| 【 映画雑感 】No.20 |
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ストーリー 『ブレイブハート』でアカデミー監督賞を獲得したメル・ギブソンが、12年の構想と27億の私財を投じてイエス・キリスト最期の 12時間と復活を描いた宗教映画。全編ラテン語とアラム語だけを用い、イエスが生きた時代を忠実に再現している。 紀元前1世紀のエルサレム。ナザレのイエス(ジム・カヴィーゼル)は弟子のひとりであるユダの裏切りによって捕らえられ、大司祭 カイアファ(アッティア・スブラージア)に引き渡される。カイアファは自らを神の子とするイエスに激怒し、神を冒涜したと宣言する。 イエスの身柄を託されたローマ帝国総督ピラト(フリスト・ナーモヴ・ショポヴ)はイエスを裁く理由が見つからず、ガリラヤの王 ヘロデに委ねる。しかし、ヘロデもまたイエスを罪人と認めることが出来ず、狂人としてピラトのもとに返してくる。ピラトは鞭打ち刑 でイエスを釈放しようとするが、大司祭カイアファの煽動に乗る民衆は納得しない。暴動を恐れるピラトはついにイエスに十字架刑を 宣告する。 クリスチャンにとってこの映画がどう映るのか分らないが、少なくとも私はとても興味深く見ることが出来た。鞭打ち刑の残酷さが リアルに描かれいろいろ物議を醸しているようだが、今のような人権意識など皆無な時代のこと、罪人の扱いはじっさいこんな風だった のではないだろうか。私はあえて目を背けずキリストの凄絶な受難を描ききったギブソン監督の勇気と感じたが、余りの凄惨さに拒否 反応を起こす人はいるかもしれない。(ちなみに“パッション(Passion)”とは、大文字Pで始まる時はキリストの「受難」を 意味している。 ゴルゴダの丘にいたる長い路を、イエスは何度も気を失い倒れては、自分からまた十字架に縋りついて担ごうとする。その姿には、 運命を自ら選び取っているのだという、イエスの強い意思が汲み取れる。かつて人が経験したことのない凄まじい苦しみ の果ての死、そして復活。生身の肉体を持った1人の人間イエスが、“キリスト”(救世主)として昇華されていくプロセスを描いた のが、本作であるように私には思えた。 もっとも、これほどの苦痛をあえてわが身に引き受けて死んでいったイエスの「神」への信仰、そしてその「神」なるものが、無宗教 の私にはとうてい理解が及ばない部分ではあるけれど。
“ゲッセマネの園”はじつはエルサレム市内のふつうの広場だと以前聞いたことがある。じっさいはそんなものかもしれないと思う
ものの、ちょっと味気ない気分になる。それだけに映画冒頭で、夜のもやに包まれたゲッセマネの園が現われた時は、「あー、これだ
・・・」と思わず画面に引き込まれた。木にもたれ眠りこむ弟子たち。彼らから離れて樹間をさまよいつつ、これから迎えようとする
試練への恐怖に一人耐えるイエス。聖書にはイエスは「血の汗を流した」とあるけれど、死への恐怖におののく1人の人間としての
イエスが描かれ、好きなシーンの1つだ。映像も美しい。ただ、全体としてはイエスの人間像がやや希薄なのが物足りない。イエスに水と布巾を差し出したヴェロニカの聖顔布のエピソード、 イエスによる弟子の洗足、山上の垂訓、マグダラのマリアへの赦しなど、よく知られたエピソードが一通り取り上げられ、映画としては 分りやすい作りになっているが、あっさりした描き方で、これらを通して人間イエスのイメージが十分膨らんで来ないのだ。群集に 紛れて影のように姿をみせるサタンなど、印象的なショットもあるだけに残念な気がする。 ジム・カヴィーゼルはこれほどイエスのイメージにぴったりの役者ってかつていただろうか。それくらいまさにイエスそのものだ。 とくに清澄にして聖なるものを感じさせる眼が素晴らしい。母マリアを演じたマヤ・モルゲンステルンも印象的。 我が子の凄絶な受難を見守る苦しみと、運命を受け止める強さをともに感じさせる演技は感動的だ。彼女が十字架から降ろされたイエス を膝に抱え、悲しみに満ちた眼で前方を見つめるシーンは、まさしく「ピエタ」の構図そのものだと思った。 個人的には“裏切りの使徒”ユダに興味がある。彼はなぜ師イエスを銀30枚というわずかな金で売ってしまったのか。裏切りまでの 葛藤、裏切ってからの苦悩、そして自殺・・・、敗者、弱者、人間の負の部分に惹かれる私は、彼の中に渦巻いただろうドラマにも 思いを馳せる。ユダを主人公にした映画が出来ないものだろうか。 【◎○△×】7 |