|
|
2月 |
|
ストーリー パリ警視庁で異なる捜査チームを率いるレオ(ダニエル・オートゥイユ)とドニ(ジェラール・ドパルデュー)は、かつて同じ女性 カミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)を愛し、今は次期長官のポストが有力視されるライバル同士だ。多発する凶悪な現金輸送強奪事件に業を 煮やした現長官マンシーニ(アンドレ・デュソリエ)は、レオに捜査の指揮を預ける。危機感を抱いたドニの不用意な行動が、やがて思い もかけぬ方向に2人の運命を変えていく・・・。 警察官として働いた経歴を持つオリヴィエ・マルシャル監督が、当時の事件や実在の人物を織り込み映画化。フランスを代表する俳優 ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューが共演している。 こういうタイトルに出会うとそれだけで嬉しくなる。「あるいは」の前に来るのはなんだろう、“友情” かな、などと考える。原題は 「オルフェーヴル河岸36」。パリ警視庁の所在地だそうだ。 ストーリーはここの2人の警視、レオとドニの対立と裏切りをめぐって展開される。冒頭の現金輸送車強盗団の手荒な仕事ぶりにまず 一驚。この作品はマルシャル監督の警官時代の経験がいくつか組み合わせて取り込まれているというが、こんな荒っぽい事件も実際に 起こったのだろう。あまりに殺伐とした手口に背筋が寒くなる。
警視庁は頻発する事件に手を焼き、特別体制を敷いて犯人逮捕に乗り出す。その指揮を任されたのが部下の信望が厚いレオだ。上司・
マンシーニ長官の、栄転する自分の後任にレオを、という思惑もあっての指名だ。しかし、経歴、実力ともに伯仲するドニは、レオの指揮下に入るのが面白くない。出世でレオに先を越されるのも許せない。焦った彼は スタンドプレーを働いて重要犯人を取り逃がしてしまう。 レオが凶悪な犯人一味のアジトを突き止めることが出来たのは、情報屋から得た知識がもとだったのだが、この時彼は情報屋の罠に はまり重大なミスを犯す。それを知ったドニは内部告発し、彼を刑務所送りにしてしまう。ドニは長官に就任、レオの妻は謎の事故死を 遂げる。 こうして、静かな緊張を孕みながら、映画は刑期を終えたレオがドニとの対決に向かう姿を追う・・・。 寡黙な正義派のレオに扮するのがダニエル・オートゥイユ、ふてぶてしい野心家を演じるのがジェラール・ドパルデュー、渋い男くささ が横溢する映画のせいか、館内は中年の男性客が多い。女
1人ポツンと座ってるのが少々気恥ずかしいが、実力派の2人の競演だけに画面から漂う重厚なムードはなんともいえない。いぶし銀のアンドレ・デュソリエ、特異な風貌のダニエル・デュヴァルやフランシス・ルノー、と脇を固める顔ぶれにもゾクゾクさせら れる。 男たちの物語に陰影と奥行きを与えるのが女たちの存在だ。かつてレオとドニに愛され、今はレオの妻となっているカミーユ(ヴァ レリア・ゴリノの凛とした姿が美しい)、ドニの人間性に見切りをつけ、自ら片田舎の駐在に去る部下の女性刑事エヴ(いい意味での女性 の潔癖さが清々しい)。 そしてレオの古い友人・娼婦マヌー。年下の夫と穏やかに暮らすマヌーだが、出所したレオを何も言わずに迎えいれ、援助を惜しま ない。演じているのはあの懐かしいミレーユ・ドモンジョ。人生の酸いも甘いも噛み分けた女だけが放つ残光の輝きに魅了される。 男も女もハードでクールで、なおかつワインのように芳醇だ。久しぶりの本格派フィルム・ノワールの手応えだった。 【◎○△×】7 |
|
|
1月 |
|
ストーリー 16世紀初めの漢陽。旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)と女形のコンギル(イ・ジュンギ)は、時の王・燕山君(ヨンサングン) (チョン・ジニョン)が妓生上がりの愛妾ノクス(カン・ソンヨン)にうつつを抜かしているという噂を聞き、芸人仲間ユッカプ (ユ・ヘジン)らと王を皮肉った芝居を打つ。 興行は人気を博するが、一座は王の重臣チョソン(チャン・ハンソン)によって捕らえられ、死刑を宣告される。チャンセンは「王が 笑えば侮辱じゃない」と主張し、燕山君(ヨンサングン)の前で一世一代の芝居をすることになるが・・・。 チャンセンの執こいこと執こいこと。なにがというと、己の意思をねじ曲げようとする力への反骨精神が、じつに執こいのだ。相手が 大道芸一座の座長だろうと、時の最高権力者、王であろうと変わらない。死を賭して己の意思を貫こうとする。
日本には “散りぎわの美学” とか “水に流す” とかいう言葉があり、伝統的に淡白であっさりしている。そういう日本人的感覚
からすると、何度も助かるチャンスがあるのに、王に闘いを挑み続ける(もちろん、芸人としてだが)チャンセンには、呆れるというか
天晴れというか・・・。中国という強大な国と境を接してきた朝鮮半島の長い歴史がこういう強靭な精神を作り上げたんだろうか、と映画を離れて感心して しまった。 コンギルは対照的に自分の意思というものがないように見える。どんな境遇もあるがままに受け入れ従うだけ。女性と見まがうほどの 美貌だが、女性的というのではない。もっと透明な浮遊感がある。 私は彼を見ていて、暗い虚空に浮かぶ水晶の玉を連想した。この世の悲しみも苦しみもすべて吸収し、それでいて自分自身は水のよう に平明に存在する。時の王、燕山君(ヨンサングン)が彼を手放そうとしなかったのは、権力者の心の空洞や孤独を、コンギルの無私が 静かに癒したから
ではないか、と思う。燕山君(ヨンサングン)は15〜16世紀に実在し、暴虐さで朝鮮王朝史に名を残す王だそうだ。父王によって服毒自殺を強いられた 母の恨みを晴らすために宮廷内を粛清し、妓生出身の側妾に溺れ、卑しい身分とされた大道芸人を宮中に召し抱えたのは、映画に描かれた 通りらしい。 演じるチョン・ジニョンが主役2人に勝るとも劣らない存在感だ。死んだ魚のような生気のない目、一転、頭の血管がはち切れそうな はしゃぎぶり、王の情緒不安定がよく分る。王の器たり得ない人物が権力の座に座らされた悲劇。コンギルと人形劇に興じる姿を見て いると、だれにも心を許せない王の孤独が憐れにさえ思える。 召し抱えた芸人を利用して宮廷内の権力争いで優位に立とうとする重臣や、王の寵愛を奪ったコンギルが男であるゆえにやり場のない 嫉妬に苛まれる愛妾など、王宮内のドラマが人間臭くて
面白い。怪しい雲行きを察知して、芸人仲間は宮廷から遁走するが、チャンセンはあくまでコンギルとともにいることを選び、コンギルも処刑 されるチャンセンに殉じる。王の権力でさえ裂くことの出来なかった2人の絆。チャンセンは無力なコンギルを兄のように父のように 愛し、コンギルもその愛をそのまま我が愛にしたのだと思う。 クーデターを起した民衆が王宮にひしひしと迫る様子を見せて、映画は終わる。中世の朝鮮王朝を再現した衣装・セットの絢爛たる 美しさが新鮮だった。 【◎○△×】7 |
|
|
1月 |
|
ストーリー ニュージーランド南端の町、インバカーギル。バート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)は40年も前に買ったバイクを自分の手 でひたすら改造し、数々の国内スピード記録を残してきた。彼の夢は世界最速を目指すライダーの聖地、アメリカ・ユタ州のボンヌヴィ ルの大会に参加すること。 1962年、63歳のバートは一念発起し、愛車の1920年型インディアン・スカウトとともに、はるかアメリカに向かって旅立つ。 1967年に68歳で1000cc以下クラスの世界最速記録を達成した実在のライダー、バート・マンローがボンヌヴィル・ソルト フラッツ(塩平原)の大会に初参加するまでを描いた異色のロード・ムービー。 60歳を超えてバイク・ライダーの聖地、アメリカ・ユタ州ボンヌヴィルのスピード大会に挑み、なんと68歳で世界最速記録を打ち 立てた実在の男、バート・マンローの物語だ。この記録はいまだに破られていないというから驚くほかない。
ニュージーランドの片田舎に住むバートは、愛車のバイク(1920年型インディアン・スカウト)の改造に明け暮れている。早朝、 まだ薄暗いうちに起きだして、エンジンの轟音を響かせる。お隣さんが窓から顔だして「朝っぱら、何事だ〜!」と怒鳴ろうが一向平気、 「やることが多すぎて、これでもまだ時間が足りない」とやり返す。 年金生活者だから、バイクの改良もパーツの手作りをはじめ、身の回り品を利用するしかない。手間ひまかかるのは見ているだけでも よく分る。しかしなんと生き生きと、バートはこれらの仕事をこなしていくことか! アンソニー・ホプキンスといえば大物過ぎて、 重厚なイメージが先行しがちだが、本作ではお茶目で磊落で、ちょっと困った初老の男をじつに楽しそうに演じている。 古い型の改造マシンだということを映画の序盤でよくよく見せられるせいか、バートが目的地ボンヌヴィルのソルトフラッツにたどり 着いて試走する場面はほんとにハラハラする。彼の愛車 “インディアン” は、エンジンが掛かってもすんなり走りださないからだ。 お尻をブルブル左右に振ってよろける。今にも横倒しになりそう。バートが平グモのようにへばりつく。「あー、これで彼もこの世の 見納めか」とだれでも思ってしまう。しかし、加速するに連れてお尻の横揺れは消えて、4次元スポットに突入するかのような スピード。バートが失神しないのが不思議に思えるほどだ。広大な塩原をひた走るオールド・ライダーに目が釘付けになる。 アメリカ・ロサンゼルスに上陸したバートが、“インディアン” を牽引しながらネバダの砂漠を越え、ユタ州のボンヌヴィルまで はるばると旅をする道中が素晴らしく魅力的だ。 泊まったモーテルの女装のフロント係りと親しくなり、彼(女)の紹介で中古車を超安値で手に入れ、砂漠の真ん中では車輪が外れて 困っていると通りかかった先住民の男に助けられる。男は
前立腺が悪いバートのために特効薬をプレゼントしてくれる。さらに、未亡人と知り合い、彼女の農場で車の修理をした上、一夜の
ベッドのもてなしまで受ける。出会った人はみな彼に魅せられ、彼のために何かをしたくなる。ドナルドソン監督自身、まだ20代の頃にバートに出会い、その愛す べき人柄と破天荒な生きかたに魅了された1人だ。それ以来、彼のスピードへの挑戦を映画化したいとずっと思い続けてきたのだ そうだ。 愛するマシンとスピードにかけるバートの情熱を見ていると、「もう××歳なんだから」と、年齢で自分の生きかたを区切る必要は ない、いつだってやりたいことの適齢期なんだ、と元気が湧いてくる。無邪気に人生を楽しむバートがとても素敵だ。 【◎○△×】7 |
|
|
2月 |
|
ストーリー 『Shall We ダンス?』(96)の周防正行監督の11年ぶりの新作。身近に起こりうる “痴漢冤罪” を題材に、裁判制度の 矛盾を突いた社会派映画。 フリーターの徹平(加瀬 亮)は、就職の面接に向かう満員電車で痴漢に間違われて警察に連行される。やってない、という訴えは聞き 入れられず、徹平は容疑否認のままついに起訴される。彼の無実を信じる母(もたい まさこ)や親友・斉藤(山本 耕史)の必死の依頼 で、ベテラン・荒川(役所 広司)、新人・須藤(瀬戸 朝香)の2人の弁護士が徹平の弁護を引き受ける。 いよいよ裁判が始まった。荒川らは事件の再現ビデオを作り、目撃者探しに奔走するが・・・。 東京中央線で高校に通っていた頃のことを思い出した。電車は毎朝、手を離しても鞄が落ちないほど満員で、痴漢に遭うのもしょっ ちゅうだった。当時と違って、今は女性が相手に抗議したり、警察に突き出せるようになった。とてもいいことだと思う。
ところが今度はそれを悪用して、被害者と目撃者、とチームを組んで、なんでもない人を脅迫するような犯罪も多発しているらしい。
女性が被害者とばかりはいえない時代になった。しかし本作で身につまされたのは、被害者がそんな悪質な少女ではなく、ごくふつうの中学生であることだ。少女はそれまで何度も つらい思いをし、やっと犯人に抗議の声をあげた。徹平を故意に陥れようとしたわけではなく、本当に彼が犯人だと思ったのだ。 映画を見ていてつくづく怖いのは、こうした誰でもしがちな勘違いを、間違われたほうが「違う」と証明する方法がないことだ。 「した」ことは証明できるが、「してない」ことの証明は難しい。 担当弁護士や家族・友人らは裁判を通して徹平が無実であることを立証しようと奮闘する。逮
捕・拘留から起訴・公判、そして判決まで淡々と描かれるそれらのプロセスはひどくリアルだ。実際に痴漢を働いた中年男が「すみません、やりました」と認め、保釈金を払い、誰にも知られずもとの生活にもどっていく。一方、 「やってない」と主張する徹平は、反省の色がない、と拘留され続ける。取り調べるほうは端から疑ってかかる。被疑者の釈明など聞く 気はないのだ。 起訴されてからは、担当弁護士らは再現フィルムを作って被害少女の証言の矛盾を明らかにしたり、やっと探し出した目撃者が徹平の 無実を証言したりするが、それらは証拠能力が十分とは認められない。 緻密な取材と綿密に組み立てられた構成は意外なほどにスリリングだ。取り調べや裁判制度の矛盾を分りやすく解き明かしつつ、説明 的ではない。徹平は冤罪を晴らすことができるのか、とい
う興味が最後まで緊張を途切らせない。とくに私が意外だったのは、「裁判官も人の子」と感じたことだった。彼らもけっこう「勇気を持って告発した可憐な被害者」と 「シラを切りとおす卑劣な被疑者」的な感情に動かされる。無罪判決を出す裁判官は無能、という暗黙の評価もあるらしく、保身感情も 働く。徹平の立場になったらだれでも途方に暮れるに違いない。 徹平を演じる加瀬亮の好演が光る。ぼそぼそした声や表情など、どこにでもいそうなその辺の青年だ。「え・・・、あの・・・」 「だから、さっきから何回も言ってるでしょ、してないって・・・」。台詞の1つ1つがありのままで、それだけにかえって妙な迫力が ある。ラストの「それでもボクはやってない」という彼の呟きが胸に痛かった。 【◎○△×】7 |
|
|
1月 |
|
ストーリー 冴えない中年男のフランソワ(ベルナール・カンパン)は、ある日、宝くじで大当たりする。彼は憧れの美しい娼婦ダニエラ(モニカ ・ベルッチ)に「金がなくなるまで一緒に暮らしてほしい」と申し込む。ダニエラの条件はただ1つ、「優しくして」。 交渉は成立し、フランソワにとって夢のような生活が始まる。心臓が悪いフランソワは、彼女の魅力に時々心臓発作を起すが、 それでも会社の同僚もいぶかるほど、毎日が幸せだった。 ところがある日、ダニエラが突然姿を消してしまう。彼女にはじつはチョイと強面(こわもて)のヒモ (ジェラール・ドパルデュー)がいたのだ・・・。 ひたすらモニカ・ベルッチの美しさに圧倒された1時間半だった。これまでの出演作でも、彼女はかなり脱ぎっぷりがいいという印象を 持っていたが、本作では出産直後の豊満さを増した裸体を惜しげもなくさらす。 宝くじに当たったフランソワは、その金がなくなるまで一緒に暮らしてほしい、とダニエラに申し込
むのだが、じつは彼は心臓に持病を持っている。あまりの幸せに時々発作を起して倒れるが、それでも彼女との暮らしを止めよう
とは思わない。そんな理想の女にベルッチ以外のどんな女性が考えられるだろう。ベルッチは現場に赤子を連れてきて、授乳しながら撮影に臨んだという。そういう太母神のごとき大らかなエロティシズムが彼女の 裸体からは放射されるのだ。男性のみならず女性の私でさえにひれ伏したい思いになる。 フランソワが勤め帰りにダニエラがいるバーに立ち寄るオープニングがとても印象的だ。右手は赤いけばけばしいネオンに縁取られた 飾り窓、黄色いライトを浴びて高椅子に腰を下ろした女がいる。左手は青い光に照らされた路地。画面全体が安っぽい絵のようでもあり、 現実離れした異空間のようでもある。 路地の奥から中年男のシルエットが現われ、こちらに近づいてくる。バーの看板絵とばかり思っていた女が小さく身じろぎする。女の 手からゆっくり上がるタバコの煙。・・・こうして、いつの間にか映画の世界に引き込まれている自分に気づくのだ。 初めは純情一途だった冴えない中年男のフランソワが、ダニエラの情夫シャルリと対決し、有り金を全部吐き出すかどうかの駆け引きを する辺りから、どんどんしぶとく変化していくところが面白い。男の意地というところか。 そんな彼にダニエラが惚れ直してもどってみると、フランソワは “やけ酒” ならぬ “やけセック
ス” を隣室の女性(ファリダ・ラウアジ)と励んでいる。現場を目撃されたフランソワ、意外なことに悪びれない。「あなたが不要なら私がいつでも引き取るわ」なんて、隣りの女はのたまう。 強面(こわもて)のシャルリもダニエラを失ってみれば未練タラタラ、意気地なくもフランソワのアパートに 彼女に会いにやって来る。 ダニエラはイタリア女の逞しさそのままに、買い物袋を両手にぶら下げ、ベランダに洗濯物を干し並べる。そしてお節介なフランソワの 会社の同僚たち。登場人物がみなどこか少しずつずれている。それがなんともいえぬユーモアをかもし出す。 ラストは一見ハッピーエンド風だが、ダニエラの主婦暮らし、いつまで続くかなぁ、というのが正直な感想だ。でも彼女がまたいなく なっても、フランソワは「いい夢を見た」と案外あっさりあきらめそうな気もしたりして・・・。奇妙な味わいのラブストーリーだ。 【◎○△×】7 |
|
|
1月 |
|
ストーリー 大ヒットした香港映画『インファナル・アフェア』(02)をマーティン・スコセッシ監督がリメイク。 アイルランド系マフィアのボス、フランク(ジャック・ニコルソン)に育てられたコリン(マット・デイモン)は、捜査情報を入手する 手段として警官となり、エリート集団、特別捜査課に配属される。 一方、犯罪者の家系に生まれたビリー(レオナルド・ディカプリオ)は、その血筋を断ち切るために警官になるが、与えられた任務は マフィアへの潜入捜査だった。彼はずば抜けた頭脳と胆力で、コステロの腹心になる。 やがて2つの組織は互いにスパイがいると気付き、コリンとビリーはそのあぶり出しを命じられる・・・。 オリジナル版の『インファナル・アフェア』(02)を見た時、マフィアと警察がそれぞれ相手組織にスパイを送り込むというアイディア の秀逸さに唸ったものだった。ハリウッドがリメイクするという話がその当時すでに出ていたので楽しみにしていたのだが、どんどん時が 流れ、あれは単なる噂だったのかと思い始めていた矢先だけに、待ちに待った公開だ。
『インファナル・アフェア』に思い入れの深いファンにはいささか物足りない出来のようだが、私はとても面白かった。オリジナル公開から5年も経つので具体的な比較は難しいが、大きく違うのは、主人公のビリー・コスティガンとコリン・サリバンが 相手組織にスパイとして潜入するまでを時間をかけて描いている点だ。2人の背景がはっきりしたことで、ストーリーに感情移入しやすく なった。 とくに、マフィアに潜入する覆面警官ビリーの人物造形がきめ細かくて、映画の陰影を濃くしているように思える。 空港で荷物運搬係りをしていたビリーの父親は、マフィアの世界では名の知れた男だった。身内には麻薬の売人のいとこをはじめ犯罪者 が多い。そうした血を嫌って警官の道を選んだのに、彼に与えられた任務はその犯罪者の群れに身を投じることだった。 序盤、バーで始まった暴力沙汰で拳銃の発砲音に一瞬目をつぶるビリーの顔を見て、私は「あ、この人は本当にこういうことが嫌い なんだ」と思ったものだ。 『インファナル・アフェア』でトニー・レオンが扮する覆面警官ヤンは、長い潜入生活に疲れ、足を洗いたいと思う。警察機構の中で 順調に出世街道を歩むマフィアのスパイ、アンディ・ラウの精悍さもよかったが、トニー・レオンのやつれた色気がたまらなかった。 本作のディカプリオにはそうした成熟した男の翳りはまだないが、その分、若さだけが持ちうる
繊細さと大胆さが、ビリーの人間像を深くしている。身分を隠して犯罪組織に潜入する恐怖と緊張、さらに意味のない残虐行為への嫌悪。ディカプリオはそうしたビリーの苦悩を眼差しと 眉根のしわに濃く滲ませて、久々に彼らしいいい演技を見たような気がする。 老いてもなおぎらぎらした暴力の匂いをまき散らすマフィアのボス、コステロに扮したジャック・ニコルソンがさすがの存在感。 そして、ビリーの上司・クイーンナン警部に扮したマーティン・シーン。一見穏やかながら、悪に対しては不退転、ビリーの境遇や心情を 理解しながらもあえて組織に送り込む。いぶし銀のような芯の太さが印象に残った。 思いがけないどんでん返しが待っていた『インファナル・アフェア』に比べると、怒涛のようになだれ込むラストはいかにもハリウッド 的。ある意味、大胆な結末という気がした。 【◎○△×】7 |
|
|
2月 |
|
ストーリー 高校の校長を定年退職した松太郎(緒形拳)は、妻をアルコール依存症で亡くし、ひとり娘とも絶縁状態。家族を顧みることはなかった 人生を後悔しながら、アパートで一人暮らしを始める。 隣室は水商売の母親(高岡早紀)と幼い少女(杉浦花菜)の親子が住んでいる。やがて松太郎は、サチというその少女が母親に虐待 されていることに気づく。見かねた松太郎はサチを連れ出し旅に出るが、それは誘拐と見なされ、警察が2人のあとを追うのだった・・・。 『少女』『るにん』で監督としても高く評価される奥田瑛二の監督第3作。モントリオール映画祭でグランプリを獲得した。 監督・奥田瑛二の前作『るにん』の重厚な作風に引かれた私としては、一転、ひょうひょうとしたタッチにやや戸惑い気味。小さな荷物 を持った松太郎が土手に座って川を眺める。6畳一間の小さなアパートをさっぱりと片付ける。老境に至って、要らぬものをそぎ落として いるような清々しさに、やがて私は「これも悪くない」と思い始める。
なかでも引かれたのは、松太郎が少女の後をつけて、秘密の隠れ場所を見つけることだ。ひっそりと安らぎで満たされた場所。かつて
家族に関心を向けたことのなかった松太郎の、すべてを捨てた心の空白に、隣室の小さな少女がすっと入ってきた。見えないものが
見えてくる。年を取るとはこういうことか、とふっと思う。しかし、サチにとってはどうだったのだろう。彼女のアパートの居場所はいつもテーブルの下だ。まるで、母親から見えなくなること で、「いない」人間になろうとしているみたいに。秘密の場所を見つけられて、サチは自分に気づいてくれる人がいると感じたのか、それ とも安全を脅かされる気がしたのか・・・。 多分、両方だったのだろうと思う。松太郎を拒みはしないけれど、心を開きもしない。絶妙な距離感を彼女は保ち続けるのだから。 松太郎とサチの旅に途中からに同行する若者・ワタル(松田 翔太)が、ストーリーに変わった味わいを加える。「オレ、帰国子女。男 だけど子女」と皮肉っぽい言葉をあっけらかんと口にする。 家出中と分って、松太郎がつい威儀を正した声で「両親が心配すると思わないのか」と叱ると、
「あれ、おじさん、元学校の先生?」と軽くいなす。前身をあっさり見抜かれて、思わずたじろぐ松太郎。染みついた既成の枠から抜け切れない松太郎と、風のように自由なワタル。 私が興味を覚えるのは、既成の枠は “硬直性” という弱点を持つが、拠って立つ強さともなり、一方、自由さは柔軟な人間性につな がるが、いつ崩れるか分らない脆さも内包するということだ。 松太郎はサチを苛酷な境遇から助け出したい一心で連れ出すけれど、それだけではこの幼い少女の心を開くことができない。ひどく胸が 痛くなる場面がある。ファミリー・レストランで鉄板焼きのハンバーグを注文すると、サチはそれを突き飛ばしてしまうのだ。彼女に とって安心できる食べ物はメロンパンと冷たい牛乳だけ。彼女の外界への不信が恐ろしいほどに表われている。 そんなサチの中にワタルはスッと入っていく。大人でもなく子どもでもなく、存在しているようでし
ていない。そんな透明感がサチの警戒心を解いたのだろう。彼は現れた時と同じ唐突さで、ある朝、自死してしまう。“生への執着”の希薄さは、現代の若者の一面をシンボリックに表わすよう でもあり、虐待を生き延びるサチの生命力を際立たせるようでもある。 背中に天使の羽を着けた少女と老人の旅はまるでメルヘンのようだ。松太郎を誘拐犯として追う警察の動きがなければ、そのまま2人と もすっと山の彼方へ消えてしまいそうな気さえする。じっさい、サチは目的地の草原にたどり着いた時、白い鳥を追って虚空に身を翻す。 それは現実なのか、松太郎の見た幻だったのか・・・。 しかし、少女をしっかりこの世に抱きとめたのは、紛れもなく老人の「生」の強さだった。それが私の胸を熱くする。 【◎○△×】7 |
|
|
1月 |
|
ストーリー 第二次世界大戦前夜の1937年、夫の莫大な遺産を手にしたヘンダーソン夫人(ジュディ・デンチ)は、ロンドンのウィンドミル 劇場を買い取る。支配人として雇ったヴァンダム(ボブ・ホスキンス)が企画したノンストップ・レビューは初めこそ大当たりするが、 すぐにほかの劇場に真似られて客足が落ちる。夫人は舞台でヌードを見せることを思いつき、幼なじみの風紀担当官・ローマー卿 (クリストファー・ゲスト)を説き伏せるのだが・・・。 1930年代、イギリス初のヌードショーを上演し、ショービジネス界に新風を吹き込んだローラ・ヘンダーソン夫人の実話をもとに、 当時の華やかなステージと舞台裏を生きいきと再現したバックステージ映画。 ビクトリア朝風の厳格な道徳観が長く続いたイギリスで、劇場でヌードショーをしようと最初に思いついたのが女性だった、という のが意外でもあり愉快だ。ウィンドミル劇場を買い取ったヘンダーソン夫人が、若くして戦死した息子の遺品に女性のヌード写真を発見 したことがきっかけだ。眉をひそめるのではなく、本当の女性の裸体を知らずに死んだ息子へのいとおしみと、同じ年頃の戦地に赴く 若者たちへの思いが重なって出てきた発想なのだ。
この時代にこの発想、ヘンダーソン夫人って自由で伸びやかな人だったんだなぁ。恵まれた人生を過ごしてきた人には、時々、苦しみ
や悲しみに汚染されず、素直な屈託のなさを生涯失わない人がいる。ヘンダーソン夫人もこうした天性の魅力を備えた人だったようだ。幼なじみの風紀検閲官、クローマー卿から上演許可を取ってしまう場面が面白い。「絵画の女性ヌードはなぜ許されるの」「芸術 だから」「それなら舞台も動かなければいいのでしょう」。詭弁に近い理屈だが、合間に上等のワインを勧めたり、巧みに話を逸らし たり、気がつけば見事に夫人の術中にはまっている。無邪気で茶目っ気いっぱい。富豪夫人を演じるジュディ・デンチがいかにも 楽しそうだ。 ダンサーたちを説き伏せてヌードにするまでがまたひと騒動。ここで手腕を発揮するのが劇場支配人のヴァンダムだ。失業中の身で 夫人に雇われたにもかかわらず、ショービジネスのプロとしての誇りを失わず、夫人の天真爛漫な我が侭にも決して妥協しない。 夫人は夫人で知恵を絞って対抗しながらも、そういう彼に一目置いている。 2人の関係が映画に快い緊張をもたらすのだが、そんなヴァンダムだから、一旦納得すればヌードショーの実現に全身全霊を込める。 ボブ・ホプキンスの丸っこい体躯・風貌と鋭い眼のアンバ
ランスはまさにヴァンダムそのものだ。こうして実現した女性ヌードはほんとうに見事だ。ボードヴィル・ショーの背景として、さまざまな意匠をこらした装置の中に全裸の 女性が浮かび上がる。ピクリともしない彫像のような姿は、たしかに “芸術” と言いたいほど美しい。若い兵士たちの口笛、拍手、 歓声が館内にあふれる。 なにかの弾みで彼女たちが動いたりすると(白ネズミの出現、空襲、などなど)、今度はドキッとするほど生々しく色っぽい。終盤、 彼女たちの1人が観客に向かってウィンくするアップ・ショットがある。あんまりセクシーで、女性の私でもグラッとした。 第二次世界大戦の激化でロンドンの劇場が次々に閉鎖されるなかで、“ウィンドミル劇場” だけは公演を続ける。戦争が背景になって いるとはいえ、よき時代のショービジネスの楽しさが満喫できた映画だった。 【◎○△×】7 |
|
|
1月 |
|
ストーリー 不運続きのスレヴン(ジョシュ・ハートネット)は友人ニックを訪ねてニューヨークにやってくる。ところが彼は不在で、スレヴンは 多額の借金を抱えるニックと間違えられてギャングに誘拐され、犯罪に巻き込まれる。敵対するギャング、“ボス”(モーガン・フリー マン) と “ラビ”(ベン・キングズレー)の争いには、つねに謎の殺し屋 “グッドキャット”(ブルース・ウィリス)の影が あった。 一方、スレヴンはニックの隣室に住む女性検死官リンジー(ルーシー・リュー)と一緒にニックの行方を捜すのだが・・・。 ジョシュ・ハートネットはこれまで格別何という感じを持ったことはないのだが、本作のジョシュはもう掛け値なしにかっこいい。 それだけで映画を見て得した気分になる。そしてブルース・ウィリスの脇に徹した渋さとルーシー・リューのキュートさ。彼女、もう けっこうな年のはずだけど(たしかにジョシュより年上というのは分るけど)なんて可愛いんだろう! それにモーガン・フリーマ、ベン・キングズレー、スタンリー・トゥッチとくる。豪華キャストが売り物
とはいえ、これだけ粒が
そろうとそれだけでも楽しめる。冒頭5分間で、バババッといくつかの殺人が起こる。だれが何の理由でだれを殺しているのかはまったく分らない。ところがこれが 全部あとの本筋の伏線になっている。冒頭5分間をしっかり見ておかないといけない。 タイトルも重要だ。原題は “ラッキー・ナンバー・スレヴン”。“セヴン” と主人公の名前 “スレヴン” が掛けてある。邦題では そこまで分らないというなかれ。序盤、八百長競馬の入りになったら、「7番の馬、主人公はスレヴン、あら?」と思わなければいけ ない。 なんて偉そうなこと言ってるが、私もすっかり忘れてストーリーに入り込んでいた。後になって気づいただけだが・・・。 リストラで首になり、帰ってみればアパートは改修工事、仕方なく恋人のところに転がり込むと浮気のまっ最中だった。友人 ニックを頼ってニューヨークに来ると、空港では引ったくりに遭
い、やっとたどり着いたらニックは留守。おまけに彼に間違えられてギャングに拉致され、彼が作った多額の借金返済を迫られる
・・・。とまー、よくもこれだけそろえたと感心するほど、スレヴンは超アンラッキーな男だ。ギャングに連行され、いろいろあってもとの ニックのアパートに戻ってくるまで、ずっとシャワー直後のバスタオルを腰に巻いたきりの格好というのがなんともユーモラス。向かい 側のビルで監視している敵対ギャングの一味が、「あの裸の男は何なんだ」なんて言う。たしかになんかヘンなのだ。 終盤、気前よく(という言い方も変だけど)ギャングがバシバシ殺されてもあまり陰惨な感じがしないのは、こうしたとぼけたムード が全体を覆っているせいだろう。 映画というのは大方の人は、こんな流れだから次はこういくのかな、とある程度予想しながら見るのがほとんどだと思うのだが、この 映画はそれがちょこっとずつ裏切られる。「え、そうなるの? じゃ次はこう?」と軌道修正すると、それがまた違う方向にいく。 映画後半に入るとストーリーの核はある程度見えてくるが、それでも懲りずにしつこく小さな謎をしかけてくる。それがなかなか 楽しい。晴天の霹靂みたいな無理な大どんでん返しではないところがいい。 スレヴンが新しい人生に旅立つ空港でのラストシーンは、フランス映画のフィルム・ノワールを思わせる洒落た味わいが残った。 【◎○△×】7 |