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4月 |
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ストーリー 『ベルリン・天使の詩』『パリ、テキサス』のヴィム・ヴェンダース監督が、人生の盛りを過ぎた男が、これまで顧みなかった家族と 初めて向き合おうとする姿を描いている。脚本・主演は『パリ、テキサス』でも脚本を担当したサム・シェパード。 かつては西部劇の人気スターだったハワード(サム・シェパード)は、新作の撮影現場から突然失踪し、故郷に向かう。30年ぶりに 帰った実家で彼は母親(エヴァ・マリー・セイント)から、昔ロケで訪れたモンタナの町の若い女性から、彼の子供を身ごもったという 連絡があったと聞かされる。 子供の存在を知ったハワードは、関係を持ったウェイトレス、ドリーン(ジェシカ・ラング)を探してモンタナ・ビュートの町を 訪れる。 西部劇スターとしての栄光も今やすっかり色褪せた男が、ある日、自分の人生の虚しさに気づく。と書くとかっこいいけれど、冒頭、 突然仕事を放り出してどこかにいってしまうのを何の説明もなく見せられると、とりあえず湧いてくるのは「いい加減な男だなぁ」と いう感想だ。落ち目の俳優がこんなことしたら、もう仕事来ないよ、と余計な心配までしてしまう。 で、どこに行くのかいうと、30年間も音信不通だった母親のところというのが、中年を過ぎてなお自分をつかめずにいるハワードを とてもよく表わしている。親とはありがたいもので、こんな息子でも温かく迎えてくれる。あんまり長いこと会ってないので、すぐには 分からないのが笑わせるが。
あのエヴァ・マリー・セイントがすっかり風貌が変わって、それこそすぐには分からない。でも背中もしゃんとして、なかなか素敵な
おばあちゃんぶりだ。実家で気ままに日を送るうちに、ハワードは母親から自分に子どもがいることを知らされる。20数年前、彼の子を身ごもった若い 女性から電話があったというのだ。そうなると、相手の今の状況などお構いなしに会いに行く。 案の定、当の息子(ガブリエル・マン)には激しく拒否されるし、かつての恋人にも「今頃何しに来たの」と聞かれる始末。「やり 直そう」なんて安っぽい台詞を口にして、「無責任だ」となじられたりする。 それはまー、そうでしょう。酒と女と薬で半生を過ごして、今になって「大事なのは家族だ」と言ってみてもねぇ。やっぱり30年の 空白は長すぎる。 一言でいったらハワードは身勝手な男だ。これが喜劇なら、笑いながらも思い通りにいかない人生にほろ苦さと哀感を覚えたかもしれ ない。まなじストレートな人間ドラマ仕立てなものだから、共感以前に彼のしょうのなさばかりが目立ってしまう。 息子も、突然現われた父親に腹が立つのは無理もないけど、怒りまくるばっかりじゃ一本調子で大人げない。しらける。どこに現われ るにも、必ず骨壷抱えている娘(サラ・ポーリー)もねぇ。骨壷
は初めの1,2シーンくらいでいいんじゃない?保険会社のティム・ロスが摩訶不思議な存在感。ハワードを付け回して、最後は手錠はめて撮影現場に連れ戻す。う〜〜ん、ヤッパリ この映画は喜劇にすべきだったんじゃないかなぁ。 しかし、馬に乗って平原を駆けるサム・シェパードは掛け値なしにかっこいい。ジェシカ・ラングも色香と息子を1人で育て上げた 強さがミックスされ、とても素敵。ユタ州モアブの砂漠の風景や、古き良きアメリカの面影を残したモンタナ州ビュートの街並みが 素晴らしい。 ハワードが自分の父の車を息子に与え、その車で息子や娘たちが陽気に歌いながらドライブするラストに、小さな希望が感じられた のもよかった。 【◎○△×】6 |
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5月 |
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ストーリー 人気作家、群ようこが初めて映画のために書き下ろした原作を、『バーバー吉野』(03)でデビューした新鋭・荻上直子監督が全編 フィンランド・ロケにより映画化。 「かもめ食堂」はフィンランド、ヘルシンキの街角でオープンした小さな食堂だ。日本人女性のサチエ(小林 聡美)がオーナー兼 シェフを務め、メインメニューはおにぎりだ。 お客が1人もいない日々が続くが、ある日、日本が大好きな青年トンミ(ヤルッコ・ニエミ)がコーヒーを飲みに立ち寄る。それが きっかけで、サチエは本屋で「ムーミン」に読みふけるミドリ(片桐 はいり)と知り合い、さらに空港で荷物が行方不明になったマサコ (もたい まさこ)も店にやって来るようになる。 サチエがヘルシンキに開いた「かもめ食堂」には、私たちの日常とはちょっと異なる空気が流れている。サチエは何日も客がなくても 少しも困らず、食器をぴかぴかに磨き、自分のために淹れたコーヒーを楽しみ、通りを行きすぎる人をのんびり眺める。やっと現われた たった1人の客、トンミのために、何日でもただでコーヒーを振る舞う。
「かもめ食堂」はリアルな生活の場ではなく、“おとぎ話” の空間なのだと思う。サチエがどこでフィンランド語を習得したのか、
とか客がいなくてもなぜ悠々としていられるのか(生活資金はどこから出ているのか)とか、そういう現実的なことが少しも問題になら
ないのは、そのためなのだ。面白いのは、食堂に出入りする客たちもまたこのファンタジー空間の住人であり、あまりフィンランド人の匂いがしないことだ。 トンミは片言の日本語を操り、ミドリと折り紙に興じる。だんだん顔まで茶金髪の日本青年に見えてくる。 夫に逃げられたリーサ(タリア・マルクス)は、初めのうちこそばっちりフィンランド人ぽいが、藁人形に五寸釘という純日本式の 呪術で夫を取りもどす頃には、日本の隣りのおばさんに思えてくる。 ある日、ここに奇妙な客マッティがやって来る。彼がテーブルを挟んでサチエと向き合っている姿は、ちょっとした見ものだ。サチエ たちがかもし出す “おとぎ話” めいた空気が急に薄れて、リアルな生活の匂いがし始めるからだ。サチエはそれに戸惑っているように 見える。 マッティはこの店の前のオーナーで、いまだに店への愛着が捨てきれていない。西部劇の流れ者よろしく、忽然と現われてサチエに うまいコーヒーの淹れ方を伝授し、大事な宝物(コーヒーサイ
フォン)を手に入れると、また忽然と去っていく。“日常” からの旅人は、“非日常” にいつまでも留まることは出来ないのだ。扮するマルック・ペルトラは、フィンランドを代表するアキ・カウリスマキ監督の『過去のない男』(02)で国際的に知られるように なった俳優だが、立ち去り際のネクタイに着いた飯粒をつまんで口にいれる仕草で笑いを誘う。遠ざかる後ろ姿の哀愁も抜群だ。 小林聡美、片桐はいり、もたいまさこが味わい深いアンサンブルを見せる。きりりと背筋を伸ばしたサチエ、ちょっとワケあり風の ミドリ、フィンランド語が分からないのに、なぜか込み入った話を理解してしまう不思議おばさんのマサコ。なかでも、大きな身体を ちぢめて、狭いテーブルの間を給仕して回る片桐はいりの存在感はすごい。 私は、“日常” というリアルな空間を離れて、ひと時、“非日常” に遊ぶことが出来る旅が好きだ。「かもめ食堂」にはそんな “非 日常” の豊かな時間がたゆたっている。私も「コピ・ルアック」と呪文を唱えてコーヒーを飲みたくなった。 【◎○△×】7 |
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6月 |
| ククーシュカ |
| ラップランドの妖精 |
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ストーリー 第2次世界大戦末期、フィンランド最北の地ラップランドでは、ロシア軍とドイツ軍、そしてドイツと同盟したフィンランド軍が 戦っていた。フィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコ(ヴィッレ・ハーパサロ)は、非戦闘的な態度が仲間の怒りを買い、大岩につながれて 置き去りにされる。 その頃、反体制の容疑で秘密警察に逮捕されたロシア軍大尉イヴァン(ヴィクトル・ブィチコフ)は、連行される途中、味方の誤爆に 会い重傷を負う。彼を救ったのは、この地に昔から住む先住民族サーミ人の女性、アンニ(アンニ=クリスティーナ・ユーソ)だった。 やがて自力で岩から脱出したヴェイッコがアンニの小屋にたどり着く。3人の奇妙な共同生活が始まったが、それぞれ自国語しか話せ ない3人は、まったくコミュニケーションが取れない。 なんとも摩訶おかしい映画を見た。“摩訶おかしい” とは、「摩訶不思議」と「面白おかしい」を足して2で割った私の造語だ。 3人の男女が奇妙な成りゆきから共同生活をすることになる。女はラップランドに住むサーミ人、男はロシア人とフィンランド人。 3人ともひどく饒舌だが、自国の言葉を勝手に喋るだけで、相手の言っていることは全然分からない。話は噛み合わず、時にはとんでも ない誤解が生じるが、それが解決されることもない。 たとえば、ヴェイッコは大岩に鎖でつながれた時、わざとドイツ軍の服を着せられたために、彼をドイツ人と思い込んだイヴァンは、 二言目には「ファシストめ」と罵る。ヴェイッコはイヴァンの勘
違いは分かるから、自分はフィンランド人だと釈明するが、フィンランド語で言うからイヴァンには分からない。そこでヴェイッコは、トルストイの「戦争と平和」を持ち出して、自分は「戦争」ではなくて、「平和」のほうだと力説する。 “トルストイ” だけを聞き取れたイヴァンは、「そうか、お前はトルストイの家も襲撃したのか」とますますいきり立つ、という具合 だ。まるで長屋漫才を見ているようだ。 さらにおかしいのは、3人がおたがいに理解し合おうなんてまるで考えないところ。話が行き違ってると思っても、全然気にしない。 あくまで貫くのはマイペース。 相手が分かってないと思えば、かえってポロリと本音が出る。もともと平和主義のヴェイッコは、銃から弾を抜いて「戦わない」と 宣言する。一見ガチガチの軍人、イヴァンも「戦争はもう嫌だ。戦いたくない」「疲れた」と本心を洩らす。国境で隔てられ、 敵味方に別れても、人間は結局は同じなんだと思わせられる。 夫が出征したまま帰らず、4年も男にご無沙汰のアンニにとっては、2人は敵でも味方でもない、ただの男だ。若いヴェイッコを見る たび、大胆な本音を洩らすのだが、それが分かるのは字幕を読んでいる観客だけ。これには笑ってしまう。
彼を寝床に誘ったアンニのあえぎの大らかなこと。粗末な小屋から原野に響く。中年男のイヴァンは嫉妬の炎を燃やす。こうして、
言葉による相互理解が成り立たなくなった時、かえって人間本来の姿が現れてくるところが面白い。味方の誤爆にあって負傷したイヴァン、勘違いから発砲したイヴァンの銃で重傷を負ったヴェイッコ、2人を救うのはアンニだ。図式 的に言えば、殺し合うのが男で、命をはぐくみ救うのが女ということになろうか。しかしそういうことを超えて、サーミ人のアンニには 原始的な生命力があふれている。 冥界に導かれていくヴェイッコを、太鼓の音と狼の吠き声で呼び戻す場面は、神話的な雰囲気さえ漂う。ヴェイッコが息を吹き返した 時、安堵のあまり欲情したアンニは、今度はイヴァンと寝床を共にする。これは最後に見事なオチとなって、敵も味方もなく融合しよう という、“平和” のテーマを浮き上がらせる。 その核にいるのは大地に根づいた女性の大らかさと逞しさだ。アンニを演じたアンニ=クリスティーナ・ユーソの素朴な魅力が素晴ら しい。 【◎○△×】7 |
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5月 |
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ストーリー 第一次大戦中の雪のクリスマス・イヴにフランス北部の前線で起こった実話をもとに、戦時下で生まれた敵国兵士同士の心温まる交流 を描く。 1914年、第一次大戦下。フランス北部の最前線デルソーでは、仏英連合軍とドイツ軍がわずか数十メートルを隔てた塹壕で対峙 していた。激しい戦闘のなかで両軍とも譲らぬままクリスマスを迎え、ドイツ軍では故郷に帰れない兵士たちのために何万本ものクリス マツリーが届けられていた。 キャンドルの灯が輝くなかで、スコットランド軍の塹壕からバグパイプの音色と共に、兵士たちの歌声が聞こえて来る。誘われるよう に、従軍していたドイツの花形テノール、ニコラウス(ベンノ・フユルマン)が歌い始めた。こうして、一夜限りの “クリスマス 休戦” の奇跡が起こった・・・。 日本人にとってはクリスマスはケーキを食べてパーティをして、賑やかに騒ぐ行事の1つに過ぎないけれど、キリスト教国の人たちに とっては特別な意味を持つ日なのだということが、こういった映画を見るとよく分かる。神に敬虔な祈りを捧げるという以上に、“家 族” への思いを強く新たにする日のようだ。 敵味方に分かれた兵士たちが、クリスマスの一夜だけ戦う心を捨てて、故郷に残した家族につ
いて語り合う。フィクションなら「話が出来すぎている」と言いたくなるが、実際に起こったことだというのだ。実話の重みを感じさせ
られる。イヴの夜、スコットランド軍の塹壕からバグパイプの音に合わせて、故郷を思う兵士たちの歌が聞こえてくる。戦場の最前線にさえ 楽器を持ち込むというその神経(!)がいいなぁ。 すると、触発されたようにドイツ軍の塹壕から、ハーモニカの伴奏で朗々たるテノールが響き出す。歌は日本人にもおなじみの “聖し この夜” だ。やがてバグパイプが彼の歌声に合わせて伴奏を始める。両陣営が1つになって耳を澄まし、やがて全員がコーラスを 始める。 これがきっかけとなって、英独仏の兵士たちは中間地帯のノーマンズランドに出てきて、一夜限りの交流を持つのだ。 クリスマスだからと言って、初めから和気あいあいだったわけではない。テノール歌手ニコラウスが歌い始める時、ドイツ軍は明りを ともした小さなツリーを、次々に塹壕の上に移動させる。それを見て英仏軍は「一体、なにを企んでいるのか」と警戒する。一夜の交流 が明けた翌朝でさえ、戦死者の遺体を埋めようと穴を掘るスコットランド兵士を見て、ドイツ軍は「地雷を埋めるつもりなの
か」と訝るのだ。戦争の現実はそうしたものだと思う。お互いへの疑心暗鬼が容易に捨てられるはずがない。だからこそ、ともにシャンパンを飲み、 住所を交換し、家族の写真を見せ、サッカーに興じる彼らの姿に奇跡を見るのだ。 なかでも心を打たれるのは、兵士たちが分け隔てなく両軍の戦死者を埋葬し、墓標を立てていく場面だ。死者を悼む心に敵味方の 区別はない、殺し合いなんて誰もしたくない、人間はみな同じだ、そんなことを痛切に感じるのだ。 しかし、こういった一夜限りの休戦も戦争という現実の前には許されるはずもなく、厳しい前途が兵士たちを待ち受ける。ただ、彼ら の口からハミングが洩れるラストシーンに、一縷の希望が見えて救われる思いがする。 アリア歌手アンナ(ダイアン・クルーガー)をニコラウスの妻として登場させたのは、ストーリーとしてかなり無理を感じた。この 部分をカットすることで、映画はもっと引き締まったのではないかと思う。 【◎○△×】7 |
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5月 |
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ストーリー ドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)は、インターネット・ビジネスが成功して暮らしには困らない。同棲していた恋人シェリー (ジュリー・デルピー)が愛想を尽かして去ったある日、一通のピンクの封筒の手紙が届く。それには「あなたとの間に生まれた息子が 19歳になります。あなたを訪ねていくでしょう」と書かれていた。 世話好きな隣人ウィンストン(ジェフリー・ライト)がすっかり手はずを整えて、ドンは差出人も住所もない手紙の手がかりを求めて、 20年前の恋人たちを訪ねる旅に出る。カンヌ国際映画祭で、最高賞に次ぐグランプリを受賞。 昔の恋人たちを訪ねて歩くというのは『舞踏会の手帖』(37)と同じ趣向だが、こちらは過去には一切触れず、現在だけを見せる。 それでも彼らのかつての関係がそこはかとなく窺えるところが面白い。 初めに訪ねるローラ(シャロン・ストーン)は、夕食を振る舞い、ベッドまで共にしての歓待ぶりだ。きっとドンは彼女にとっていい 思い出なのだろう。2人は修羅場を演じることなく別れたんじゃ
ないのかな。ドンは再会して、「こんないい女となんで別れたんだろう」と内心後悔したかも。次に訪れるドーラ(フランセス・コンロイ)は、20年前の男の出現に当惑かつ迷惑顔。まー、これが一番当たり前の反応だろう。 早く引き上げてほしいのだが、夫のほうがドンを強引に引きとめ、夕食でもてなす。昔の男がなにをしにやってきたのか探りを入れる つもりなのだろうが、上機嫌のふりをしてしまう辺り、彼の人の好さが顔を覗かせて笑いを誘う。 次のカルメン(ジェシカ・ラング)は今やアニマル・セラピストとしてカリスマ的信頼を持つドクターだ。ドンの来訪も、診療の合間 に数分の時間を割いて面会するという、効率的かつ事務的なもの。多少の懐旧の思いはあっても、今やドンは完全なる過去の人。苦い思い がドンの胸を噛む。これに止めを刺すのが、最後に訪ねるペニー(ティルダ・スウィントン)だ。 ところで、私が本作で一番興味をそそられたのは、じつはドンの隣人、ウィンストンだった。彼は至れり尽くせりの準備を整え、気の 進まぬドンを無理やり息子探しの旅に送り出す。親切も度が過ぎれば、どういうつもりなのかと首を捻りたくなる。
子沢山の彼としては、暢気な独身を楽しむドンの暮らしをちょっと乱してみたかったのか、あるいは人生を空費するだけに見えるドン
に、家族を持つ幸せを教えたかったのか・・・。じっさい、薄暗い居間でテレビを前に無気力・無表情で座っているマーレイは、とぼけた味を通り越して、ボケかかっているように みえる。息子と思しき青年を追いかける時に初めてドンに生気が見えるが、それが彼の変化の兆しかどうか私にはよく分からないのだ。 ウィンストンの真意はともかく、事業にはそこそこ成功したドンがたどり着いたのが人生の無為だった、というのは少々切ないものが ある。 ジャームッシュ監督が一貫して描くのは、人生を漂う人々だ。若い人が主人公の場合は、いつか彼らは着地点をみつけるのかもしれ ない、という淡い期待を持つことが出来るのだが、本作の主人公はついにそれを見つけ出せずに初老に至ってしまった男だ。それが本作 のかもし出すほろ苦さになっているのかもしれない。 【◎○△×】6 |
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4月 |
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ストーリー ブロードウェイで現在5年間もロングランを続けている大ヒッ・トミュージカルの映画化。オリジナルは68年製作の映画『プロ デューサーズ』。 落ち目のプロデューサー、ビアリストック(ネイサン・レイン)は、帳簿を調べにやってきた会計士ブルーム(マシュー・ブロデ リック)のなに気ない一言から、一晩でこけたほうがショウは儲かるということに気づく。ブルームを巻き込んで、最低の脚本、最低の 演出家、最低の出演者を集めて最低のミュージカルを作ろうと思い立つ。 見つけ出したのは、フランツ・リープキン(ウィル・フェレル)が書いたナチス礼賛ミュージカル “春の日のヒトラー”。女装の演出 家デブリー(ゲイリー・ビーチ)を口説き落として、早速上演準備に取りかかる2人・・・。 本作は約40年前の映画『プロデューサーズ』(68)をブロードウェー・ミュージカルとして舞台化し、さらにそれをあらためて映画 化したものだそうだ。3作とも、68年版の監督メル・ブルックスが一貫してかかわっているという。 それだけ愛着のある作品なのだろう、ナンセンスなギャグがあふれて、彼の思い入れがストレートに伝わってくる楽しさだ。エンド ロールが終ってもまだ余興が用意されている。行き届いたサービスで満足度は高い。 ![]() 彼が扮するプロデューサー、ビアリストックはお金持ちの老女のスポンサーを山ほど持っていて、色仕掛け(!)で資金を出させるの がうまい。彼女たちが一斉にあっちのビル、こっちのビルから、歩行補助具をガシャガシャ言わせて舗道に繰り出してくるシーンはまさ に圧巻。おかしくてのけぞりそうになる。 気の弱い会計士ブルームを演じるマシュー・ブロデリックがこんなに歌がうまいとは思わなかった。初めは吹き替えかと思ったが、 ネイサン・レイン、ロジャー・バート、ゲイリー・ビーチらとともに、舞台のオリジナル・キャストの1人だそうだから、本当に彼が 歌っているのだろう。ちょっと老けたが、垂れ目のキュートさは相変わらず。 ブルームは精神安定剤用に青い毛布の切れ端を手放さない。彼もビアリストックもけたたましくて、2人とも初めはそうとう変に見える のだが、ナチ信奉者やおかまの舞台演出家とその秘書らが続々登場するうちに、だんだんまともに見えてくる。それくらい、彼らはハイ テンションでへんてこりんなのだ。 ナチ信奉者フランツを演じるウィル・フェレル。『奥さまは魔女』(05)では1人だけ浮いていたが、これだけアクの強い連中が そろうと、彼の毒気がちょうどいい具合の味付けになる。ヒトラー総統閣下ご愛唱の歌を、ビアリストックとブルームに強制して一緒に 歌い踊るシーンの楽しいことといったら!
そしてなんといっても強烈なのは、演出家の秘書兼恋人・カルメンを演じるロジャー・バート。顔はどうしたって男なのに、雰囲気は もう根っから気の好い陽気なおばさん。 「イエ〜〜〜ス」と、最後のSを歯を食いしばってでも引き伸ばす表情はもう抱腹絶倒ものだ。彼が画面に登場すると、その一挙手 一投足に心を奪われて、目が釘付けになる。女装の演出家のゲイリー・ビーチも悪くないが、私はロジャー・バートが断然面白かった。 舞台をたった一晩で打ち切りにさせるためにプロデューサーたちが苦心惨憺するという、荒唐無稽なアイデアもさることながら、観客 を楽しませようというプロ精神は見事。68年版ではアカデミー脚本賞を、舞台はトニー賞の12部門で受賞したというのも頷ける。 本作は舞台を忠実にスクリーンに移しているそうだが、どこか懐かしいレトロな匂いが満ちている。『お熱いのがお好き』(59)など、 昔見たジャック・レモンのコメディを思い出した。 【◎○△×】7 |
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6月 |
| メルキアデス・エストラーダの |
| 3度の埋葬 |
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ストーリー テキサス州、メキシコ国境沿いの小さな町に住む初老のカウボーイ、ピート(トミー・リー・ジョーンズ)は若いメキシコ人メルキア デス(フリオ・セサール・セディージョ)を不法入国者と知りつつ雇い入れる。 ある日、牧羊囲いの近くで彼の死体が発見される。ピートは「自分が死んだら故郷に埋めてほしい」というメルキアデスとの約束 を守るために、犯人の国境警備隊員マイク(バリー・ペッパー)を誘拐し、国境警備隊の追跡をかわしながらメキシコへ向かう。 個性派俳優トミー・リー・ジョーンズの初監督作品。カンヌ国際映画祭で主演男優賞と脚本賞を獲得した。 メルキアデスは、自分が死んだら故郷のヒメネスの村に埋葬してくれ、とピートに頼む。彼はなぜ自分の親ほども年の離れたピート より先に、自分が死ぬなんて思ったんだろう。ピートはなぜ一旦は共同墓地に埋葬された彼の遺体を掘り出してまでも、ヒメネスへの旅 を敢行しようとしたのだろう。私の中でさまざまな想像が広がる。 メルキアデスを殺した犯人が判明したのに、国境警備隊も警察も事件を葬ろうとする。理由は、彼が不法入国者だからだ。メキシコ人 という人種偏見もありそうだ。そういうことがピートは我慢ならない。彼はメルキアデスとの約束を守ろうとする。
しかし、彼がメキシコを目指す旅に出たのはそれだけではないと私は思う。ピートはメルキアデスが語るヒメネスの村や彼が見せて
くれる家族の写真に、「理想郷」を見たのではないのだろうか。その理想郷に親友を帰してやりたかっただけでなく、じつは彼自身が
行きたかったのではないかと思うのだ。私が最初にそう感じたのは、彼が旅の途中で酒場の女レイチェル(メリッサ・レオ)に電話をかけ、唐突に「結婚してくれ」と言うの を見た時だ。ピートはこれまでの半生を、結婚なんてこれっぽっちも考えたことなく過ごして来たに違いない男だ。しかし、人生の盛り を過ぎ、ひたひたと孤独が忍び寄る。そんな頃に出会ったメルキアデスから、彼の故郷や家族の話を聞かされる。 無骨な西部男のピートと、不法入国の貧しいメキシコ人のメルキアデス。2人の間に国境を越えた友情が生まれたことは、フラッシュ バックで描かれる断片的なピートの回想でとてもよく伝わってくる。こうして、結婚や家族がいつしかピート本人も気づかぬうちに彼 の “心の故郷” になっていったのではないだろうか。その “望郷” の念が、彼をヒメネスやそこに住んでいるはずのメルキアデスの 家族に向かわせたような気がしてならないのだ。 【◎○△×】7
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5月 |
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ストーリー 東京で事業に失敗した若者が、故郷で何百キロものソリを曳く輓馬のレース “ばんえい競馬” と出会い、希望を取り戻していくまで を綴る。東京国際映画祭でグランプリを含む史上初の4冠を制した。 帯広のばんえい競馬場でなけなしの金をすった学(伊勢谷 友介)は、その夜、兄・威夫が経営する厩舎を訪ねる。13年ぶりの突然の 帰郷に驚く威夫(佐藤 浩市)。じつは学は自分が興した会社が倒産し、兄を頼って東京からもどって来たのだ。 一度は家族を捨てた弟の身勝手さに腹を立てつつも、威夫は厩務員見習いの仕事を与える。やがて学はお払い箱寸前の馬、ウンリュウ と出会い、自分自身を重ねるようになる。 冒頭、ばんえい競馬場に現われる学は、薄手のコートの胸をしきりにかき合わせていかにも寒そう。厳寒の北海道に似合わないその 格好は、“都会っぽ” が風に吹かれるように漂いついたといわんばかり、学の身の上を雄弁に物語る。 学が兄の威夫に「兄さんには目的がある。悩みがなくていい」という場面がある。頼みの馬に死なれ、厩舎の経営が苦しい威夫は、 「悩みはある」と憮然として答えるが、彼は “馬” という生きる上での確固とした枠組みを持っている。それが生み出す手応えに迷い はない。
学が東京で携わっていたのは、購入したサプリメントをネット販売する仕事だ。威夫はなんども「情けねぇな、おめぇは」と学にいう。
それは学が身体を通して実感を得ることを知らないからだろう。口だけは達者な学に、威夫は実体のなさを感じたのだ。映画は厩舎で働く人たちの地道な暮らしを丁寧に綴っていく。早朝の掃除から始まって、調教、と身体を動かし汗をかいて働く。馬が 病気になると徹夜で看病し、仕事が終われば風呂で一日の疲れを癒す。賄いのおばさん・晴子(小泉 今日子)がこしらえてくれる食事は、 ご馳走は1つもないけれど、いかにもおいしそうだ。 食卓を囲む厩舎員たちの顔にはたっぷりした豊かさがある。生活に根を下した安定感がある。 なかでも学の小学校時代の同級生・テツヲ(山本 浩司)の素朴さがいい。東京から訪ねてきた人がいる、と告げに来たテツヲに、学が 「居るといったのか」というと、ニコニコしながら「だって、おめ、いるでねぇか」というのだ。これは人生の真実だと思う。“い る” ということの確かさ。それを保証してくれる人がいる安心。テツヲを見ていると、真っ直ぐに生きたい、という気持ちになる。 “いる” という確かさをもっとも強く感じるのは、「ばんえい競馬」で馬たちが吐く息を見る時だ。サラブレッドの2倍はあるという 大きな身体の輓馬(ばんば)が、ずんぐりした太い脚を踏ん張って、数百キロもあるソリを曳く。全長200 メートルのコースには障害が2カ所設けられ、馬たちはあえぎ
ながらも、じりじりと確実に越えていく。白い息がもうもうと湯気のように彼らの身体を包む。大地から生まれ、大地に根を生やしたような馬たち。学が東京にもどってやり 直す気持ちになったのは、逃げ隠れせず、“いる” ことから始めようと思ったからではなかろうか。 威夫の「馬を見てっと、気持ちやわくなってこねぇか? 馬はいいべ」という呟きが、温かく心に響いてくる。 主演の伊勢谷友介は、つかまえどころのない “今どきの若者” らしさに魅力があるが、会社社長→薬事法違反→死亡事故→裁判→ 倒産、といった話になると途端に芝居が嘘っぽくなる。もう一回り、役者としての成長が必要か。 直情的で無骨ながら、人柄の大きさと温かさを滲ませる佐藤浩市、さっぱりした気取りのなさに中年女の清潔感を漂わせる小泉今日子、 ともに素晴らしい存在感をみせる。とくに2人の間にそこはかとなく漂う慕情と、それを踏み越えない抑制には、大人の恋の清々しさが ある。大きな事件が起こるわけではないが、滋味深い映画だ。 【◎○△×】7 |
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5月 |
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ストーリー 江戸時代末期、流刑地・八丈島からの “島抜け” に唯一成功した実在の人物、佐原の喜三郎の史実をベースに、再び江戸に帰る日を 夢見て必死に生きる流人たちの、凄絶な “生” と “性” を綴る歴史ロマン。 火付けの罪で八丈島へ流された吉原の花魁・豊菊(松坂 慶子)は、“御赦免状” を貰いたいばかりに、島役人・稲葉重三郎 (根津 甚八)に身体を任せ、流人仲間の島抜けを密告していた。しかし、稲葉がただ自分の身体を弄んだだけなのを知った時、逆上して 刀で切りつけ、かえって彼の折檻を受けてしまう。 傷だらけの彼女を介抱したのは、博打の咎で流されてきたばかりの喜三郎(西島 千博)だった。江戸へ帰りたいという豊菊の願いを 叶えるため、喜三郎は毎日崖の上から海を眺めては、潮の流れを観察するようになる。 この映画が斬新なのは、これまで知ることのなかった江戸時代の流人たちの生態が迫真の重さで描かれる点だ。流刑(遠島)という のはこの時代、死刑に次ぐ重い刑であったという。 豊菊の台詞に「死罪にならずにすんで運がいいと思った」というのがある。たしかに罪人は裁きを聞いた時はそう思ったかもしれない。 しかし、島で待っている暮らしは死んだほうがマシと思えるような苛酷なものだった。 もともと遠島となる島は小さくて、島人自身がどうにか暮らしていける程度の劣悪な生活環境だ。本当のところ、流人を受け入れる 余裕などない。流人は当初持ち込んだ金品を使い果たせばあとは自活するしかないが、それとても方法は限られている。
わずかな土地を借りて耕したり、手に技術があるものは粗末な材料で作った品を江戸に送って売ってもらう。読み書きが出来る者は
村役場の書き役になることもあったらしいが、それは運がいいほうだ。豊菊のように遊郭にいた女は、春をひさぐしか生きるすべがない。本作で目の当たりにするのは、呻吟する流人たちの地を這うような 暮らしだ。 胸を衝かれる思いのする場面がある。島役人・稲葉から折檻を受け、ボロボロになった豊菊を喜三郎が介抱するのだ。意識を取り もどした豊菊は、「このまま島で死にたくない。江戸にもどりたい」と訴える。その時に彼女は、これまで何度もだれの子か分からぬ子 を身籠った。それを桑の枝を突っ込んで流した。もの凄く痛くて苦しかった、と打ち明け、慟哭する。 なんという地獄を豊菊は生きてきたのだろう。女として身震いが出るほどの凄まじさだ。こんな苦しみのなかで、人はなお生きたい のか、生きなければならないのか、と言葉を失ってしまう。 この告白があるから、豊菊の中に “闇を見た”、という喜三郎の言葉がリアリティを持ってくる。彼は「その闇に落ち込むと安心する」 という。喜三郎は博打の咎で流されてきたのだが、おそらくそ
の罪以上の深い業(ごう)を心の内に抱えている。それが豊菊の闇に呼応するのだ。奈落の底にどこまでも落ち込んでいく感覚は、当たり前の生活を送っている私には想像するだけでも恐ろしい。しかし一方で、破滅し つくした時、初めて救済が見えてくることも、人間の性(さが)としてありそうな気がする。若い花鳥(麻里也) が色仕掛けで迫っても喜三郎の気持ちを翻すことができなかったのは、彼と豊菊の結びつきが運命的なものだったからに違いない。 素顔に近い薄化粧で中年女のやつれをみせる松坂慶子が美しい。最後は、地獄を見た女だからこその潔さを見せて、胸を打つ。 本作は彼女の代表作の1つになるのではなかろうか。 奥田瑛二は本作が2本目の監督作品だそうだが、たしかな演出のわざに驚いた。島抜けに失敗した流人が、球状の竹篭に入れられて 崖から突き落とされる “ぶっころがし” の場面などは、残酷な刑であるにもかかわらず、詩情さえ漂う。しのつく雨、行く雲、波立つ 海、八丈島の自然が流人たちの情念を粘っこく伝えて迫力がある。監督としてもさらなる活躍を期待したい。 【◎○△×】8 |