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今月見た新作映画 2006年

10月〜12月



12月

硫黄島からの手紙

2006年  アメリカ  141分
監督 クリント・イーストウッド
出演
渡辺 謙、二宮 和也、伊原 剛志、加瀬 亮
中村 獅童、裕木 奈江

  ストーリー
 クリント・イーストウッド監督が『父親たちの星条旗』に続いて、日本から見た硫黄島を描いた、“硫黄島二部作” の第二弾。
 戦況が悪化の一途をたどる1944年6月。アメリカ留学の経験を持ち、アメリカ軍の圧倒的な戦力をだれよりも知悉した陸軍中将・ 栗林(渡辺 謙)が硫黄島司令官に着任した。彼は本土防衛の 最後の砦となる硫黄島を死守するために、定石通りの作戦を取らず、山中にトンネルを張り巡らせて抵抗する奇策に出る。
 伊藤中尉(中村 獅童)ら反発する古参将校たちがいる一方、ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技金メダリスト、“バロン西” こと 西竹一中佐(伊原 剛志)のような理解者もいる。1945年2月19日、ついにアメリカ軍が上陸を開始した。
 5日で陥落すると思われていた硫黄島で1カ月以上も抗戦した日本軍の戦いぶりを、栗林をはじめ若き兵士・西郷(二宮 和也)ら何人 かの人物に焦点を当てて描いていく。
 
  一口感想
 一兵卒の目を通して硫黄島の戦いを描く視線に新鮮さを感じた。新婚の妻を残して徴兵された西郷は、「こんな島なんかアメリカに やっちゃえばいいんだ」「早く国に帰りたい」と同僚兵士に愚痴をこぼす。当時、こんなに自由に自分の思いを口にする兵士がいたのか な、この辺りはアメリカ映画らしいところだな、と思わないではないが、心中で思っていた兵士は多かっただろうと思う。

 それを聞き咎められて上官から制裁を受けているのを、赴任してきたばかりの栗林中将が気づ いて制止する。西郷はこの後、もう一度、彼に助けられる。それは、「兵士を無駄死にさせるな」という彼の無線命令をたまたま耳に した西郷が、擂鉢山(すりばちやま)をアメリカ軍に奪取され、同僚兵士と本隊にたどり着いた時だ。
 「なぜおめおめと生きて帰ったか」と激怒した上官・伊藤中尉に斬首されようとしていた時、栗林が「私の兵を殺すな」と厳しく 止めるのだ。
 栗林はアメリカ留学の経験があり、いわゆる親米派の知識人だったそうだ。戦前の葉隠れ的な軍人精神ではなく、合理的な 思想の持ち主だったらしい。それが、こうしたところによく表われている。

 兵士たちには玉砕を命じながら、自分は専用機でいち早く戦地を脱出し、戦後を生き延びた上級将校も多かった中で、彼は無駄な死を 戒めながらも、「我は常に諸士の先頭にあり」と兵士たちを勇気づけ、そして彼らとともに戦死した。これは “友情のメダル” で 知られている、ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技の金メダリスト、バロン西にも共通する。
 戦争や戦死を称揚するつもりは毛頭ないが、多くの兵士の命を支配する立場にいる将校は、自らの命に対しても厳しい抑制と潔さが 要求されると思う。そういう意味で、理想的な軍人の姿が西郷の目を通して描かれるのだ。

 しかし、本作のズシリとした手応えは、むしろ繰り返し読まれる家族への手紙から伝わってくる。激しい戦闘のさなかに、多くの兵士 が届く当てのない手紙を家族に書き続ける。西郷は身重の妻(裕木 奈江)に思いを馳せ、栗林は子どもたちに宛てた手紙を書く。兵士 たちが洞窟の中で、家族から託された千人針を腹に巻く場面は、見ていてとても切ない。みな望郷の思いに灼かれ、生 きて帰ることを望みながら、死んでいったのだ。
 この手紙の1つ1つに兵士たちの家族への思いが込められている。しかし、それは戦後数十年間、だれの目にも触れることなくずっと 硫黄島に埋もれていたのだ。
 戦後、調査団が洞窟の中で手紙の束を発掘する冒頭、驚くほどの数の手紙が風に舞い砂浜に落下するラスト。過去と現在をつなぐ回想 形式の演出が見事だ。

 硫黄島二部作を見終えて感じるのは、両作品に共通する戦場に散っていった名もなき多くの兵士たちへのイーストウッド監督の眼差し だ。温情あふれる将軍を演じた渡辺謙の風格、西郷に扮した二宮和也の伸びやかな演技がともに印象深い。

 ところで、イーストウッド監督は「鬼畜米英」を叫んでいた日本人兵士が、捕らえたアメリカ兵もまた自分たちと同じ人間だと知る 場面を描く一方で、投降した日本兵を「足手まといになる」と射殺するアメリカ兵も描く。自国民の人間的側面と非人間的側面の両方を 片寄りなく描く態度に映画製作者としての誠実さを感じ、感銘を覚えた。
  【◎△×】7

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12月

敬愛なるベートーヴェン

2006年  イギリス/ハンガリー  104分
監督 アニエスカ・ホランド
出演
エド・ハリス、ダイアン・クルーガー、マシュー・グード
ジョー・アンダーソン、ラルフ・ライアック

  ストーリー
 “第九” が生み出されるまでを背景に、53歳の孤高の天才作曲家と23歳の架空の女性の交流を描いた音楽ドラマ。
 1824年のウィーン。耳が不自由になっていたベートーヴェン(エド・ハリス)は、交響曲に合唱を組み込むという意欲的な試みに 挑みながら、初演が近づいてもまだ曲が完成していなかった。そんな彼のもとに音楽出版者のシュレンマー(ラルフ・ライアック)が 送り込んできた新しい写譜師は、作曲家志望の音楽学校生アンナ(ダイアン・クルーガー)だった。
 女性と分ってベートーヴェンは激怒するが、彼女の才能を認め写譜の仕事を任せることにするのだが・・・。
 
  一口感想
 音楽室に掲げられていたベートーヴェンの肖像画は、モジャモジャ髪とへの字に結んだ口、眉間のシワが深刻そうで、見るからに気難 しい顔をしている。日々どんな暮らしをしていたのか想像すらできない。否、想像なんかしたらぶっ飛ばされそうだ。
 この映画に描かれるベートーヴェンは、こうした私の先入観を拭い去る人間的な弱さを持つ人だった。それがよく表われているのが、 甥カール(ジョー・アンダーソン)との関係だ。
 カールは、ピアニストにしたいという叔父の期待の重さに耐えかねて、放蕩に身を持ち崩している。ところがベートーヴェンはその 現実が見えない。
 というより、本当は分っているのだが認めたくないのだ。難聴という音楽家にとって最大のハンデさえ、神が賜った恩寵と受け止める ほど強い精神力を持つベートーヴェンが、甥に関しては盲目に近いほど現実から目を逸らす。カールへの溺愛は、家庭に恵まれない彼の 孤独を感じさせて、痛々しい気持ちになる。

 部屋は散らかり放題、階下に水が洩れるのも構わず室内で水浴する無神経さ、わがまま横柄な野獣のごとき男、という本作のベートー ヴェン像は、肖像画の苦虫を噛み潰したような哲学的な顔からは意外な気もするが、反面、さもあろうと納得もする。
 傑作なのは、写譜師マリアの曲を「オナラみたいな曲だ」「プ、プ、プ」と、散々からかうところ。彼女の才能を認め、そのサポート に助けられながら、まるで遠慮がない。それでも、どれほど深く彼 女が傷ついたかを悟ると、心から素直に詫びる。エド・ハリスが造形するベートーヴェンは傲慢と天衣無縫を併せ持った人間的魅力に 溢れている。
 そして、形式と構造に囚われるマリアの作曲法に、「神の声を聞け」と諭し、耳が聞こえなくても頭の中は音で溢れていると語る ベートーヴェンは、私のように音楽の素養のないものでも、紛れもない天才だったのだなと頷いてしまうのだ。

 圧巻は、第九交響曲が初めて聴衆の前で演奏される場面。あの傲岸不遜のベートーヴェンが、耳が聞こえないことで、初めて不安に おののく。そんな彼のために、マリアはバイオリ二ストたちの足元に身を潜め、テンポとタイミングを身ぶりで彼に伝える。心身が一体 となり、渾然と溶け合っ た2人の指揮は、性的な恍惚感さえ 漂わせる。現実にはありえない設定だが、少しも不自然に感じられない。
 《歓喜の歌》 の “入り” が近づき舞台にみなぎる静かな緊張感、一気に合唱に入る高揚感は思い出してもぞくぞくする。聴衆の万雷 の拍手にも気づかず指揮台に立ち尽くすベートーヴェンを、マリアがそっと振り向かせる。
 約10分に及ぶこのシーンを見るだけでもこの映画を見てよかったと思う。

 ダイアン・クルーガーの清冽な美貌に一驚。音楽学校の優秀な学生であっても女性の地位の低かったこの時代、大作曲家ベートーヴェ ンに臆せずに自己主張し、一方で母のような慈愛で彼の孤独を包み込む。彼女が演じるマリアの凛とした立ち姿と温かさが印象的 だった。

 マリアが臨終の床にいるベートーヴェンのもとに駆けつける途中、馬車から羊飼いがバイオリンを弾く姿を見て、弦楽四重奏 《大 フーガ》 の本質を天啓のごとく悟るオープニングがすごい。私は 《大フーガ》 の何たるかを知らないのだが、このシーンの中世絵画の ような荘重さと美しさが、この曲のただならなさを視覚的に伝えてくる。アニエスカ・ホランド監督の力量を感じた場面だった。
  【◎△×】7

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12月

百年恋歌

2005年  台湾  131分
監督 ホウ・シャオシエン
出演
スー・チー、チャン・チェン、メイ・ファン、ディ・メイ
チェン・シーシャン、リー・ペイシュアン

  ストーリー
 台湾の名匠ホウ・シャオシェン監督が、3つの時代を背景にすれ違う男女の恋愛模様をオムニバス形式で描いたドラマ。
 第1話 :1966年、兵役をひかえた男(チャン・チェン)が、ビリヤード場で働く女(スー・チー)と出会い恋に落ちる。休暇で 男は彼女に会いにもどってくるが、すでに女の姿はそこにはいない。
 第2話 :1911年、遊郭に通う若い外交官(チャン・チェン)と芸妓(スー・チー)の間に流れる穏やかな時間。しかし、外交官は 芸妓の深い想いに気づかぬままに旅立つ。
 第3話 :2005年、台北のカメラマン(チャン・チェン)とクラブ歌手(スー・チー)はたがいに激しく惹かれあうが、2人には それぞれに恋人(チェン・シーシャン、リー・ペイシュアン)がいた。
 
  一口感想
 1911年、1966年、2005年の3つの時代を背景にしたオムニバス形式の恋物語。登場する3組のカップルはいずれもスー・ チーとチャン・チェンが演じている。3話はそれぞれに違う趣向がこらされているが、1966年のビリヤード場を舞台にした第1話の ストレートな語り口が、私には 一番印象に残った。

 当時大ヒットしたプラターズの “煙が目にしみる” が流れる中で、男女が交互に球を撞く冒頭シーンが素晴らしい。2人の関係に ついて何の説明もなく、どういう成りゆきでこの場面になったのかも分らない。互いが視線を交わすこともなく、ゆっくりと無言のまま キューを操り、身体の位置を変え、玉を撞く。
 過剰なものも、足りないものもない。あるのは2人の佇まいからかもし出される濃密な空気と、嫋々たるオールディーズの調べ。こう いうシーンにスー・チーとチャン・チェンほど似つかわしい俳優はそういないんじゃないかと思う。存在そのものがセクシーなのだ。

 ところがストーリーのなかで2人が展開する恋は意外なほど清純。兵役の休暇で帰省した男は、転々と勤め場所を変える女をやっと 探し当てる。しかし彼は声をかけず、そっと彼女をみつめるだけなのだ。それに気づいた女の戸惑ったような照れ笑いがなんとも初々 しい。
 再会した2人が深夜バスを待ちながらそっと手を握りあうところで物語は終わる。青春の輝きがノスタルジーとともによみがえり、 いつまでも余韻に浸りたくなる。

 1911年の遊郭を舞台にした第2話はサイレント映画の体裁になっている。屋外は時々廊下の向こうに見える庭の景色を除けば一切 出てこず、室内はほの暗いランプの光で照らされる。それだけでここが官能の世界であることが雄弁に語られる。
 身籠った妹格の芸妓が大枚の持参金と引き換えに身請けされ、入れ違いに少女が養女という形で買われてくる。どんなに美しく装われ ても、ここは人身売買の世界なのだ。淡々とふる舞う芸妓だが、その思いは外交官には届かず、2人の恋はすれ違うしかない。
 スー・チーの中国風ガウン姿が美しく、チャン・チェンの辮髪がなまめかしくて、切なくも不思議な味わいがある。

 2005年を舞台にした第3話は、前2話に比べると、主人公の男女それぞれに恋人がおり、さらに女の恋人は同性、という具合に 構成が複雑だ。
 ラブシーンらしいラブシーンが初めて登場するのはこの第3話だが、主人公たちの心が触れ合っている感じは少しもし ない。ハイウェイをバイクで疾走する時、2人を包むのは恋の高揚ではなく、都会の荒寥とした空気なのだ。
 ここにはたしかに荒々しくも現代的な愛の不毛がある。これがホウ・シャオシエン監督の器の深さなのかもしれないと思った。
  【◎△×】7

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12月

リトル・ミス・サンシャイン

2006年  アメリカ  100分
監督 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス
出演
グレッグ・キニア、トニ・コレット、スティーヴ・カレル
アラン・アーキン、ポール・ダノ、アビゲイル・ブレスリン

  ストーリー
 アリゾナに住む9歳のぽっちゃり少女オリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)の夢は、美少女コンテストでビューティー・クィーンに なることだ。家族は「負け犬になるな」が口癖の、そのじつ甲斐性なしのパパ(グレッグ・キニア)、口の悪いヘロイン常習のおじい ちゃん(アラン・アーキン)、9ヶ月間沈黙を続けるお兄ちゃん(ポール・ダノ)、失恋して自殺未遂を起したゲイの伯父さん(スティ ーヴ・カレル)、崩壊寸前の家族をまとめようと奮闘するママ(トニ・コレット)の6人だ。
 ある日、憧れのミス・コンに繰り上げ出場の朗報が舞い込む。家族はオンボロ・ミニバスに乗り込み、開催地のカリフォルニアを 目指して出発するのだが・・・。
 
  一口感想
 バラバラに壊れかかった一家6人が、車でアメリカ大陸を旅するうちに家族の絆を確認し、再生のきっかけをつかむまでを描いた ロード・ムービー。
 この6人がそろいもそろって曲者ばかり。ポルノ雑誌愛好家でヘロイン中毒の祖父、「負け犬はクズだ」と独自の成功論売り出しに 懸命な “負け犬恐怖症” の父リチャード、すぐパニックに陥り、食事といえば買ってきたフライドチキンとスプライトで間に合わせる 母シェリル、恋人に振られ自殺未遂を起こしたゲイのプルースト研究家の伯父・フランク、パイロットになるまでは口を利かない誓いを 立て、9ヶ月間沈黙中の長男ドウェイン、そして美少女コンテストの優勝を夢見て特訓に励む 9歳のオリーヴ。

 家族のあり方は食事風景にもっともよく表れるという。森田芳光監督の『家族ゲーム』(83)では家族が横一列に並んで勝手に食事を する場面が、家庭内のコミュニケーション不全を印象的に表わしていた。
 本作では、冒頭、家族はテーブルを囲んで一見当たり前に始まるが、会話はバラバラ、すぐに怒鳴りあいの喧嘩になる。とても 食事なんていう状況じゃない。フランクが呆れて「いつもこうなのかい?」と低声で聞くと、ドウェイン、声を出さずにニタッとする。 家族を冷静に観察しているところはなかなかだが、他人事みたいにしらーっとしているのがいかにもおかしい。

 こんな6人が、オリーヴの出場するミス・コンテストの開催地目指して、オンボロ・ミニバスで出発するのだが、バスはすぐに故障を 起して動かなくなる。そこでリチャードが運転席に残り、あとは全員、後ろで押すことになる。エンジンがかかり、ゆっくり走り出した バスにまず祖父が乗り込み、身を乗り出してオリーヴを抱え上げる。次にシェリルが飛び乗り、続いてフランク、最後にドウェインが どうやら車内にもぐりこむ。
 どこかに停車するたびに毎度毎度でこれを繰り返す。本人たちが真剣なだけに、見るほうはもう可笑しくてたまらない。今までてんで の方向を向いていた家族が、否も応もなく力を合わせるのだ。おまけにバスは黄色とくる。日本人ならごく自然に「幸せの黄色いハンカ チ、もとい、バス」なんて唱えたくなる。

 途中で祖父が発作を起して急死しても、一家の旅は止まらない。開催日までに目的地に到着するためには、祖父の遺体をめぐって違法 行為も辞さない。ふつうならとんでもないことなのだが、 一家がじわ〜っと家族の一体感を感じ始めているのが分り、厭な気分にはなら ない。チョイ悪爺ちゃんもあの世でけしかけているような気がしてくるから不思議だ。

 道中、リチャードの仕事の挫折が明らかになったり、フランクが恋敵の成功を目の当たりにしたり、ドウェインはパイロットの夢が 潰れたり、と一家は次々にトラブルに見舞われるが、そのたびに一家の結束が強まっていく。
 そしてクライマックスは、ミス・コン会場でのオリーヴのパフォーマンス。大人顔負けの色気とシナを作る少女たちに交じって、 オリーヴはじつに子どもらしく愛らしい。家族が一体となっての応援ダンスは笑い転げながらも多いに感動させられる。
 現代の病を一手に引き受けたような家族だが、深刻にならず、軽い語り口で楽しめた。
  【◎△×】7

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