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7月 |
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ストーリー 新進作家アレックス(ルーク・ウィルソン)はスランプに陥ってまったく筆が進まない。あげくにギャンブル好きが災いして、借金取り に商売道具のパソコンを壊される始末だ。30日間で小説を書き上げるからと、返済の猶予をもらったアレックスは口述筆記を思いつく。 現われたのは生真面目な速記者エマ(ケイト・ハドソン)、アレックスのなりゆき任せの物語に憤慨し、一々口をはさむ。2人で書き 上げていく恋愛小説が、やがて現実の2人の関係にも微妙な影響を及ぼして・・・。 ロシアの文豪ドストエフスキーが「賭博者」を書いた時のエピソードがもとになっているという。ソフィーー・マルソーが、1920 年代のリゾート地を舞台にした小説の魅力的な未亡人ポリーナに扮して、花を添えている。 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『アンリエッタのパリ祭』以来、こういったパターンの映画は私のお気に入りなのだが、どうも パッとしたものに出会わない。ヘップバーンとホールデンの『パリで一緒に』なんかはもうぜんぜんダメ。見ていてしまいに腹が立って きたほどだった。本作はそれよりはましだけど、なんか盛り上がりに欠ける。 『アンリエッタのパリ祭』では、“現実”のほうは中年男性の2人の脚本家が、映画のシナリオを共同執筆しているという設定だ。構想 がまとまり、アンリエッタの可憐な恋が映像となって語られ始めると、見ているこちらもすっかりそれに入り込む。ところが突然、 「だめだめ、それじゃだめだよ」なんていう太い男の声が画面にかぶさり、“現実”に引き戻される。 ここでは2人は床屋で髭を剃って いたり、ものを食べながら通りを歩いていたり、街路のカフェでお茶を飲んでいたりする。2人は口論したり笑いあったりしながら ストーリーを練り直し、“映画”は巻きもどしされて違う方向に展開 していく。 “映画”がいきなり中断されて“現実”に引き戻され、 やり直される、というのはメリハリが利いて、なかなか面白い効果を出していた。
しかし本作は、小説の内容がベタにアレックスのナレーション付きで描かれるせいか、独立した物語として生き生きと立ち
上がってこない。ナレーションを説明するための映像、という印象なのだ。第一、小説のストーリーそのものがひねりがなくてあまり 面白くない。なり行き任せのアレックスと生真面目なエマがぶつかり合うのだから、もっととんでもない方向にストーリーは二転三転 できるはずなのだが、あらかじめ予想できる範囲内で予定調和的に進んでゆく。2人が書き上げていく恋愛小説が、現実の2人の関係に 影響を及ぼしてゆくという設定が、あまりうまく生かされていないのだ。 ケイト・ハドソンが、ドイツ人、スペイン人、アメリカ人など いろんな国のメイドに扮して奮闘しているが、それもメイドの性格が国民性の違いを反映している、という程度の味付けで終わっている。 私はむしろ小説が完成し、現実のアレックスとエマの関係に話が絞られてからのほうが面白かった。架空の人物と思われていた ポリーナが実際に現われ、エマに傾いていたアレックスの心が揺れる。そんな彼のいい加減さに傷つくエマ。 キュートなケイト・ハドソンの魅力が十分に発揮されて、ここからは素敵なるラブ・ストーリに仕上がっていたと思う。 【◎○△×】6 |
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7月 |
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ストーリー 1960年代初頭のアメリカ。父親のいない14歳の少年ウォルター(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は、母親(キーラ・セジ ウィック)に騙されるようにして、テキサスにいる2人の大伯父ハブ(ロバート・デュヴァル)とガース(マイケル・ケイン)に 預けられる。2人は何かというとライフルをぶっ放す荒っぽい老人で、大金を隠し持っているという噂もあり、素性は謎めいていた。 無口で無愛想な2人に初めは戸惑っていたウォルターだが、徐々に彼らの暮らしに溶け込んでいく。 ある日、ウォルターは屋根裏部屋で、古いトランクの底に隠された美しい女性(エマニュエル・ヴォージア)の写真を発見する。一方、 夜になると湖のほとりに佇むハブ。好奇心を掻き立てられたウォルターに、ガースは若い頃ハブと経験した壮大な冒険を語り出す。 荒野の一軒家のベランダで老人が2人、近づくものには問答無用でライフルをぶっ放す。このオープニングはなかなか好調だ。しかし、 物語が進むに連れてだんだん期待が尻すぼみになっていく。一番残念なのは、ハブの過去の冒険譚がそれほど荒唐無稽に感じなかった ことだ。ガースが兄の冒険譚を語る形になっているせいか、語り手と物語の間に距離があるのだ。これはハブ本人
にうんと大風呂敷を広げてほしかった。それにガースの冒険譚がないのも物足りない。2人そろっての奇想天外な大ぼら話なら、面白さは2倍3倍になったと思うのだが。 要は、せっかくマイケル・ケインとロバート・デュバルという名優をそろえているのに、マイケル・ケイン扮するガースが、兄のハブ・ マッキャンの引き立て役で終っているのだ。それならガース役にこんな大物俳優を持ってこなくてもよかったんじゃないかなぁ。勿体 ない気がする。 ウォルターは男に騙されてばかりいる母親との暮しから、昔かたぎの頑固一徹な老人たちの暮しに一挙に放り込まれた。老人たちの 暮しぶりや過去の冒険譚は、これまで知らなかった世界をウォルターの眼前に開き、思春期の彼が必要としていた“男性性”を育てる 役割を果たしたのではないだろうか。一方、老人たちも決まりきった面白みのない生活が、ウォルターの出現で生き生きしたものに 変化したはずだ。 しかし本作は、“ほら話”を媒介として、彼らがどう影響しあっていったのかが今1つクリアに見えてこない。そこが もっとダイナミックに描かれたら、この映画はずっと面白いものになったと思う。 ウォルター役のハーレイ・ジョエル・オスメントはあいかわらず達者な演技を見せるが、“演技者”として手馴れた感じも出てきて、 俳優として難しいところにかかっているなぁと感じる。才能は十分にあるのだから、うまく成長してほしいと思う。 【◎○△×】6 |
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8月 |
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ストーリー 映画は2000年の大統領選からスタートする。ブッシュ大統領の足跡を辿る中で、家族、友人、サウド王家とビン・ラディン一族 とのビジネス上の“特別な”つながりを見せつける。そしてサウジマネーがアルカイダを作り、9.11同時テロのハイジャッカー 19人のうち15人がサウジアラビア人だったにもかかわらず、ビン・ラディン一族24人がFBIによる取調べを受けることなく メデタク出国許可をもらえたのはなぜ?と問いかける。(パンフより) 本作はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。本国アメリカでは親会社ディズニーの圧力で一時公開が危ぶまれる事態となり、話題を 呼んだ。 監督マイケル・ムーア、主演ジョージ・W・ブッシュと言いたくなるほど、ブッシュ大統領が面白い。2000年9月11日、ニュー ヨークで同時多発テロが起こった日、彼はフロリダの小学校を訪問していたのだが、そこに第一報が入り、大統領補佐官から耳打ち される。一瞬固まったブッシュ氏、それから目を宙に漂わせる。「ほんと?」「まさかねぇ・・・」「やっぱりほんとなのかな?」、 そんな彼の心情がそのまんま顔に現われている。あまりに人間臭い反応に、思わず噴き出しそうになる。
アメリカは映画にわりあいよく大統領が登場する。そして、大統領を演じる俳優は「らしい」とか「らしくない」とかいろいろ批評される。
『デーヴ』のケヴィン・クラインなどは、「軽すぎる。こんな大統領はいない」とけなされていた。(私の見解では、彼は立派に大統領
らしかった。)さて本作のブッシュ氏だが、彼を見ていて「彼がほんとは俳優で大統領を演じてるのだとしたら、きっとこきおろされるクチだろう な」と思った。ムーア監督があえてそういう映像を集めたのかも知れないが、彼のタレントっぽい軽さが「らしくない」のだ。(この辺り、我が小泉氏にも共通する。2人がウマが合うのはもっともかも知れない。) 彼をしげしげ眺めていると、「これが世界一の大国、アメリカの大統領か・・・。権力の頂点に立つ人なのか・・・」とちょっと信じられない気分になる。それでも、彼がイラクを攻撃する と決めればそうなる。そうしてイラク戦争が始まったのだ。だんだん「怖いな・・・」という気持ちになる。 本作でも、ムーア監督の突撃精神は健在だ。とくに、議事堂前で議員たちに「あなたの息子や娘をイラク戦に送ろう」と呼びかける 場面には唸ってしまった。自衛隊の海外派兵(“派遣”というべきだろうけれど、“派兵”に等しいと私は思っている)の法案が通る たびに、私などは「まず隗より始めよ。法案を通した議員は自分の息子をやったらどうなの」と言いたくなるからだ。 本作はニューヨーク・テロに続くイラク攻撃と、ブッシュ一家とビン・ラディン一族の関係を暴露することに焦点を絞っているので、 “アメリカという国”の暴力的体質の根源を探ろうとした前作『ボウリング・フォー・コロンバイン』ほどには、映画としての 奥行きはない。正直なところ、これがカンヌのグラン・プリ?と思わないではない。多少プロパガンダ的匂いがないではないが、それもこれも アメリカのうち、なかなか面白かった。 【◎○△×】7 |
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9月 |
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ストーリー 本作で監督デビューを飾ったマシュー・ライアン・ホーグは、ロサンジェルスの少年院で教師をしていた時の体験をもとに脚本を執筆。 なぜ、平凡な少年が殺人を犯すのか。青少年による信じがたい事件が頻発する「今」を独特の視点で描いている。 高名な作家(ケヴィン・スペイシー)を父に持つ16歳の少年リーランド(ライアン・ゴズリング)は、ある日突然、知的障害を持つ 少年ライアンを刺し殺してしまう。ライアンは恋人ベッキー(ジェナ・マローン)の弟で、彼は日ごろから親身に世話していただけに、 誰もが衝撃を受ける。 リーランドは少年院に収容されてからも、彼は殺人の理由を語ろうとしない。しかし、教師パール(ドン・チードル)と出会い、 徐々に心の内を語り始める。一方、悲しみの淵に突き落とされたベッキーの家族は、それそれが心のバランスを失っていく。 “人を殺す” ということは他の犯罪とは質が違う、と私ははっきり思っている。本人がそうと自覚しているかどうかに関わらず、 何らかの理由がなくてはならない。もしも、本人がそれを意識化できないほど未熟であるなら、社会はそれを解明する義務がある。 解明できないまでも、その努力をしなければならない、とも思う。
本作の主人公リーランドは、心の優しい少年だ。恋人ベッキーの知的障害を持つ弟ライアンの面倒もよく見ている。その彼がある日、
突然ライアンをナイフで刺し殺してしまう。周囲は驚愕し、当然「なぜ?」と問う。リーランドは、みなが「理由」を知りたがっている
ことはよく分かっているが、語ろうとしない。殺人を犯す少年がとくべつ凶悪な犯罪少年とは限らない。ごく普通の平凡な少年が犯してしまうことがある、というテーマは分かるし、 誤っていないと思う。しかし、「なぜ」が分からないことが、私の心を落ち着かなくさせる。もちろん、安易に分かりやすい答を持ち 出されても困る。きっと「人間の心ってそんなに単純じゃない」といいそうな気がする。 映画を見て感じたのは、リーランドはその優しさのゆえに、ライアンを待ち受ける人生の困難に耐えられなかったのだろうか、という ことだ。しかし、それももう1つ納得いかない。“人を殺す” にはあまりにセンチメンタルだ。そん理由で人は人を殺さない。 少なくとも私はそう思う。 リーランドの周辺の人々のドラマはきちっと構成されて、丁寧に描かれている。ライアンを失って、その悲しみからバラバラになって しまうベッキーの家族、売れない作家で、リーランドをネタに小説をものしようという下心で初めは接近したものの、徐々に真摯に彼に 向き合うようになる少年院教師のパール。 映画が誠実に作られていることは紛れもない。しかし、なにか消化不良のものが私の中に残った。 【◎○△×】7 |
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7月 |
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ストーリー 英国の人気ミステリー作家サラ・モートン(シャーロット・ランプリング)は、創作に行き詰まりスランプに陥っていた。出版社社長 ジョン(チャールズ・ダンス)はそんな彼女に、南仏プロヴァンスの彼の別荘で気分転換を図ることを勧める。そこは明るく静かで、 執筆に集中するには最適の場所だった。 ところが、突然ジョンの娘ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)がやってきて、サラの生活を乱し始める。昼はプールで大胆な肢体 をさらし、夜は行きずりの男を引き込む奔放なジュリー。初めは苛立つサラだったが、次第に彼女に興味を持ち始め、彼女をモデルに 小説を書こうと思い立つ。 そんなある日、サラはプールサイドに血痕を見つける。ジュリーが村のウェイター、フランク(ジャン=マリー・ラムール)を殺した のだ。遺体を処理した2人に奇妙な共犯意識が生まれる・・・。 私が最初に「あれ?」と思ったのは、バカンスを終えて、サラが出版社にジョンを訪ねていった時に、やはりジョンに逢いに来た ジュリーとすれ違うシーンだ。ジュリーはあれだけの出来事をともに経験したサラを一顧だにせず、脇をすり抜け、父親と抱擁する。 それをサラはガラス越しに興味深げに見守る。(この時点では、私は小生意気なジュリーがわざとサラを無視しているのかと思って いた。) この直後の、サラが別荘のベランダに立って「ジュリー」と呼ぶと、若い女が樹間から手を振って応えるショットで映画は終る。 ところがその女はジュリーと似ても似つかぬ別人なのだ。これはどうしたことか? そこから私の好奇心がむくむくと頭を持ち上げた。 【◎○△×】7
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8月 |
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ストーリー 井上ひさし原作の同名の舞台劇の映画化。『TOMORROW 明日』『美しい夏キリシマ』に続く黒木和雄監督の“戦争レクイエム 三部作”完結編。主演は宮沢りえと原田芳雄。2人の会話の中に原爆資料を収集する青年の役で浅野忠信が登場するが、実質的には2人 芝居で、原作にほぼ忠実な映画化となっている。 原爆投下の3年後、48年夏の広島。被爆で親や親友を奪われた図書館勤めの美津江(宮沢りえ)は、一人生き残ったことに負い目を 感じ、自分は幸せになってはいけないと固く心に誓っていた。 ある日、美津江は図書館で原爆資料を収集する青年・木下(浅野 忠信)と 出会う。2人は互いに惹かれ合うが、美津江は自分の思いを押さえ込んでしまう。見かねた父・竹造は幽霊となって現われ、木下への恋 を受け入れるよう、懸命に美津江に語りかける。わずか4日間の物語だが、娘の“恋の応援団長”を名乗る父の幽霊との交流を通し、娘 が生きる希望を再発見していく様子を優しく綴っている。 舞台の前にカメラを据えてそのまま写しているような演出は、私には少し窮屈なものに感じられた。原作を大切する思いは伝わって くるが、映画は映画としてもっと自由な作りをしてもいいんじゃないかという気もする。たとえば、木下が美津江に饅頭をやる冒頭の エピソードや、彼が集めた原爆資料を美津江が預かることになるいきさつなどは、すべて美津江と竹造の台詞で説明される。 美津江の木下への慕情は、彼女の仕草や表情でそれとなく察せられるが、木下の美津江への想いも同様に、さり気ない映像として織り込んでも よかったんじゃなかろうか。娘の“恋の応援団長”として現われた竹造が、「そうに決まっている」と力説する形で描かれるだけなのが 少々物足りない。
宮沢りえは冒頭の雷に怯えるシーンはややぎごちない演技ぶりだが、尻上がりに調子が出て、最後は引き込まれるような見事な演技
だった。『たそがれ清兵衛』でも感じたことだが、彼女は小さなさり気ない仕草をじつに大切に丁寧に演じる女優だなと思う。ごぼうの ササガキを作る手の動き、水で冷やしたビールの底を布巾で拭う仕草、小腰をかがめて庭先を掃く姿・・・、こういうささやかな日々の 営みのなかの仕草に心が篭っている。美津江のつましく美しい心根が感じ取れる、そういう演技をする。最近では稀有な女優になりつつ あるのを感じる。 原爆が投下された後の広島の様子を極力抑えた表現にしているのに好感が持てた。それでかえって3年後の今を生きる美津江のつらさ が、深みを持ったような気がする。死んだ人に負い目を持ち、自分は生きてはいけない人間なのだという美津江に、竹造は「お前はワシ に生かされてるんじゃ」という。これは至言だと思う。生者は死者によって生かされている、生きて、孫、そのまた孫、と命を繋いで いかなければ、死者は立つ瀬がない。竹造がこの世に現われたのは、美津江にこれを言いたかったためなのだと思った。 頭を上げて生きろ、幸せになれ、そんな父の願いを、原田芳雄は科白の行間、仕草の隙間に表現する。「20年も伊達にヤモメをやって ない」と豪語する娘思いの父親を、ユーモラスに、余裕たっぷりに演じてさすがだった。 【◎○△×】7 |
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9月 |
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ストーリー 1987年にカナダの少年が実際に体験した出来事を映画化している。 10歳の少年ピート(マーク・ドネイト)は末期の脳腫瘍のために、あと数ヶ月の命と宣告されていた。彼の夢は、中南米の熱帯雨林 にしか生息しない青い蝶“ブルー・モルフォ”を捕まえることだった。世界的な昆虫学者アラン・オズボーン(ウィリアム・ハート)が、 テレビ番組で “出会った者の運命さえ変える神秘的な蝶” と紹介していたのだ。 ピートの願いを知った母・テレサ(パスカル・ブシェール)は、アランを訪れ、中南米に一緒にいってほしいと懇願する。初めは きっぱり断わったアランだったが、ピートの熱意に負け、ついに同行を決意する。 脳腫瘍で余命いくばくもない少年が、中南米の熱帯雨林に蝶の採集に出かけ、戻ってみたら腫瘍が消えていたという、奇跡譚に類する 話かと思う。 こういったタイプの映画は、観客は初めから感動したい気持ちで見に行くので、あとはその観客の気持ちをどう乗せていくかになるが、 残念ながら本作は主役の母子が魅力が薄く、感動しそこねた。 たとえば、母テレサ。夫の死後、女手1つで息子を育て、その息子も余命3,4か月といわれた母の気持ちは分からないではないが、 そのために視野狭窄状態に陥ったかのような息子中心の発想・行動が気になる。簡単にいえば「わがまま」という印象なのだ。 末期のガンで車椅子でしか移動できない10歳の少年を、中南米の熱帯雨林に連れて行く。考えただけでも大変なことだ。しかも、 ブルー・モルフォの採集には時期が遅い。それを強引に承知させたにしては、テレサからはアランに対する感謝や申し訳なさがあまり 感じ取れない。そのせいか、彼女に芯から共感する気持ちが湧いてこないのだ。
主人公の少年ピートは、「ブルー・モルフォを捕まえればこの世の神秘が分かる」というアランの言葉にしつこく拘り、アランを辟易
させる。彼がブルー・モルフォに熱中する様子を描きたかったのかな、とも思うが、「可愛げのない子」という印象のほうが強く
なってしまった。アランの別れた娘のことなど、彼の内的世界にずかずか踏み込むのも、子供とはいえ気になる。同じ年頃の原住民の少女との交流をもっと膨らませて描けなかったものだろうか。彼女はピートに「なぜそんなにブルー・モルフォ だけに拘るのか」という。「すべてが神秘だ。あなたは何も分かっていない」と。 初めはその意味が分からなかったピートが、最後には、彼女からもらったブルー・モルフォを標本にせずに放してやる。ここに至る 彼の内的変化がもっと丁寧に描かれていたなら、もっと心に残る映画になったのではないかと思う。 アラン役のウィリアム・ハートはさすがに安定した演技ぶりだった。 ブルー・モルフォって意外に大きな蝶だ。羽を開くとメタリックな青が太陽の光を反射して光る。これが森の樹間を羽をきらめかせ ながら滑るように飛ぶさまは、本当に幻想的で美しい。思わず目を奪われた。 【◎○△×】6 |
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9月 |
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ストーリー 『シックス・センス』のM・ナイト・シャマラン監督が、閉ざされた村を舞台に描くミステリー・スリラー。 深い森に囲まれたその村では、3つの奇妙な掟を守りつつ、人々は大きな家族のように強い絆で結ばれ、ひそやかに、しかし平和な 暮らしを営んでいた。 盲目の少女アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)と寡黙な若者ルシアス(ホアキン・フェニックス)の婚約が披露された日、 ルシアスが知恵遅れの若者ノア(エイドリアン・ブロディ)に刺されて大怪我を負う。起こってはならない「犯罪」が起きたのだ。 アイヴィーは村にはない薬を手に入れるため、恐ろしい魔物が住む森を抜け、町へ行くことを決意する。 その村は過去に悲惨な体験をした人たちが寄り集まってひっそりと暮している。彼らにとって、“森”は恐怖のシンボルであり、その 外にある“町”は恐怖の実体をそのものだ。そういう意味では、この映画は彼らの心理的恐怖をじっくり描かないと面白みが半減すると 思うのだが、シャマラン監督は方向を間違えたように思えてしかたない。 葉の落ちた寒々しい林の映像は非常に魅力がある。しかし、不気味な音楽がこれ見よがしに響いても、その時はたしかにびっくりする が、なんども繰り返されるとまたかの気分になってくる。
住民(“年長者たち”)はなぜ外界を拒否して、村に閉じこもらなければならなかったか。また、閉じ籠ることで生じたに違いない
住民間の矛盾や葛藤。これらが、“真相”として油紙に浮かぶように滲み出てくることで、ストーリーに奥行きが出てくるのだと思う。しかし、恐怖の実態が仕掛けた本人の口から意外に簡単に明かされたり、村にとって一番の禁忌であるはずの「町へ出る」ことが、 “愛”の名の下にあっさり実現してしまったりする。肝心の部分が表面的な描写で終っているのが本作を弱くしていると思った。 じつは、ホアキン・フェニックス、エイドリアン・ブロディが出ているので見にいったのだが、ほかに、ウィリアム・ハート、 シガーニー・ウィーヴァーと実力派俳優がそろっているのに、みな見せどころなく終っている。もったいない。ゆいいつ収穫は アイヴィーを演じたブライス・ダラス・ハワード。美人とはいえないけれど、雰囲気があってチャーミングな女優だと思った。 【◎○△×】6 |
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7月 |
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ストーリー イタリア南部の孤立した小さな村を舞台に、大人たちが関わっている犯罪を知ってしまった少年の葛藤と成長を描いている。イタリア の文学賞を受賞した同名ベストセラー小説の映画化。 1978年の夏、南イタリア。麦畑が波立つ海のように一面に丘をおおう。ミケーレ(ジョゼッペ・クリスティアーノ)は、そんな中 にあるたった5軒の小さく貧しい村に、両親と妹と暮らす10歳の少年だ。彼はある日、丘の向こうの秘密の遊び場で、廃屋の裏に板で ふさがれた穴があるのを発見する。中を覗くと、なんと鎖に繋がれた同じ年頃の少年がいた。恐怖と好奇心の入り混じった気持ちで、 ミケーレは徐々に少年と言葉を交わすようになる。少年はミラノの富豪の息子、フィリッポ(マッティーア・ディ・ピエッロ)だった。 その頃大好きな父(ディーノ・アッブレーシャ)が出稼ぎからもどる。しかし、父にはブラジル帰りの粗野な男セルジュ(ディエゴ・ アバタントゥオーノ)がついており、村の大人たちがしげしげ集まるようになる。そしてある夜、ミケーレは彼らが口論するのを盗み 聞きし、フィリッポに関する大人たちの恐ろしい秘密を知ってしまう。 イタリアではじっさい、身代金目当ての誘拐事件が頻発しているらしい。これは、村ぐるみでその犯罪に関わっていることを偶然 知ってしまった少年の物語だ。 ミケーレがフィリッポを穴蔵から外に出してやるシーンが印象的だ。狭い穴蔵のなかで何ヶ月も過ごしたフィリッポは足腰が弱り、 暗闇にあまり長くいたせいで、目もよく見えない。ミケーレはフィリッポを負ぶって、眼前に広がる麦畑を見せる、「海だよ」と言って。 麦畑をわたる風が潮騒のようにざわめく。黄金色の麦が波のように揺れて美しい。自由の象徴のような空間が広がっている。
私はこのあと、ミケーレはフィリッポに「逃げろ」と言うとばかり思っていた。ところが、2人はまた穴蔵にもどるのだ。どうやら
そういうことは夢にも考えていないらしい。ミケーレが思ったのは、穴蔵の外の新鮮な空気を思いっきりフィリッポに感じさせたい、と
いうことだけだったようなのだ。子供は無力な存在だけど、その無力さは“自分は何が出来るか”をまだ知らないことからも生まれて
いるんだな、と思わせられる。村に住む子供たちはいつも自転車に乗っている。麦畑におおわれた丘、照りつける太陽、午睡する村人、いつもと変わらぬ夏・・・。 風と一つになって走る少年たち。自転車は彼らにとてもよく似合う。でも、停まれば倒れる不安定な乗り物だ。それが少年期の不確かさ にとてもよく似ている。 ミケーレは、身代金奪取に失敗した大人たちがフィリッポを殺そうとしているのを知り、違う場所に移された彼を 探しだして助け出す。こうしてミケーレは一気に少年期を通り抜ける。一見平穏な日常の中に潜む大人の悪を知ったことで、彼のなかの 勇気や正義感は、ミケーレに“自分は何が出来るか”を教えた。それが不確かな少年期を彼が通り抜けた証のような気がした。 母親を演じたアイタナ・サンチェス=ギヨンが若い頃のソフィア・ローレンを髣髴(ほうふつ)とさせる。憂い を秘めた情熱、豊かな母性、成熟した美貌、魅力的な女優と思った。 【◎○△×】7 |