ手にかけてしまうラストが、 トムの哀れさをまざまざと表すように思えた。 出演者では、ジュード・ロウの存在感が圧倒的だ。その華やかな驕慢さは、トムが憧れを抱く “神” としての耀きに溢れている。 マット・デイモンは垢ぬけない田舎者の惨めで屈折した心理をとても巧みに演じていたと思う。彼ならではのトムを作り上げていた。 グウィネス・パルトロウの演じたマージは『太陽がいっぱい』のマルジュと異なり、自分の意志をしっかり持った現代的な女性として 描かれているのが新鮮。ディッキーの傲慢な遊び仲間フレディーを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンも、強烈に印象に残った。 【◎○△×】7 |