| 【 映画雑感 】No.16 |
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ストーリー 床に平面設計図のような家や道路を描いただけという、演劇の舞台のようなセットを村に見立て、物語は展開する。ロッキー山脈の 麓に孤立する村ドッグヴィル。住民はわずかに20数人というこの集落に、1人の美しい女グレース(ニコール・キッドマン)が逃げ 込んでくる。村人は作家を目指す青年トム(ポール・ベタニー)の提案で、2週間の期限付きで彼女を匿うことを承知する。ただし、 その間に彼女が村人全員に好かれることを条件に。 次の日から、グレースは家々を回って献身的な奉仕を始める。村人とグレースの幸福な関係・・・。しかし、彼女が警察に追われて いることが分かると、村人の態度が変ってくる。トムはグレースがより多くの奉仕をすることを提案する。やがて、粗暴な男チャック (ステラン・スカルスゲールド)がグレースを犯す。グレースは村からの脱出を決意するが、トラック運送業の男の裏切りに遭い、 犯された上に村に連れ戻されてしまう。首に鉄輪をはめられたグレースは、これまで以上にこき使われ、男たちの性の処理までさせ られるようになる。ある日、グレースを追ってギャングの一味が村に姿を現わす。 大きなスタジオの黒い床に白ペンキで描かれただけの家や道路、最低限の家具、という大胆なセットは、予備知識があったせいか 違和感なく受け入れることが出来た。むしろ、存在しないドアが重い音を立てて開け閉めされ、見えない犬が吠え、唸る。そういう 非日常的な空間が、映画のテーマを際立たせる役を果たしているように思った。 作品を完成させたことのない作家・トムが印象的だ。彼は辺鄙な山村で、父親の庇護のもとに創作に励んでいる(つもりだ)。実人生 を生きたことのない彼が、いっぱしの理想論を掲げて村人を導こうとする。人生の上っ面を撫でただけの浅薄な理想主義がいかに偽善に 満ちたものか、彼が口を開くたびに暴露される。私が興味深くまた恐ろしく思ったのは、トムが最後まで自らの偽善を自覚しない ことだ。善意の良識人がいかに残酷なことを無自覚に行うか、私たちはいやというほど知っている。けれど、自分のこととはだれも 思わない。トムはそういう私たちを象徴している。
同じようにヒロインのグレースも興味深い。強大な権力を持つ父親を傲慢だと非難するグレースだが、村人からどんなに痛めつけられ
ても受け入れ許そうとする態度が、じつはどれほど傲慢なことであるか、気づいていない。父親に救出された後も、村人は自分の手で
畑を耕し、自分の体で働いている、などどまだ奇麗ごとを言う。しかし、一旦ことの真相が見えると、今度はかつて嫌悪した父の権力を
使って村人を皆殺しにする。映画としては、ここで一挙にカタルシスが起こり「あ〜やれやれ」という気分になるが、でもそれでいい
の?という後味も残る。自分が無いということでは、グレースもトムと少しも変らない。この映画を監督フォン・トリアーのアメリカ批判と受け取る批評もあるらしいが、それは見当違いだと私は思う。ここに示されるのは 普遍的な人間の性(さが)だ。りんご園を営むチャックがグレースを犯すシーンがある。線を引いただけの家 だから、むき出しになったチャックの尻がうごめくのが丸見えだ。しかし、セットのこちらでは、村人たちが立ち話をし、通りを行き来 して立ち働く。村人が知らん顔をしているから、かえってチャックの行為は生々しく見える。 家の壁があるという前提だから、彼らにチャックとグレースが見えないのは当然だ。しかし、このシーンは、人は見たくないものは 見ない、見えないものは無いのと同じだ、ということを暗示している気がする。トムは小賢しくも(とあえて言おう)村人に自分を 見詰めさせようとした。しかし、人は決してそんなことはしたがらない。自分の心の暗部に潜む醜悪さを一体だれが知りたいと思う だろう。一切の無駄を削いだ寓話的な空間で展開される物語は、恐ろしいほどに人間の本質に迫ってくるものだった。 【◎○△×】8 |