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7月 |
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ストーリー テレビの人気キャスター、ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)は編集者の妻アンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と12歳の一人 息子ピエロの3人で、豊かで平穏な暮らしを楽しんでいた。 ある日、送り主不明のビデオテープが届く。ジョルジュたちの家が正面から延々と撮影され、だれかが一家を監視していることを示して いた。同時に、血を吐いている子どもや首を切られたにわとりが描かれた不気味な絵も届く。ビデオと絵は次々に送られ、やがてジョル ジュは6歳の頃のある記憶を呼び覚ます・・・。 『ピアニスト』のミヒャエル・ハネケ監督によるミステリー。カンヌ映画祭では監督賞を含む3部門を受賞した。 私にとって本作の分かりにくさは、テーマがフランスのアルジェリア問題を取り上げていることにあるのではないかと思う。映画序盤、 道路にいきなり飛び出したジョルジュが、ぶつかりそうになった自転車を罵倒する場面がある。自転車に乗っていた黒人青年は「注意 しなきゃいけないのはそ
っちの方だろう」と激怒する。私にはこの場面がとても印象的だった。フランス人の支配民族に対する問答無用の高圧的態度と、それに対する被抑圧者の怒りが揶揄 をこめて表わされている気がしたからだ。 映画が徐々に明らかにするのは、ジョルジュは子ども時代、アルジェリア人の雇い人の子供マジッドを苛めていたことだ。マジッドの 両親はアルジェリア独立運動が起こった61年、デモに参加して警官隊に殺されている。 本作が、子ども時代のイジメの被害者と加害者の意識のズレを描いているものなら、40年も経った今になって、いきなり被害者 が復讐を始めたり、加害者の前で自殺してしまう理由が分か
らない。被害者・加害者それぞれの息子がラストシーンで接点を持つ意味も分からなくなる。(このラストはいろんな解釈が成り立ちそう
だが、ここでは立ち入らないことにする。)この映画は個人間の加害・被害の問題を取り上げているのではなく、ジョルジュ、マジッドを通して、フランスがアルジェリアに対して 行った加害行為と、それがアルジェリアにいかに深い傷を与えたかを描こうとしたのだろう。 そこまでは理解できるものの、それから先が具体的にイメージできない私には、もう1つ踏み込めないもどかしさがある。 サッカーW杯のジダン選手の “頭突き事件” では、彼がアルジェリア移民であることから、イタリアのマテラッツィ選手はそれに 触れて侮辱的なことを言ったのが原因ではないか、という憶測が報道されていた。 事の真偽はともかく、フランス人ならそれだけで発言の内容が大よそ見当がつくのだろう。しかし、日本人の私には想像すらできない のだ。
むしろ私には、この事件をきっかけに、ジョルジュとアンヌの一見平穏だった夫婦関係に内包されていた危機が、徐々に露わになり 始める様子に興味を引かれた。 送られてきたビデオを再現する場面が何度か出てくる。豊かな生活を思わせるマンションや、どこか見知らぬ街の通り、あるいは 殺風景なアパートの廊下・・・、これらを写しただけの映像が、時に巻き戻されたり、不安定に揺れたりしながら、延々と流される。 徐々に不穏な空気が醸し出され、緊張感が高まっていく。ハネケ監督の手腕はさすがだなあと思う。 こういった場面に惹かれる私は、『ピアニスト』(01)のように個人の内奥に切り込んでいく映画を見たかったと思う。 【◎○△×】7 |
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8月 |
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ストーリー 『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』の黒木和雄監督の【戦争三部作】最終編。公開を目前にして、2006年4月に急逝した監督 の遺作となった。 昭和20年の春。鹿児島の片田舎に兄夫婦(小林 薫、本上 まなみ)と暮らす紙屋悦子(原田 知世)に、縁談が持ち上がる。相手は、 悦子がひそかに思いを寄せる明石少尉(松岡 俊介)の親友・永与少尉(永瀬 正敏)だった。寂しさを覚えながらも、悦子は永与と会う ことにする。 桜の咲くある日、明石に伴われて、永与が悦子の家にやって来る。 戦争を描いた映画といっても、戦闘や爆撃などのシーンはいっさい登場しない。市井の暮らしを静謐なタッチで描きながら、徐々に 背後にある戦争の影を浮き彫りにしていく。 悦子は兄の友人・明石をひそかに愛しているが、兄が持ち込んだ縁談の相手は、明石の親友・永与だった。それが明石の紹介だと知り、 悦子は複雑な思いになる。 女学校時代からの親友で兄嫁でもあるふさは察しているが、兄の安忠はそんな妹の気持ちにぜんぜん気づいていない。父親にしろ兄に しろ、男ってそういうところがあるのよね、とつい共感。
言葉少ない悦子、彼女に代わって夫をとっちめるふさ、察しが悪くとんちんかんな安忠、食卓を囲んでの3人の会話がいかにもあり
そうな家族模様を表わして、笑いを誘われる。屈託のない会話がいつの間にかストーリーの核心に近づいている構成が巧み。さり気なさがリアルな原田知世、本上まなみ、小林薫の 俳優陣が素晴らしい。とくに、本上まなみの弾むような演技が印象に残る。 特攻を志願した明石は、後を託す思いで親友・永与に悦子を紹介したのだ。最後の挨拶に現われた明石を見送ったあと、悦子は一人 号泣する。 たがいの思いを言葉で伝え合うことなく終わった愛。こうした抑制された愛は、現代ではもう失われてしまったと思う。それだけに、 そのつつましさが悲しく、また愛おしいものに思える。凛とした松岡俊介、素朴な永瀬正敏、それぞれに好演。 劇作家の松田正隆が、母の体験をもとに書き上げた戯曲がもとになっているそうだ。場面が悦子が兄夫婦と住む家という限られた空間 に固定され、登場人物も少なく、ほとんど座ったままで交わす会話で進んでいくストーリーは、もとが舞台劇だったということで納得。 しかし、映画には映画的な手法があるわけで、そういった工夫があってもよかったのでは、という疑問も一方では残った。 【◎○△×】7 |
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8月 |
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ストーリー 半世紀にわたってロッキー山脈で罠猟を続けてきたノーマン・ウィンター(ノーマン・ウィンター)は、山に冬の気配が近づいた頃、 新しい猟場の小屋を作り、冬の狩猟の準備を始める。 ある日、2週間の予定でドーソンの町に買出しに出かけた彼は、思いがけない悲劇に見舞われる。犬ぞりのリーダー、シベリアン・ ハスキーのナヌークが、車に轢かれて死んでしまったのだ。ウィンターにとって大きな痛手だった。帰りぎわ、彼は町の友人からシベリ アン・ハスキーの子犬をもらう。ネイティヴ・アメリカンの妻ネブラスカ(メイ・ルー)は、子犬をアパッシュと名づけ、親身に世話 するのだった。 ウィンター本人が出演し、犬ぞりで8000kmのシベリア横断をなしとげた冒険家、かつドキュメンタリー映画作家でもあるニコラス ・ヴァニエが監督している。 アラスカに隣接するユーコンの山岳で、半世紀にわたり罠猟師として生きてきたノーマン・ウィンターの暮らしを追っている。ここに 描かれるのは、すべて彼がじっさいに体験したことばかりなのだそうだ。際立ったストーリーがあるわけではなく、ウィンター本人が 演じていることもあって、きわめ
てドキュメンタリーに近い感触がある。獲物がいなくなり、新しい猟場に移り住むために、ウィンターがネイティヴ・アメリカンの妻ネブラスカと一緒に丸太小屋を作る場面 が私のお気に入りだ。木を切り倒し、樹皮をはぎ、削り、丸太にして組み立てていく。丸太と丸太の隙間は枯れ草や乾いた苔を詰めて ふさぐ。 屋根が出来ればとりあえずは住めるが、まだ窓は吹き抜けのままだ。冬が来る前に仕上げなくてはならない。ウォンターは何日もかけて 町に下りると、窓用のガラスを買ってくる。その頃には家の調度も居心地よく整えられている。 憧れですむ話ではないのだけど、こうした作業や暮らしになぜか私はとても引かれるのだ。 ウィンターのようなマウンテン・マンの妻は、ネイティヴ・アメリカンやエスキモーの女性が多いという。それは彼女たちが厳しい自然 の中で生きる手法を、先祖からの智恵として身につけている
からだそうだ。ネブラスカも家作りを手伝うだけでなく、7頭の猟犬の世話をし、獲物の皮をなめし、生活のすべてを夫と分け合う。ウィンターよりずっと若いネブラスカは、屋根の上から夫に雪玉を投げつけてふざけたりする。睦まじくしっくりした暮らしぶりに、 私はずっと2人を本物の夫婦と思っていた。映画が再現ドキュメンタリーの趣きで展開するせいもある。だからネブラスカはメイ・ルーと いう女優(?)が演じていると分った時は、なんだかとても残念だった。 ウィンター自身はネイティヴ・アメリカンとエスキモーの女性との2度の結婚歴があるそうだが、現在は1人暮しらしい。 ウィンターの古い友人アレックス(アレックス・ヴァン・ビビエ、本人)は今はスノーモービルを使っている。年を取ると多数の犬を 扱うのが難しくなるというのだ。 犬には機械にはない心の通い合いがあり、大自然の苛酷さを生き抜く大切なパートナーだ。じっさいウィンターが氷の裂け目に落ちた 時、助けてくれたのは新入りの若いメス、アパッシュだった。 しかし、生きものだけに、狩人の老齢による気力・体力の衰えを敏感に察知するのかも知れない。 犬派のウィンターもいずれスノーモービルを使う時が来るのだろうか。その前に山を下りて、町の暮らしを始めるのだろうか。今年が 最後というウィンターだが、私にはまだ当分彼は山を下りそうにない気がするのだが・・・。
【◎○△×】7 |
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9月 |
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ストーリー ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が『モレク神』のヒトラー、『牡牛座』のレーニンに続く歴史上の人物を描くシリーズ 3作目として、敗戦前後の日本の昭和天皇ヒロヒトがGHQ総司令官マッカーサーとの会見を経て、人間宣言するまでを描いている。 1945年8月。皇后(桃井 かおり)や皇太子らは疎開し、天皇(イッセー 尾形)は侍従長(佐野 史郎)らの世話を受けつつ、一人 研究室でヘイケガニの研究に没頭する日々を送っている。 逼迫する戦況の下、御前会議では陸軍大臣が本土決戦を進言するが、天皇は明治天皇の御歌を引用して、降伏を示唆する。やがて敗戦、 天皇が占領軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥(ロバート・ドーソン)との会見に臨む日がくる。 外国人が描く日本というのは、昔に比べればずっとマシになっているとはいえ、やはりどこかちょっと変なところがあったりする。 まして題材が天皇となれば、一体、どんな描かれ方をしているんだろう、ととくべつ皇室シンパじゃない私だがやはり気になる。 製作はロシアだし、イッセー尾形ら日本人俳優がロシア語を喋らされたりしていたらいやだなぁ、とかそんなことまで心配する。 (ロブ・マーシャル監督の『SAYURI』の例もあることだし。)半分お
そるおそるの鑑賞だったが、まったくの杞憂だった。丁寧に作られたセットも、俳優たちの話す台詞や身動きも、日本人の私が見てもまったく違和感がない。よほどに事前の研究や準備を したのだろうか。途中から、ロシア映画であることをすっかり忘れてしまっていた。 映画の成功は、一に天皇に扮したイッセー尾形の存在が大きい。口をもぐもぐさせる癖や、「あ、そう」という言葉(昭和天皇という と、ちょっと猫背の肩を俯けて熱心に国民に話しかけ、相手の返答に「あ、そう」と返される姿を私は一番に思い出す。それほど私たち にとって親しみ深い口癖だ)など、天皇がそこに現れたような錯覚を起すほどによく似ている。 それだけでない。マッカーサーGHQ司令官が「子どものようだ」と評した純真な稚気、素朴で誠実な人柄まで、佇まいそのものから かもし出すのだ。 疎開していた皇后と再会するシーンにはことさら感心した。いくら “人間天皇” とはいえ、ふつうの夫婦のような生々しい感情は 出してほしくないなぁ、でも子どもまで成した間柄だ、あんまり素っ気ないのも不自然だ、などと要らぬ懸念が交錯する。 イッセー尾形の演じる天皇は、皇后の手を静かに握り、それからソッと肩に頭を載せる。皇后はまるで母親のように彼の頭を抱き、 軽く背中を叩く。親愛と慎ましさが交じり合って、実際もこうだ
ったんだろうな、とすっと胃の腑に落ちる情景になっていた。終戦前後の天皇といえば日本人にとって欠かせない “御聖断” や “玉音放送” の場面は、この映画には出てこない。ソクーロフ 監督の関心が、もっぱら天皇の “人間宣言” にあったからだろう。 天皇が自分の息の匂いをかぐ場面、侍従長に「私の身体はほとんど君と同じだね」という場面、午睡で東京が空爆される夢にうなされ たり、家族のアルバムをひもとく姿などから、天皇の人間くささを描いている。そして、天皇が “人間宣言” したことを皇后に告げる 場面で映画は終る。 戦前の日本人が本当に天皇を “神” と思っていたのか、そういう “立場” の人という認識の仕方だったのか、私には分らないが、 少なくとも外国人のソクーロフ監督にとっては “現人神”(あらひとがみ)という思想は興味深いものに思えたのだろう。 日本人の視点でとらえた天皇像も見てみたい気がする。そういう映画のできる日がいつか来るのだろうか。 【◎○△×】7 |
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8月 |
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ストーリー 幼い頃から男であることに違和感を持ち、今は女性としてロサンゼルスに住むブリー(フェリシティ・ハフマン)のもとに、ある日、 ニューヨークの拘置所から、トビー(ケヴィン・ゼガーズ)という17歳の少年が “スタンリー” という父親を探しているという電話 がかかる。 「彼はもうここにはいない」と答えながら、動揺するブリー。“スタンリー” とはじつは、性同一性障害に悩むブリーがまだ男性 だった頃の名なのだ。その頃ただ1度だけ、女性と関係を持った時に出来た子どもがトビーだった。 性転換手術を目前にひかえて、名実ともに女性になる日を待ちかねていたブリーは、トビーの身元引受人になるためにしぶしぶニュー ヨークへと向かう。 性同一性障害は同性愛(ゲイ)と混同されることが多いが、両者ははっきりと違う。同性愛は、心身ともに自分を女性あるいは男性と 認識しつつ、性愛の対象として異性に関心が向かない状態をいうが、性同一性障害は持って生まれた肉体的な性と、自分が認識する精神 的人格的性が一致
しない状態をいう。ヒラリー・スワンクがアカデミー賞を受賞した『ボーイズ・ドント・クライ』(99)は、肉体的には女性だが、自分を男性と意識する女性 の実話に基づいた映画だ。胸が絞られるように苦しく切ない話だったが、じっさい性同一性障害者が置かれている現実は、想像以上 に厳しいものなのだろう。 しかし、本作はこうした重いテーマをほのぼのしたコメディ・タッチで描き、温かい余韻を残している。 ロサンゼルスでウェイトレスとして働くブリーは、どこから見ても女性だが、1週間後にひかえた性転換手術を心待ちにする “男 性” だ。子どもの頃から男であることに違和感があったブリーは、長いホルモン治療とセラピーの後に、やっと手術の許可を得たのだ。 ところがニューヨークからの電話で、若気の「過ち」で行った一度きりの女性とのセックスで、自分に17歳の息子がいたことが分る。 気が進まないブリーだが、セラピストの後押しで、彼に会い
に行くことにする。「女性」という新しい “性” を生きるためには、過去をきちんと清算したほうがいい、と私も思う。こうして、初めて出会った息子トビーとブリーの車での大陸横断の旅が始まるのだが、この道中で、トビーの抱えた問題が次第に 明らかになる。母の自殺、養父から受けた性的虐待、家出、生きる手段としての売春、ドラッグ。わずか17年の人生で、人の一生分を 超える重さを生きていたのだ。生きづらさを懸命に生きているのは、ブリーもトビーも同じだった。 旅の途中でブリーはネイティヴ・アメリカンの男性(グレアム・グリーン)と知り合い、たがいに心を通わせる。いずれ2人は結ばれ そうな予感も結末には残る。 性同一性障害をテーマにしながらも、こうした社会の規範から外れた(あるいは周辺部分にい
る)人たちを描くことで、この映画はより厚みのある映画になったと思う。ブリーと実家の家族との再会、ブリーが実父であることをトビーが知るいきさつなどが、ユーモラスかつスリリングに綴られる。 そしてこの旅で、ブリーはトビーに対する父親とも母親ともつかぬ感情に揺れながら、あらためて “女性” としての自分を確認し、 トビーは父親でも母親でもないが、たしかに血のつながった本当の家族を得る。 2人の親子関係の行く末はまだ未知数だが、無事手術を終えたブリーのつましい暮らしぶりに孤独の交じった安らぎが見て取れて、 ほのかな希望を感じることができるのだ。 ブリーを男優、女優どちらに演じさせるか、監督は悩んだというが、正真正銘の女性であるフェリシティ・ハフマンが演じている。 ブリーの、仕草がちょっとぎごちなかったりもするけれど、普通にしていれば女性にしか見えない、そんな絶妙の空気感をかもし出して 見事だ。 新人ケヴィン・ゼガーズは、初めは荒んだ匂いを発散させているが、旅が進むほどに17歳の少年らしさにもどっていく。時々どきっと するほど色っぽい。先が楽しみな若手俳優だ。 【◎○△×】7 |
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8月 |
| パイレーツ・オブ・カリビアン |
| /デッドマンズ・チェスト |
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ストーリー 世界中で大ヒットした『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズの第2作。 海賊ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)はかつて幽霊船の船長ディヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)と “血の契約” を交わして いた。その契約期間が終わりに近づき、ジャックに危機が迫っていた。彼は自らの命運を握る鍵を手に入れようとする。 一方、結婚式をひかえた鍛冶屋のウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)と総督の娘エリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、 ジャックを逃した罪で捕らえられ、死刑を宣告されるのだが・・・。 前作はそれなりに面白かった記憶があるが、今回はいま1つ。幽霊船の中の闘いとか、どこかの南洋の島(?)らしいところでの追い かけっことか、場面場面はけっこう楽しめるのだが、それらのつながりが分らない。スパイ・アクションなどストーリーが分らない映画 ってけっこうあるし、それはそれで面白かったりするから構わないのだが、本作は分らなすぎたのかなぁ・・・。
ターナーが死刑免除の条件としてジャック・スパロウのコンパスを取ってくるように命令され、ジャックのところにいくと、今度は彼 に「コンパスをやるから代わりにデイヴィ・ジョーンズの鍵を取って来い」と言われ、幽霊船に行ったらそこには奴隷となったターナー の父親がいて、という具合に話がどんどん先送りになる感じ。それで余計分らなくなる。 絵柄がグロテスクなのも私にはきつかった。 ジョニー・デップは本作は印象がややおとなしめか。前作のジャック・スパロウは、外見は大人だが、心は少年のままという、 ピーター・パンっぽさが魅力だったが、本作はそれがかえって全体の濃さのなかでは浮いてしまった感じだ。対照的に、オーランド・ ブルームはすっかり男ぶりをあげて、本作ではしっかり主役の存在感をアピールしていたと思う。 【◎○△×】5 |
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7月 |
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ストーリー 文化大革命で画家の夢を断たれた父と、その息子シャンヤンとの30年間にわたる確執と和解を描いたヒューマン・ドラマ。 1967年の北京。昔ながらの胡同(フートン)の四合院に暮らす夫婦(スン・ハイイン、ジョアン・チェン) に男の子が生まれた。父は、中庭に咲くひまわりにちなんで、シャンヤン(向陽)と名づける。 ・・・文化大革命が終わりに近づいた1976年のある日、1人の中年男が胡同(フートン)に現われる。 9歳のシャンヤン(チャン・ファン)は悪童たちと彼にパチンコを打つが、それは6年ぶりに追放から帰還した父だった。彼は画家に なる夢をシャンヤンに託し、猛烈なスパルタ教育を始める。 1987年、19歳のシャンヤン(ガオ・グー)、そして1999年、32歳のシャンヤン(ワン・ハイディ)の目を通して、父子 関係の変遷が綴られる。 胡同(フートン)とは、古来、北京を形作ってきた伝統的な路地や横町のことだそうだ。そこには四合院と 呼ばれるロの字型の長屋のような建物があり、大勢の家族が暮らしている。 しかし経済成長と大規模な都市開発の波に洗われて、四合院 は取り壊され、代わりにビルが建てられて、胡同(フートン)の町並みも急速に失われているという。本作の 胡同(フートン)も撮影所の近くに建てられたセットなのだそうだ。 後半、印象的なショットがある。1つは、今は画家として一人立ちしたシャンヤンが、妻と車を運転して走る街の、高層ビルの林立 する近代的な景観だ。もう一つは、偽装離婚してでも高層アパートに住みたい母と対照的に、父が1人頑固に住み続ける今は人影の まばらな四合院だ。 ここには父子の確執が単なる個人の問題を超えて、ここ30年の中国社会の変遷に深くかかわ
っていることが、象徴的に表われている。「文革前」の父と「文革後」の息子という対比だ。文化大革命という現代中国が体験した大きな時代の狂気。それによって心ならずも画家になる夢を奪われた父は、暴君と言っていい ほどの厳しい英才教育で、息子に絵の訓練をほどこす。果たせなかった夢の実現を息子に託したのだ。 息子は幼い頃に別れた父の記憶がない。ある日突然現れた男が母との平和な暮らしを壊し、むりやり絵の修行をさせるのだ、当然反撥 する。その上、彼は革命後の多少なりとも自分の意志を通せる時代に育っている。父の支配を受け入れることが出来ない。こうして父子 は長く対立を続けることになる。 父に扮するスン・ハイインが味わい深い演技を見せる。強制労働で手を潰され、筆を握っても震えて絵が描けない。その悲しみと 苦しみが寡黙な顔に苦渋となって表われる。 自分が文革の犠牲になったのは、隣人リウ(リュウ・ツーフォン)の書いた何気ない報告書がもとだったと知ると、彼の心からの謝罪 を撥ねつける。しかし、リウがただ1人、四合院の一棟で死ん
でいるのを見つけた時、父は「私が仲直りのきっかけを作らせなかった」と悔いる。アパートに入りたいために母が役員への付け届けを頼んでも、持って行くことができない。 彼は単に頑固で依怙地なのではなく、不器用なのだと思う。自分でもどうにもならないのだ。それに胸を衝かれる。 シャンヤンの絵画展が成功した時、父は「いい父親になるのはとても難しい。自分は父親の本当の意味さえ分っていなかった」と息子 にいう。彼は彼なりにいい父親たろうとしたのだろう。そうでなかった自分に気づいていることが、彼の生来の善良さを感じさせる。 ラストの父の身の処し方が深い余韻を残す。 映画は、自身、間もなく父になろうとしているシャンヤンによって、回想形式で語られる。そこには、かつてあれほど激しく対立した 父を理解しようとする、シャンヤンの大人の眼差しがある。それがこの映画の温かさとなっていると思った。 【◎○△×】7 |
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7月 |
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ストーリー 1970年代のアイルランドとロンドンを舞台に、母親探しの旅に出るゲイの青年の数奇な半生を描いている。70年前後のポップ ソングが次々と全編を彩るように流れる。 北アイルランドの小さな町。教会の前に捨てられていたパトリック(キリアン・マーフィ)は、近所の家に養子に出されて成長する。 幼い頃から綺麗なものやお化粧に興味を示し、学校でも問題児扱いのパトリックは、養家とも衝突が絶えない。 70年代、IRAとイギリス政府が激しい闘争を繰り返す中で、成長したパトリックは自らを “キトゥン” と名乗り、ロンドンに いるという “幻の母” を探すために家出する。 冒頭に流れる「シュガー・ベイビー・ラブ」の歌が思いっきり楽しい。2羽のコマドリが狂言回しに登場しておしゃべりするのがメル ヘンチック。 教会の前に捨てられていた赤ん坊のパトリックは小さい頃から女装好き。学校では夢想好きの性格が災いしていつもトラブルの元だ。 この映画がユニークなのは、パトリックが自分がゲイであることにほとんど悩まないところ。初めからそうした自分を、自分として受け 入れている。“性” の
壁を軽やかに超えた自己肯定感が、この映画を明るく魅力的なものにしている。聖パトリックはアイルランドの守護聖人だが、彼はその名をもらいながら、聖パトリックに仕える従者としての “キトゥン” を創造 し、それに自分を同一化する。さらさらと自分の世界を作り出していく彼の想像力の豊かさが見えて面白い。妖精のような愛らしい響き が、彼の個性にピッタリだ。 彼が “幻の母” を探しにロンドンに出ていく70年代は、『父の祈りを』(93)などにも描かれているように、アイルランド独立を 目指すIRA(アイルランド共和国軍)と、弾圧で臨むイギリス政府が激しい闘争を繰り広げていた時代だ。各地で暴動や爆弾テロが 頻繁に起こった。 本作でもキトゥンはこの時代背景に無関係ではいられない。幼なじみは爆破テロに巻き込まれて死亡し、初恋のロックバンド・リー ダー(ギャヴィン・フライデー)や親友のアーウィン(ローレンス・キンラン)はIRA組織と深くかかわっている。彼自身もテロの 容疑者として逮捕される。 しかし、こうしたシリアスな内容もあくまで明るくキッチュな感覚で進んでいく。キトゥンが厳しい取り調べを受けているうちに妄想 の世界に入り込み、ジェームズ・ボンドばりに香水銃で敵をやっつけて回るシーンの可笑しさといったらない。
キトゥンは、手品師の助手、街頭での売春、テロの容疑者、覗き部屋ガール、とロンドンでは散々な体験ばかりするのだが、いつも
無垢な心を失わない。キリアン・マーフィが不思議な魅力を発散して印象的だ。長い間、キトゥンの実父であるという現実に向き合えずにいた神父のリーアム(リーアム・ニーソン)が覗き部屋に会いにきて、母親 の居場所を教えるところから、キトゥンの “幻の母” を求める旅は足早に収束に向かう。 相手に気づかれずに母親に会った後、キトゥンはリーアムのもとにもどり、あらたな気持ちで彼を「ファーザー」と呼ぶ。もちろん これには “神父” と “お父さん” の2つの意味が掛けられている。キトゥンは「母親を探しにいって、父親を見つけた」のだ。 アーウィンの子を産んだ親友チャーリー(ルース・ネッガ)と一緒に、キトゥンがベビーカーを押して歩み去るラストシーンは、再び 「シュガー・ベイビー・ラブ」の歌とコマドリたちのおしゃべりに包まれて、幸せな気持ちに満たされる。次々に流れる70年代の ポップスが懐かしくも楽しい。 【◎○△×】7 |
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9月 |
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ストーリー ニューヨークにこだわり続けてきたウディ・アレンが、初めてロンドンを舞台に製作したラブ・サスペンス。 ロンドンに住む元プロテニス・プレイヤーのクリス(ジョナサン・リス=メイヤーズ)は、会員制クラブでコーチとして働くうちに、 富豪の息子トム(マシュー・グード)と親しくなる。やがて彼の妹クロエ(エミリー・モーティマー)と婚約するが、トムの恋人で女優 を目指す美貌のアメリカ人女性、ノラ(スカーレット・ヨハンソン)にどうしようもなく惹きつけられる。 クロエと結婚し、義父(ブライアン・コックス)の経営する大企業で重役ポストを与えられ、上流階級の仲間入りを果たすクリス。 しかし、トムと別れたノラと偶然再会し、彼女との関係にのめりこんでいく・・・。 本作からすぐに『陽のあたる場所』(51)を連想した。もっとも、本作の主人公クリスは、貧しいアイルランド出身者とはいえ、それ なりの名と実績を持つ元プロテニス・プレイヤーで、恋人のノラは男ならだれでも惹かれる女優志願の美貌の女性だ。『陽のあたる場所』 とは相当状況が違う。
しかし、上昇志向の強い下層階級出身の青年が、出世のために上流階級の令嬢と結婚し、妊娠した恋人を殺すという基本的な筋立ては そっくりだ。 陽のあたる場所』まで遡らなくても、繰り返し描かれてきたパターンで、今更ウディ・アレンが取りあげなくてもよさそうな気がする。 ところが、才人アレンの狙いはまったく違うところにあったのだ。それはずばり “運”。オープニングで、テニス・ボールがネットの 上を右へ、左へと、往復する。最後にネットに当たり、上に跳ね上がる。ここでストップ・モーション。ボールがネットのどちら側に 落ちるかが、勝つか負けるかの分岐点だ。 似たようなシーンは映画の終盤にも登場する。クリスはノラ殺しをカモフラージュするために隣室の老女を殺し、彼女の部屋から 盗んだ品々を川に投げ捨てる。その時に、指輪だけが橋の手すりに当たって跳ね上がり、川ではなく、橋の上に落ちるのだ。これが意味 するのは “吉” か “凶” か。アレン監督は観客の予想を手玉に取るように、その後の成りゆきを二転三転させていく。 一旦はうまくいくかに見えたクリスの細工が、担当刑事(ジェームズ・ネスビット)の直感で見破られそうになる。(刑事が夜見た 夢で真相を看破するというのは、人を食っているというか、アレンらしいジョークで笑ってしまう。)クリスは重要参考人として事情 聴取を受け、絶体絶命の窮地に
陥る。ところがタイミングよく同じ地区で似たような殺人事件が起こり、逮捕された容疑者と橋の上に落ちた指輪がつながる。以前は、犯罪は割りに合わない、という勧善懲悪的な結末の映画が多かったが、最近は犯罪者の逃げ得映画が増えた気がする。本作も 『陽のあたる場所』とは正反対の結末だ。しかし、“運” がテーマと考えれば、「それもありかな」と頷いてしまう。 私の中では “妖しい俳優” のイメージが強いジョナサン・リス=メイヤーズが、高所恐怖症の小心なビジネスマンを演じているのが 新鮮だ。高所恐怖症といえば、大好きなヒッチコックの『めまい』(58)を思い出すが、本作のクリスはそれに足を引っ張られることも なく出世街道を歩み、地位もオフィスもどんどん上昇していく。アレン流の皮肉が面白い。 クリスの妻、クロエを演じたエミリー・モーティマーは、ストーリーが進むほど、おっとりした人柄の良さが滲み出る。ノラに扮した スカーレット・ヨハンセン、後半、妊娠してからの狂乱ぶりはこれまでの彼女のイメージをくつがえす熱演だ。ゲーム感覚で見れる洒落た 映画だと思った。 【◎○△×】7 |
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9月 |
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ストーリー 「沖で待つ」で芥川賞を受賞した絲山秋子のデビュー作「イッツ・オンリー・トーク」の映画化。『ヴァイブレータ』で各賞を総なめに 廣木隆一監督、寺島しのぶコンビの第2作。 35歳の橘優子(寺島 しのぶ)は、一流大学から大企業の総合職と華々しいキャリアを積みながら、躁うつ病の発症ですべてを失って しまう。きっかけは両親と親友が突然亡くなったことだ。 偶然訪れた東京・下町の蒲田が気に入って、引っ越して1ヶ月になる。大学時代の同級生で都会議員の本間(松岡 俊介)、“合意の 痴漢” が趣味のKさん(田口 トモロヲ)、子煩悩で気の弱いウツ症のヤクザ・安田(妻夫木 聡)たちと知り合い、少しずつ優子の 心は癒されていく。 ある日、福岡から離婚寸前の従兄の祥一(豊川 悦司)が優子のアパートに転がり込んでくる。 私はタイトルに引かれて映画を見に行くことが多いが、本作のタイトルもとても素敵だ。 たしかに、主人公・優子は起きたい時に起き、食べたい時に食べ、デジカメを片手に街を歩き回り、蒲田の風物をカメラに収めて ネットに載せる。着ている服も歩き方もいかにも身体に楽そうで、だらしないといってもいい風情。何にも束縛されない気ままでゆるい 暮らしに見える。 しかし、彼女の身の上話は嘘ばかり、その場限りの思いつきで相手を煙に巻く。一見自然体の
彼女だが、本当はそうやって自分を懸命に守っていることがだんだん分ってくる。象徴的なのが、優子が銭湯ではバスタオルを身体に巻いて浴槽に入ることだ。怪訝な目を向ける街のおばさんに、「若気の過ちで刺青 をしてしまったものだから」と説明する。あわてて湯舟から出るおばさん。ちらりと見て、フンと笑う優子。 本当はそれは、火事で死んだ両親の後追い自殺をしようと、服に火をつけた時にできたやけどの痕を隠すためなのだ。しかし、それ だけではないと私は思う。もっともくつろげるはずの銭湯でさえ、心のガードが外せない優子を印象深く表わしているように思える のだ。 両親と親友の死をきっかけに躁うつ病に陥り、一流企業のキャリアも失って、無気力に日々を送る優子。そんな彼女が付き合う男たちは みんなちょっとヘンだ。合意の上で痴漢ごっこをする中年男、ウツ神経症に悩む気弱なヤクザ、マザコンでED(勃起障害)の都会議員、 そして浮気相手を追って九州から家出してきた従兄の祥一。 こういう男たちが周囲に集まってくるのは、ふつうの暮らしに適応できない優子の心の反映だろう。しかし、彼らの中では従兄の祥一 だけがやや趣きが違う。彼の言うことなすこと、無責任という
か自然に脱力しているというか・・・。優子の部屋に居候を決め込んだ祥一と、優子の間にゆっくりと不思議な感情のうねりが生まれる。まったくの他人でもないが、家族 でもなく、男女関係に踏み込みそうで、そうならない。 祥一はこまごまとウツの発作に苦しむ優子の世話を焼く。子ども時代の思い出を共有する彼には、嘘の身の上話は通用しない。そんな 祥一の前で、優子の固い心の守りが少しずつ溶けてゆるんでいく。 2人が夜店に出かける場面からは、“やわらかい” 暮らしの味がしみじみ伝わってくる。 終盤、男たちはそれぞれの事情で去っていき、優子は銭湯で「みんないなくなっちゃった」と顔を蔽う。しかし今の彼女はバスタオル で身体を隠していない。彼らがいなくても優子はもう大丈夫じゃないかという気がする。 熱すぎず冷たすぎず、ほどよいぬるさの空気感に心が和んでくる。寺島しのぶの独特の存在感、豊川悦司の軽妙な優しさが光る。蒲田 の下町の風情が魅力的。 【◎○△×】7 |
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8月 |
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ストーリー 2001年9月11日、ニュージャージーのニューアーク空港からユナイテッド航空93便が飛び立った。その直後、ハイジャック された旅客機2機がワールドドレード・センターのツインビルに激突。ユナイテッド93便は地上で起きていることを何も知らずに 穏やかな飛行を続けていたが、やがて同機に搭乗していたテロリストたちが動き始める・・・。そして別の1機が国防総省ペンタゴンに 墜落炎上する。 世界を震撼させたアメリカ同時多発テロでハイジャックされた4機のうち、なぜか目的地に到着することなく墜落したユナイテッド 航空93便に焦点を当てて、事件の核心に迫ろうとする衝撃作。 2001年にアメリカを襲った同時多発テロ。あれから5年経つけれど、まだ触れれば血が出るほど生々しい事件なのだ、と映画を見て あらためて思う。
ただ1機、目的地に到達せず、ペンシルバニアで墜落したユナイテッド航空93便は、乗客乗員が結束して、テロリストたちに反攻を
試みたという。機上した全員が死亡しているので、内部でなにが起こったかを厳密に知るのは不可能だが、遺族たちへの綿密なインタビューや管制塔 のボイスレコーダーに残った記録をもとに、できる得る限り事実に即して再現しているという。それだけの迫真性と緊迫感を持った映画 だと思う。 映画は交信の途絶えた1機がコースを変更してレーダーから消えるところから始まる。管制センターでは「ハイジャックでは?」と いう疑問も出るが、ここ何十年もそんなことは起きていない、と半信半疑だ。 やがてボイスレコーダーに不審な声がキャッチされ、複数の機が同様にレーダーから消える。事態を把握するために激しい動きをする 各地の管制指令センターや空軍内部がじつにリアルだ。彼
らがこの異常事態にどう対処したかが立体的に理解できる。並行して、ユナイテッド93便では乗員たちが通常業務で出発の準備を整え、乗客たちが搭乗し始める。日常のありふれた光景と、 一方で起きている非日常の出来事。その対比が事件の異常さを際立たせる。 ハイジャックされた1機が貿易センター北ビルに激突する。この時も、民間の小型機だ、操縦を誤ったのだ、などと情報が錯綜する。 そのうちに、管制センター職員の眼前で、新たな一機がツインタワーの残った南ビルに激突する。ショックで声も出ない職員たち。もう、 ハイジャッカーたちのテロ行為であることは明白だ。 一方、地上の事件を知らぬユナイテッド93便は何事もなく飛行を続ける。乗客たちのさり気ない
会話や表情に臨場感があり、自分も
その場にいるような気持ちになる。いずれこの機を襲う出来事を知っているだけに、この平穏さがかえって異様な緊張感となって迫る。本作で印象的だったのは、テロリストたちが神に祈りを捧げ、愛する人に電話で別れを告げる姿を映し出すことだ。凶行前に逡巡を 見せる犯人もいる。 恐怖と混乱のなかで結束を固め、テロリストたちに立ち向かった乗客たちの勇気とともに、犯人たちの人間的な側面 もきちんと描き出した演出態度に胸を打たれる。 1人1人は善も悪もないただの人間なのだ。それなのに世界には紛争や戦争が絶えない現実が重くのしかかる。エンドロールが出た後 もしばらく席を立つ人がいなかったことに、観客それぞれの思いが表われているような気がした。 【◎○△×】7 |