| 【 映画雑感 】No.40 |
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ストーリー 一度も町から出たことのない初老の男と流れ者の中年男が偶然に出会い、一緒に過ごす3日日間の物語。『髪結いの亭主』『橋の上の 娘』のパトリス・ルコント監督が、何もかもが対照的な2人が、生きられなかった別の人生を相手に見出し、心を通わせていく様子を 描いている。 フランスの小さな田舎町。列車から降り立った中年男ミラン(ジョニー・アリデイ)は、偶然知り合ったマネスキエ(ジャン・ロシュ フォール)という初老の男の屋敷に泊めてもらうことになる。「土曜日には出て行く」というミランと、「土曜日には用事がある」と 応えるマネスキエ。 ミランは昔の仲間とこの町の銀行を襲い、それを最後に足を洗うつもりでいた。一方、定年後の平凡な日々を過ごす マネスキエは、患っている心臓を思い切って手術する決心をしたばかりだった。それがどちらも土曜日・・・。こうして2人の短く 奇妙な共同生活が始まる。 こんなに中年男の魅力に痺れたことはない。くたびれた革ジャン姿のジョニー・アリデイ。彼のすさんだ横顔、寡黙な立ち居振る舞い、 そのどれもがかっこいい。がたん、がたん、・・・と音を立てて走る列車(このレトロさだけで胸がキュンとなる)から降り立ち、 古びた石畳の道を歩き出す。それだけでもう、彼のこれまで過ごしてきた人生のただならなさが一挙に立ち現われてくる。
一方のジャン・ロシュフォールが演ずる初老の元国語教師も味がある。きちんと首元まで衿を閉じたコート。背を伸ばし、真っ直ぐ
前を見て歩く。彼がまじめに実直に生きてきたことが、その姿1つに如実に現われている。交わるはずのない2人の男の人生が、偶然に交差する。マネスキエはおそらく、道を外すことなく過ごしてきた教師人生を悔いては いないと思う。でも、ほんとはちょっと物足りない。このまま分かりきった人生を過ごしていくのか・・・。 彼の思いは大方の人が初老期に入った時に感じる感慨じゃないかと思う。今更波瀾の道に入りたいとは思わない。でも気持ちだけなら ちょっとは違う人生を夢見てみたい。だから、そこに現われるミランのような男は、マネスキエの願望を実現したような思いっきり かっこいい男でないといけないのだ。 マネスキエは、ミランが銀行強盗をもくろんでいることを察知した時、わくわくしてみたり、正気に返って止めたりする。ミランは 現実に目の前にいる男だけれど、同時にマネスキエにとっては物語のなかの人物でもある。だから、現実のミランには犯罪など犯して ほしくないが、物語のなかの人物には思い切った冒険を演じてほしい。 マネスキエがミランの革ジャンを着て、鏡に向ってカウボーイの仕草を真似るシーンが印象的だ。少年の日の西部劇への憧れがミラン の出現で甦り、この初老の男を生き生きさせているのだ。“もう1つの人生”があるなら・・・。この映画のテーマがとてもよく表れて いるシーンだと思う。
一方、ミランはマネスキエの饒舌に辟易しながらも、裏も表もない彼の純真さに安らぎを感じているふしがある。いっときの油断も
許されない犯罪人生に疲れを感じ出したミランも、確実に歳を取っているのだ。“スリッパを履く”落ち着いた生活。ミランにとって マネスキエの古めかしい屋敷は、彼なりの夢の象徴かもしれない。 映画のラストで、銀行を襲撃したミランは包囲した警官隊に撃たれて重傷を負う。一方、マネスキエは予定通りに受けた心臓手術が 失敗する。 ここから先は、見る人によって解釈が違うかもしれない。高い石塀の扉から刑を終えたミランが出所してくる。外でマネスキエが 待っている。2人は黙って道で交差する。その瞬間、マネスキエがぽんと屋敷の鍵をミランに投げ渡す。・・・マネスキエの屋敷で ピアノを弾くミラン、列車でどこかへ旅立つマネスキエ・・・。 これらの映像が、フラッシュ・バックのように横たわる2人の姿に重ねられる。これは後日談とも受け取れるが、私には、瀕死の 2人が薄れゆく意識の中で描いた願望が、共振するように1つのものになり、現実には叶えられなかった夢を2人は分かち合った、と いうように思えた。 【◎○△×】8 |