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12月 |
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ストーリー デヴ(アリー・シーディ)、ドナ(マーセリン・ヒューゴー)、ダイアン(マーラ・スカレッツァ)の3人姉妹は、病気で倒れた母 (タイン・デイリー)のたっての願いで、20年前に分かれた弟ダニエル(デヴィッドリー・ウィルソン)を探し出す。 母はバスの運転手をしながら女手一つで苦労して3人を育てたのに、別れた父(ジャック・デヴィッドソン)は事業に成功し、弟 ダニエルはハーバードの学生で結婚をひかえ幸せいっぱいだった。 戸惑いながらも再会を喜ぶダニエル。なんとかして家族を結びつけようとするが、長い年月の溝はなかなか埋められない・・・。 両親が離婚した時、子供がそれをどんな風に受けとめるのか、真正面から描いた映画はこれまで余りなかったような気がする。 本作では長女のデボラが一番大きな心のダメージを受けたようだ。長女として母親との一体感が強く、母親のその後の苦労を一番肌で 感じて育ったせいだろう、父親への怒り・反発もそれだけいっそう強い。
次女ドナや三女ダイアンの父に対する感情が比較的ゆるやかなのは、父への怒りをデボラ1人が引き受けて、彼女たちはいわばその
防壁に守られたせいともいえる。両親の離婚により一番の被害を被ったのはデボラのようだ。子供と一口に言っても、その時の年齢や長男・長女か末っ子かなど、その時の子供の環境によって受け止め方は当然異なるだろうが、 得てして、こうした家族の犠牲を一身に負ってしまう子供が現われるものだ。 デボラに扮したアリー・シーディのオーバーアクションにはちょっと引いてしまう部分もあるが、そ
れでも彼女の悲痛な叫びは胸に迫る。それだけに、母親はなぜ夫と子供たちとの面会を拒絶したのか、なぜ夫の援助を拒否したのか、さらになぜそのことを子供たちに ちゃんと説明しなかったのか、と疑問に思った。 それによって、父に見捨てられたと思うデボラの苦しみは、ずいぶん軽減されたのではないかと思うから。 母親にはそうせざるを得なかった母親なりの理由があると思う。その彼女の視点なり心理がもっと描き込まれたら、映画はぐんと 奥行きを増したんじゃないかと思う。 ちょうど、秋のボストンを訪れた直後に見たこともあり、紅葉の美しいボストンの閑静な佇まいや、戸口の階段に置かれたかぼちゃや 藁人形のハロウイン飾りがとても懐かしかった。 【◎○△×】7 |
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12月 |
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ストーリー ニューヨークの空にオーロラが出現し、メッツのワールド・シリーズ出場に市民が熱狂した1969年10月。6歳のジョン・サリ ヴァンの幸せな日々は、消防士の父フランク(デニス・クエイド)の殉職によって突然終わりを告げる。 それから30年後、ニューヨーク上空にまたもオーロラが現れた夜、警察官になっていたジョン(ジム・カヴィーゼル)は父が愛用して いた古い無線機を見つける。そこから聞こえてきた男の声は死んだはずの父にそっくりだった・・・。 時空の裂け目を通って無線の電波が「過去」と「今」を結び合わせ、絆を深めた父と息子はタイム・パラドックスから生じた予期せぬ 事件に立ち向かっていく・・・。 タイムトラベルものでは過去を変えるのは本来タブーになっている。その影響で現在の事実まで変わっては困るからだ。ところがこの 映画はそういう “お約束ごと” なんて一切お構いなし。どんどん過去を変えてしまう。そのために現在が変わると、それが影響してさら に過去が変わる。
なんとも破天荒だが、話がこんがらがることもなく、当然起きる矛盾もあまり気にならないのは脚本のうまさなのだろう。タイムパラ
ドックスの枠をあっさり超えた面白さがある。何十年に一度というオーロラがニューヨークの空に現れた夜、警官のジョンは父の形見の古い無線機を見つけ、1人の男と会話する。 それは驚いたことに、30年前に殉職した消防士の父だった。 無線機から聞こえている声が、今同じこの場所に座り、同じ無線機に向かっている父の声だという不思議さ。2人の間には30年の 隔たりがあるというのに、なんとリアルな感覚なのか。 父のフランクがジョンに渡す品を指定した場所にしまい、そこをジョンが探す場面がある。一見、フランクが今しまって、今ジョンが 出すのだから簡単そうなのに、フランクはじつに丁寧に周到にしまう。なぜならジョンが出すのは30年先だからだ。それまでに誰かに 見つけられてはいけない。 実際、ジョンはすぐ探し出すのだが、その品はすっかり古びている。たしかに30年の時が流れたのだ。こうした細かな演出が、ファン タジーでありながらもリアリティを感じさせる。
明日が父フランクの殉職した日と知っているジョンは、必死にそれをフランクに伝える。無事生還したフランクは、机に焼きゴテで 「まだ生きてるぞ」と書きつける。ジョンの見ている前で、じりじりと木が焦げ文字が現れてくる。父と子の愛情がストレートに伝わる シーンだ。 初めに書いたように、フランクが生還したために「過去」「現在」に異変が起き始めるのだが、なかでも30年前に起こった看護婦 連続殺人事件が彼らに大きく関わってくる。「過去」の父と「現在」の息子はタッグを組んで真犯人を追いつめていく。親子だけに息の 合った連係プレーが見事。「過去」が突然「現在」になだれ込んでくるクライマックスには意表を衝かれた。 父親フランクを演じたデニス・クエイドがすごく素敵。地下変電所火災で人命救助する勇敢な消防士、息子に自転車の乗り方やキャッチ ボールを教える頼もしい父親、妻を抱いてダンスするセクシーな夫・・・、息子の目に映る理想的な人物像を好演していた。 【◎○△×】7 |
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11月 |
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ストーリー 1937年、オーソン・ウェルズが演出したミュージカル劇「クレイドル・ウィル・ロック」が初日を前にして劇場を封鎖された。 本作はこの実話をもとに、芸術家や演劇人があがき苦しみながら、表現の場を求めて闘う姿を描いている。 1930年代、労働者のストライキが止む気配のない大恐慌のニューヨーク。政府は失業中の演
劇人を救済する新プロジェクトを発令し、女優を目指すオリーヴ(エミリー・ワトソン)はかろうじて舞台の清掃係の仕事を得る。その頃、作曲家マーク・ブリッツスタイン(ハンク・アザリア)は妻とブレヒトの亡霊に悩まされながらミュージカル 「クレイドル・ウィル・ロック」を書き上げる。 それはプロジェクトに採用され、22歳のオーソン・ウェルズ(アンガス・マクファーデン)が演出を担当することになる。 オリーヴはオーディションでウェルズに見出され、主役に抜擢されるが・・・。 一方、ニューヨークの実業家たちは芸術を金で支配することを楽しんでいた。大資本家ネルソン・ロックフェラー(ジョン・ キューザック)は、ロックフェラー・センタービルの壁画を、共産主義者のメキシコ人画家ディエゴ・リヴェラ(ルーベン・ブラデス) に依頼する。 内容が詰め込みすぎじゃないのかなぁ、というのが最初に浮かんだ感想だった。登場人物もエピソードもとても多い。その1つ1つは けっこう面白くて、身を乗り出して見てしまうのだが、その分全体の印象がばらけてしまった気がする。 この映画は30年代のアメリカの大恐慌を背景として、社会主義思想への弾圧が強まっていく様子と、政府の圧迫をかいくぐって、 演劇人たちがミュージカル「クレイド・ウィル・ロック」を上演する
までが、並行して描かれる。それがとてもよく分かるのが、ロックフェラー・センターに描かれたメキシコ絵画の巨匠、ディエゴ・リヴェラの壁画が破壊される 様子と、「クレイドル・ウィル・ロック」が出演者たちの熱意で上演される様子が交互に描かれる場面だ。 「クレイドル・ウィル・ロック」の上演場面は映画のクライマックスだ。このミュージカルは組合活動を描いていたために、劇場は 封鎖され、上演禁止が通達されたのだ。逆らえば、政府の新プロジェクトによって雇用された俳優たちは、即失業に追い込まれる。 そんな厳しい状況下で、客席を埋めた演劇人や出演者たちが次々に立ち上がって歌い始め、やがて全員が一体となって「クレイド・ ウィル・ロック」の波が劇場を包んでいく。彼らの演劇への熱い思いが政府の圧力を撥ね退けたのだ。
本来は爆発的なカタルシスを伴わなければならない場面なのだが、なにか完全燃焼しきれないものが残る。一応、それなりに感動的
ではあるのだが・・・。2つのテーマを同じ比重で描くことで、表現の自由が圧迫されていくアメリカの “時代” そのものを、立体的に浮き上がらせようと したのかもしれないが、そのために話が分散してしまった。 「クレイド・ウィル・ロック」1つにはっきり焦点を絞ったほうが、このミュージカルが “時代” にどのような意味を持ったのかが、 鮮明になったような気がする。ティム・ロビンスの演劇人としての思い入れが先行してしまった感じだ。 群像劇とはいえ、主役といえるような強力な人物が存在しないことも、印象が散漫になった理由のように思える。その中では、 イタリア移民の子沢山の俳優に扮したジョン・タトゥーロと、弟子にネタを盗まれ、行き場を失くしていく腹話術師を演じたビル・ マーレイが印象に残った。 【◎○△×】7 |
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12月 |
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ストーリー 21歳のヴァイオレット(パイパー・ペラーポ)は、ソングライターになるという夢を胸にニューヨークへやって来る。デモ・テープ 片手にレコード会社を訪ねて回るが、ことごとくボツ。所持金も底をつき、クラブ・バー “コヨーテ・アグリー” で働くことになる。 店の売りは、ひしめき合う客の前で繰り広げられる女性バーテンダーたちのセクシーでパワフルなパフォーマンス。熱狂の渦の中で 呆然と立ち尽くすヴァイオレットを女性オーナー、リル(マリア・べロ)がけしかける、「さあ、ステージに上がって」と。 ニューヨークのイーストビレッジに実在するバー、《コヨーテ・アグリー》 が97年「GQ」誌に掲載されたことがきっかけで、この 映画の企画が始まった。ストーリー自体は架空のものだが、ここで働く女性バーテンダーたちのパワフルなエネルギーがモデルになって いる。 数年前(02年)、ブルガリアの田舎町をバスで走っていたら、道端のカフェに英語で 《コヨ−テ・ アグリー》 と看板が出ているのを見かけた。 本作はヒットしたのかどうかも分らないほどこじんまりした映画だから、このカフェのオーナーが映画からこの店の名前を考えついた とは思いにくい。多分、NYにあるという実在のバーを知っていて、それにちなんで命名したのだろうと思う。ごく小さなカフェで、 しかも東欧の片隅だ。びっくりした覚えがある。
映画も、ストーリーそのものより舞台となるバー、《コヨーテ・アグリー》 の印象が強烈だ。従業員の女性バーテンダーたちが一斉に
カウンターの上に跳びあがり、ステップを踏む。そのエネルギッシュなこと! 客も一体になってパワーが爆発し、店内に熱狂が
漲る。なにしろみんな若くてスタイルがよくて美人だ。バーテンダーに不埒なことをしかける客も出てくるが、そういう客には遠慮なしに カウンターの上からホースで水が浴びせられる。 実際にこういうバーに行ったら、私などは圧倒されて逃げ出しそうだが、映画で見ている限りはじつに楽しい。健康的でセクシーで、 その魅力だけで2回もこの映画を見てしまった。 店のオーナー、リルを演じるマリア・べロは姐さん格でちょっと年長だけど、ほんとにいい女。美人で知的で分け知りで、気風も 飛び切りだ。こういうタイプの女性に私は弱い。それに比べると、ヴァイ(オレット)を演じるパイパー・ペラーポは、主役を張るに してはちょっと華が足りないかな・・・。 ストーリーはもう少し練りこんでほしかった気がする。ソングライターを目指すヴァイが屋上で練習するシーンなど、チャーミングな 場面もあるけれど、彼女は舞台恐怖症で人前では歌えない、という設定がうまく生かされてないのだ。 というより、そういうひねった趣向を持ち込まず、もっと単純に、田舎出の女の子が成功をつかむまでのサクセス・ストーリーでも よかったんじゃないかと思う。 【◎○△×】6 |
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11月 |
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ストーリー 1958年。アメリカ初の宇宙飛行士として大気圏外のテスト飛行に挑むことになっていた《チーム・ダイダロス》。しかし実際に この名誉ある任務を遂行したのは、一匹のチンパンジーだった。 ・・・それから40年。ロシアの通信衛星のシステムが故障し、NASAから同じシステムの人工衛星スカイラブを設計したフランク ・コービン(クリント・イーストウッド)に修理の依頼が来る。かくして、フランクのもとにかつてのメンバー、ホーク(トミー・リー ・ジョーンズ)、ジェリー(ドナルド・サザーランド)、タンク(ジェームズ・ガーナー)が結集し、再び宇宙に挑むことになる。 この映画、見る年齢で受け止め方がかなり違いそう。私はこの映画の公開時は50代、若くはないけど老人にもまだちょっと間がある 頃で、お年寄りの頑張りにハラハラしながらも、「男っていくつになってもワルガキそのまんまだな」と彼らの稚気を楽しんだ記憶が ある。 おかしかったのは、女性の前では色男ぶっている女たらしのジェリー(ドナルド・サザーランドがはまり役)が、食事中に、「入れ歯 の調子が悪い」とがたがた外そうとするシーン。サザーランドもよくやります。さすがに仲間たちも「おいおい」と身体をのけぞらす。 身体検査で4人スッポンポンで並んでいる後ろ姿にも思わず微苦笑。腰からお尻にかけて見事にしわしわ。こんなん見せられてもねぇ ・・・。でも、彼らあんがい自慢なのかな、っていう気もしたり
して。前半の訓練期間が、イーストウッドをはじめとする俳優たちが、自分たちの「老い」を笑いのめしながら、嬉々として演じている ところが抜群に面白い。 後半、宇宙に飛び出してからは、老人パワーだけではちょっと苦しくなる。ここは、若い力を上手に利用する老人の知恵の勝負で 行ってほしかった。で、人工衛星の軌道修正はちゃんと出来たのかな。そこがよく分からなかったけど・・・。 4人の中ではトミー・リー・ジョーンズが、他の3人より実年齢一回りくらい若いんじゃないかな。“年寄りの冷や水” グループに 入れるにはちょっと気の毒だが、その分、彼にだけロマンスを用意してちゃんとバランスを取っている。 彼がロケットに身体をくくりつけて、たった1人で月に向かって去っていく場面は悲しかった。月に到達できたのは、もしかすると フランクの想像(=願い)かもしれないけど、やっぱりホッとする。 青白い月面に横たわる白い宇宙服のホーク。そこに流れるアンディ・ウィリアムズのレトロな名 曲 “Let Me Fly to the Moon”。トミー・リー・ジョーンズはヤッパリもうけ役。だから出演OKしたのかも。 宇宙ヘルメットの中の彼の顔を見せなかったのは、イーストウッド監督の演出のうまさだと思う。 【◎○△×】7 |
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10月 |
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ストーリー ニューヨークで兄ジャスパー(ガーランド・ウィット)と暮らすインディア(ミア・フライア)は、口が利けないというハンディを 負っている。しかし彼女は天性のずば抜けたリズム感とダンス力を持っていた。土曜の夜はクラブに繰り出し、ダンス・バトルで 素晴らしい踊りを披露する。 そんなインディアの夢は、ブロードウェイの舞台に立つことだった。しかし、ようやく受けることが出来たコーラス・ダンサーの オーディションも、ハンディゆえに潰えてしまう。 そんな時に彼女は科学者のアイザック(ロドニー・イーストマン)に出会う。研究に行き詰っていたアイザックは、インディアの ダンスにインスピレーションを受け、ある装置の開発を始める。 主演のミア・フライアはもともとダンスの振付師らしいが、青い照明を浴びて、細い三つ編みの髪を激しく振りながら踊る姿が 美しい。もっともこういうストリート・パフォーマンスのような踊りは、正直いってうまいのか下手なのか、私にはあんまりよく 分からないのだけど。 クラブのダンス・バトルを、DJ対ダンサーにしないで、ダンサー同士の対決と勝ち抜きにして、次々変わるリズムに乗れない ダンサーも出てきたりしたら、インディアのすごさがもう少し分かったかもしれない。
科学者アイザックとインディアが知り合って、ボディソニックのような音声発生装置を開発する件りになってから、急速に
ストーリーのエネルギーが失われる。そもそもこの発明が彼女の踊りとどう関係するのかがはっきりしない。だから、この装置を使ってインディアが新しいダンスを披露し スターへの道を歩み出す、というラストが、クライマックスらしい迫力を持たないのだ。踊りの振り付けがそれまでのとあまり変わら ない(ような気がする)せいもあるが・・・。 (ドキュメンタリー映画『テルミン』(93)で、ロシアの実在の科学者テルミンがこれと同じことを研究していたことが出てくる。 製作者のリュック・ベッソンは本作のアイデアをこの映画から得たのかな? もっとも天才科学者テルミンでさえ、この研究はうまく 行かなかったらしい。) 妹思いだけど分別がなくてキレ易い兄のアイザック、彼の年上の同僚で地道に生きるステファン(ジョシュ・ルーカス)など脇の 人物に魅力がある。彼らやインディアが働く手話教室の子ども達とのエピソードをもっと膨らませて、彼女が障害を克服して成功への 道をつかむまでの、オーソドックスなバックステージものにしたほうがよかったのではないかと思った。 【◎○△×】6 |
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11月 |
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ストーリー 中年の高校教師キアラン・ジョンソン(ジェームズ・カーン)は、寝たきりで喋ることもできない母親の荷物から、古い写真を見つけ る。そこには若きの日の母フィオナが、見知らぬ青年に肩を抱かれて微笑んでいる姿があった。 自分と同じ名を持つその男こそ、自分の父親だと直感したキアランは、手掛かりを求めて母の故郷アイルランドの村を訪ねる。 1939年のアイルランド。17歳のフィオナ(モイヤ・ファレリ)はイギリスの修道院で新しい息吹を体験し、村を出ることを夢 見ていた。救貧院で育った孤児のキアラン(エイダン・クイン)は、貧しい農家のマーニー夫婦の養子になり純朴な青年に成長する。 やがてフィオナとキアレンは愛し合うようになるが、2人の恋は閉鎖的な村人によって引き裂かれ、養家からも追い出された キアランは、絶望から首吊り自殺する。 彼のフィオナへの思いは、アメリカ人パイロット(ジョン・キューザック)が2人を写した写真の裏に、愛の言葉として残されて いた。 キアランが自殺した一番のきっかけは、養父母に家を出て行くように言われたことだったんじゃないかと思った。フィオナとの恋が引き 裂かれても、養父母の愛が信じられたなら、それを支えに彼は生き延びることが出来たんじゃ出来たんじゃなかろうか。 救貧院育ちのキアランはいはば労働力としてマーニー夫婦に貰われたのだが、彼とマーニー夫婦との間には愛情ある関係が築かれた ように見える。 しかし、キアランがフィオナの母親の告発で強姦罪に問われ、警察が彼を逮捕しに現われると、夫婦の態度は一変する。村での 自分たちの生活が脅かされると考えた彼らは、キアランを放逐しようとする。それは愛する人を失ったキアランを、さらに絶望の どん底に突き落とした。 マーニー夫婦を父とも母とも思っていたキアランだが、結局はただの孤児に過ぎなかったのだ。家を出た彼がロープを抱えて一人 丘を登る姿が、私は哀れでならない。 現代の高校教師キアラン・ジョンソンは、映画冒頭では、生徒にもバカにされるような、やる気のないくたびれた中年教師として登場 する。そんな彼が1枚の写真をきっかけに自分のルーツをたどる旅に出ようとする。彼には彼なりの内的な必然性があったはずだが、 その心のプロセスが必ずしも明瞭でないのが気になった。 彼は自分と父とのつながりを確認することで何を得たのだろうか、彼に同行した甥にとって、この旅はどういう意味を持ったのだ ろうか。この辺りがもう少し立体的に描かれていたら、この映画はもっと感興深いものになったのではないかと惜しまれる。 【◎○△×】7 |