| 【映画メモ】 ち で始まる映画 |
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ストーリー アメリカの製薬会社の重役ウォルター(ウィリアム・ハート)は、妻(ジェニファー・ティリー)と10歳の娘メリッサ (フランチェスカ・ブラウン)を伴い商用と観光を兼ねてアムステルダムを訪れる。 口のきけないメリッサは、ホテルで両親と離れたすきに迷子になり、偶然に出たホテルの裏手で殺人を目撃してしまう。それに 気づいた殺し屋(コーリー・ジョンソン)と雇い主は、必死に逃げる彼女を追いかける。 やっとの思いで警察に保護され、両親のもとに戻ったメリッサだが、商談のためにやってきたハートマン(マイケル・チクリス)こそ 殺し屋ブルーノの雇い主だった。探す少女がウォルターの娘と気づいたハートマンは、再びブルーノにメリッサを狙うよう命令する。 オランダといえば風車とチューリップの国、メルヘンチックなイメージで「一度は行ってみたい」などと思っていたが、なんのなんの、 首都のアムステルダムは相当の犯罪都市らしい。本映画のオランダ人製作スタッフがそんな怖〜い夜のアムスを、手を変え品を変え堂々 と見せてくれるのが痛快だ。 主人公の10歳の少女メリッサが「口が利けない」ことにしたのは、この手のサスペンス・アクションとしてはうまい設定だなぁと思う。 なにしろ事情を説明できないし、助けを呼ぶことも出来ない。次々襲う危機を自分一人で切り抜けていくしかないのだから。 しかし彼女の聡明なこと、タフなこと、機転が利いて敏捷なこと! とにかく彼女の活躍がすごい。メリッサを演ずるフランチェスカ ・ブラウンが一見ごく普通の女の子だけに、後半のプロの殺し屋の裏をかき、手玉に取る様子は意外性があり、痛快そのものだ。 夜の街を疾走するカーチェイスあり銃撃戦ありで、ハラハラし通しの面白さだった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 母親と一緒に田舎からパリに遊びに来た10歳の少女ザジ(カトリーヌ・ドモンジョ)が一番楽しみにしていたのは、地下鉄に乗る ことだ。ところが母は、ザジを弟のガブリエル(フィリップ・ノワレ)に預けると、恋人とさっさと消えてしまう。 翌朝、ザジは一人で勝手に街に出るが、地下鉄はストライキの真っ最中だった。大失望のザジに得体の知れぬ中年男(ヴィットリオ・ カプリオーリ)が近寄る。ザジはGパンを買ってもらい、食事をご馳走になると、すたこら逃げ帰る。 ナイトクラブの芸人、ガブリエル叔父さんはザジを連れてパリ見物に出かける。 ルイ・マル監督はドタバタ喜劇の要素を取り入れ、子供の目でとらえたパリの街を斬新な映像で描き出している。 ザジを演じるカトリーヌ・ドモンジョという少女がじつに面白い。 「大人になったらなんになりたい?」「学校の先生。」「どうして?」「子供をいじめられるから。」 「宇宙飛行士でもいいかな。」「どうして?」「火星人をいじめられるから。」 すきっ歯でけろりんとしてこんなことを言う。怪しい中年男が寄ってきて「おじさんは男の子や女の子が好き」と言うと、「あ、 変態ね」と澄まして言い返す。美少女じゃないし、生意気だけど、元気いっぱいですごく可愛い。
彼女とこの中年男の追いかけっこが最高に楽しい。子供は逃げるのが好き。トットコトットコ駆けて、あっちにヒョイと隠れ、こっち
からヒョイと顔を出す。男が追いつけなくなると、後ろに回って今度は男をザジが追い駆ける。カチャカチャとコマ落しで早送りされた2人の動きは、興奮してハイになった子供の心象風景そのものという感じだ。 後半は、さすがのザジもくたびれちゃったのか出番が減って、もっぱら大人のドタバタになる。前半にくらべちょっぴり退屈。 大人で面白かったのは、ガブリエルの妻・アルベルティーヌ(カルラ・マルリエ)だ。かいがいしくて綺麗で理想的だけど、顔には どういうワケかいつも青い光が当たっている。体は硬いのに動きはすーっと滑らか。人工的で不思議な感じだ。 ガブリエル叔父さんってほんとうは独身で、好きなマネキン人形をダッチ・ワイフみたいに部屋に置いてるんじゃないのかなぁ・・・。 寂しい叔父さんも、ザジの目には綺麗な(人形の)奥さんと楽しく暮らしているように見えてるのかも・・・。 ザジの2日間のパリの感想は、あっさり一言「疲れちゃった」。すきっ歯を出してにっこり。いかにもザジらしい。「バイバイ。 またおいで、ザジ」。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 北アイルランドでIRAの抗争が激化した1976年に、ロンドンで実際に起きた冤罪事件を映画化している。爆破テロ容疑で 逮捕された親子が無罪を勝ち取るまでの姿を通して、父と子の絆を見つめた社会派ドラマ。 北アイルランド、ベルファスト。定職を持たずに遊んでいるジェリー・コンロン(ダニエル・デイ=ルイス)は、イギリス軍を挑発し 騒ぎを起こしたことで、IRAの一員として目をつけられる。父のジュゼッペ(ビート・ポスルスウェイト)はほとぼりを冷ますため、 息子をロンドンへやる。 その頃、ロンドンから約50キロ離れたギルフォードでパプが2軒爆破され、久しぶりに実家に帰ったジェリーと遊び仲間のポール (ジョン・リンチ)ら友人たちも容疑者として逮捕される。叔母一家や、彼女を訪ねていた父ジュゼッペも爆弾製造容疑で逮捕されて しまう。 官憲の暴力と恫喝に屈したジェリーとポールは白紙の供述書にサインをし、2人は無期懲役、ジュゼッペは12年の判決を受ける。 ジェリーは女性弁護士ピアース(エマ・トンプソン)の助力を得て再審請求を続ける。ピアース警察当局の不正の証拠を握り、再審 法廷で遂に逮捕者全員の無罪を勝ち取るが、ジュゼッペはすでに獄死し、事件から15年の歳月が経過していた。 ジェリーが面白半分にイギリス軍を挑発し、騒ぎが大きくなった時のベルファスト市民の反応が、私には非常に興味深かった。 ジェリーや途中から加わったワル仲間が逃げるのを、ごくふつうの市民がこぞって支援する。逃げ道を作り、大きな鍋を壁や道路に 打ち付けて軍に抗議の意を示し、果てはみんなで軍兵士の前に立ちふさがる。その結果、イギリス軍もジェリーをIRAのスナイパーと 誤認する。 北アイルランドでのイギリス軍と市民の対立がいかに鋭く、広く行き渡っているかを感じさせられる。 ジェリーの行動は政治的意図など何もない、ただの無分別さの表われなのだけれど、IRAの行動に過剰なまでに神経を尖らす警察 当局は、見せしめ的にジェリー親子を槍玉に挙げる。怖い、とつくづく思う。 映画の終わりに、ジェリーらの冤罪が証明された後、取調べに当たった警官たちは起訴されるものの、結局無罪になった、という テロップが流れる。証拠を隠滅して、無罪の人間を15年も獄につないだものが無罪とは、ととても割り切れない思いになる。政治的 思惑のからんだ事件を、すべ
て白日の下にさらして解明するというのは、やはり難しいのかもしれない。しかし、本作は政治的問題を扱った映画というよりも、ジェリーと父ジュゼッペの親子の絆が大きなテーマとして描かれている。 実直な父を、その実直さゆえにうっとうしく感じ、嫌う息子の心情は若い人なら大なり小なり共感するところではないだろうか。 ジェリーは同じ刑務所に送られてきたIRAの闘士ジョーに心酔し、力になるというジョーの申し出を、テロリストの協力は要らない と拒絶するジュゼッペに反発する。 しかし、看守に対するジョーのテロ行為を目の当たりした時、初めて父の主張の正しさを理解する。地道な努力で冤罪を訴え続ける 父の姿が、やっと彼の目に価値あるものとして映るのだ。 この辺りのジェリーの成長の描き方は非常にきめ細かい。軽薄な若者から次第に芯のある男の顔に変化していくデイ=ルイスが好演。 しかし、なんといっても光るのはジュゼッペ役のポスルスウェイトだ。『ブラス!』(96)しかり、『マイ・スウィート・ シェフィールド』(98)しかり、“おやじ” 役をやらせたら彼の右に出るものはいない。まさにいぶし銀のように光る演技だった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー ロサンゼルスのTVキャスターのキンバリー(ジェーン・フォンダ)は、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)とともに 原子力発電所の取材中、突然に所内に振動が起こり、制御室内で所員が大騒ぎするのを目撃する。キンバリーとリチャードは、原子炉の 運転が停止される一部始終をこっそりとフィルムに収めたが、上からの圧力で放送できなかった。 リチャードはフィルムを密かに物理学の専門家に見せ、ことの重大性を知る。しかし所長らはどんな事故も想定済みで、大騒ぎする 必要はないと言うのだった。ただ一人初老の技術者ゴデル(ジャック・レモン)だけがこの事故の危険性を訴え、聞き入れられないと 見るや、ついに強硬手段に出てしまう。 本作公開直後のスリーマイル島の原子力発電所事故、さらに7年後、ウクライナのチェルノブイリでスリーマイル島を遙かにしのぐ 史上最悪の事故が勃発し、多くの死者を出した。この映画そのものは創作だが、現実の事故はこれ以上ない迫真性を見るものに与え、 大ヒットを記録した。 タイトルの “チャイナ・シンドローム” とは、原子炉の炉心がむき出しになるとメルトダウン(炉心融解)を起し、地中を貫いて アメリカの反対側、つまり中国に達するという、“最悪の事故” を示す言葉なのだそうだ。途中地下水に出会えば大爆発を起して、放射 能雲が多くの人命を奪う。 この映画が公開された1979年3月、アメリカ・ペンシルベニア州のスリーマイル島で、実際に放射能漏れの事故が起きている。 さいわいメルトダウンには至らなかったが、原発というと「安全性」を耳にタコができるほど聞かされる私たちにとって、お手本と思って いたアメリカで起きた事故に驚かされた。映画そのものはフィクションだが、あまりに現実に近いことで大きな話題になったことを覚えて いる。 さらに7年後の1986年、ウクライナのチェルノブイリでこれを遥かにしのぐ重大な原発事故が起きた。原子炉が部分的なメルト ダウンを起こし、大量の放射能が流出し、付近の住民に多くの死者が出たのだ。20年経った現在も後遺症に苦しむ人々のニュースを見 聞きする。あの地域は今も立ち入ることが禁止されているらしい。 スリーマイル島の時は「びっくり」程度(という言い方は不謹慎かもしれないけど)だったが、チェルノブイリの時は、「こわい」と 心底思った。あれ以来、「安全性」をハナから信じ込んではいけない と思うようになった。
今あらためて本作を見ると、制御室長のゴデルが事故の原因に不審と不安を抱くプロセスが非常にリアルなのに驚く。たとえば、だれも 気付いていないが、2度目の震動がきてコーヒーの表面が小さく揺れた、溶接部の写真の小さな点がどれも同じ位置に同じ大きさで在る、 これらは全部同じ写真を焼き増したものに違いない、というような普通なら見過ごしそうなところにふっと注意が行く、引っかかる。 こうした一見些細なことが、じつは重大なことの始まりなのだ。こうして彼は原発の安全性への疑問と利益第一主義の大企業の体質に 目が開かれていく。ジャック・レモンが内部告発を決意する気弱な初老の技術者ゴデルに扮して、ジェーン・フォンダ、マイケル・ダグ ラスら油の乗り切った俳優の影が薄く感じるほどの存在感を示している。 また、プルトニウム工場で安全性に疑問を投げかけた所員が不審な死を遂げた事件が現実にアメリカで起きているそうだ。これは証拠 写真をゴデルから受け取った録音係りのヘクターが、キンバリーとリチャードのもとに届ける途中、不審な車の追跡を受け、ハイウェイ 事故を起す場面を思い起させる。この映画で描かれている1つ1つが、フィクションを超えた恐ろしい真実性を持っている。 ラストで、制御室に立てこもったゴデルが武装警官隊によってが射殺されると、それまで保身のために白い目を向けていた同僚が「彼は 英雄だった」と言ったり、生中継のテレビ・アナが「ゴデルは原発に命を捧げました」と言う場面が出てくる。 こういうところがアメリカ流ヒューマニズムなのかな、とも思うが、作品を底の浅いものにしてしまう気もして少々残念。会社は事件を もみ消して、ゴデルは無駄死に終わる可能性もかなり高い。それを冷徹に映し出してこそ、原発の危険性を告発するテーマがより深く 伝えられると思うのだ。 しかし一方で、このような重いテーマをサスペンス溢れる娯楽映画に仕立ててしまうところに、アメリカ映画の懐ろの深さや手腕の高さ を感じるのもたしかだ。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 1937年のロサンゼルス。私立探偵ジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)は、モーレイ夫人と名乗る女性から夫の浮気調査を 依頼される。夫のホリス・モーレイは水源電力局部長で、ダム建設をめぐり町を牛耳る大物ノア(ジョン・ヒューストン)と対立して いた。 本物のモーレイ夫人イヴリン(フェイ・ダナウェイ)が現われ、調査の中止を申し入れた直後、モーレイの溺死体が貯水池で発見 される。 ギテスは調査依頼がモーレイに仕掛けられた罠であり、ダム建設に絡む汚職が関係していることに気づく。そしてギテスもまた謎の 男たちの暴行を受け、再三命の危険に曝される。 ギテスとイヴリンは互いに惹かれ合うが、イヴリンの行動は謎をさらに深めるものだった。やがてギテスは事件の背後にノアの存在が あることを突き止める。アカデミー脚本賞を受賞。 1つ謎が解けたと思うとその先に新しい謎が控えていて、解けたつもりがますます深みにはまっていく。その快感についつい陶酔 してしまう。 私立探偵ギテスを演じたニコルソンは、この頃が演技者として一番脂が乗ってたんじゃないかなぁ。頭脳明晰、行動果敢、 太々しくて喰えない男のくせに、ベッドでは少年のような純な表情をみせる。なんとも魅力的だ。 フェイ・ダナウェイもいい。謎めいた冷たい表情の中からじわじわと女として母としての悲しみが滲み出てくる。二人の絡みから ハードボイルドらしい大人のムードが立ちのぼり、堪能できる。 特筆すべきは町の大物ノアを演じたジョン・ヒューストン。豪放な態度の陰に潜む邪悪さを垣間見せて、すごい存在感だ。イヴリンが 死ぬ結末は、チャイナタウンのけだるい空気とうまくマッチして、巨悪に破れた虚しさを醸し出していた。 ところで、ギテスの鼻を切り裂くチンピラを演じているのが、ポランスキー監督自身とは知らなかった。ジョン・ヒューストンと ロマン・ポランスキー、かたや巨悪、かたやチンピラ、2人の監督が演じた役柄の対比が面白い。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 1997年6月30日、香港はイギリス統治領から正式に中国に返還された。その返還直前の香港を舞台にした、イギリス人ジャーナ リストと中国人女性のラブ・ストーリー。 ジョン(ジェレミー・アイアンズ)は香港在住のイギリス海外特派員。中国本土への復帰を前に、共産主義への転換の不安に揺れる 香港の様子を、毎日イギリス本国にレポートしている。 彼はクラブのママ、ヴィヴィアン(コン・リー)を愛してるが、彼女は一顧だにしない。娼婦あがりの彼女を拾い上げ、クラブを任せて くれたパトロン、チャン(マイケル・ホイ)との結婚を望んでいるからだ。ある日ジョンはパーティの最中意識を失い倒れる。検査の 結果白血病とわかり、余命半年と診断される。 中国返還を直前に、イギリスの長い統治を離れる喜びと、共産主義国の中国に組み込まれる不安が、香港を混乱と喧騒の渦に巻き込む。 ニュース・フィルムが効果的に挿入され、香港の人たちにとってこれがどれほど歴史的な事件だったかが窺える。外国人特派員たちの プレス・センターやパーティでの会話が、目撃者となった彼らの興奮を伝える。香港返還という歴史の節目を描く
ウェイン・ワン監督の手腕はたしかだ。ここで主人公のイギリス人記者は東洋の美しい女性に叶わぬ恋をする。しかも余命いくばくもないという難病を抱えている。 女性のほうは香港の有力実業家の愛人だが、香港はいまだに儒教精神が根強く、彼は娼婦上がりの彼女と結婚するわけにいかない。 女性が願うのはひたすら彼との “結婚”、と展開されるストーリーはなんとも古めかしいラブ・ロマンスだ。 これはこれでじっくり掘り下げれば、それなりにまとまったかもしれないが、軸足が半分以上、返還直前の香港の状況を描くほうに かかっていて、中途半端な印象は否めない。 ジョンに扮するジェレミー・アイアンズは、届かぬ想いに苦悩する役は彼のお手のもの、フェロモン全開で素敵だけれど、ヴィヴィアン のどこにそれほど惹かれたのかがさっぱり分からない。ヴィヴィアンが初めからけんもほろろだから、ただの空回りにしか見えない のだ。 ヴィヴィアンも、マイケル・ホイの扮する実業家に惚れているというより、“結婚” という形に固執しているだけのようにしか見え ない。コン・リーはもともと生活臭の強い逞しさを放散する女優、男に頼らず自立して生きていきそうなタイプだから、こういう役は どうもピタッとこない。 マギー・チャンが扮する街の少女ジーンの存在も意味不明。観光客相手に模造品を売りつけ、嘘の身の上話で金を巻き上げ、逞しく 生きている。香港のバイタリティを象徴しているようでもあるが、イギリス青年との悲恋で深く傷ついているところは、被支配地 =“香港” と支配者=“イギリス” の関係を暗喩しているようでもある。 しかも終盤、彼女の姿はパタッと画面から消えてしまう。どれもがちょっとずつボタン掛け違ってる感じがして、消化不良の印象が 残った。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 女子大生の由美(柴咲 コウ)は、合コンに参加している時、友人・陽子の携帯電話が聞き慣れない着信音で鳴るのを聞く。メッセージ を確認すると、発信元は陽子自身の携帯番号で、発信日は3日後、そして陽子の悲鳴が録音されていた。3日後、陽子は謎の転落死を する。 数日後、同じ合コンに出席してケンジも同様に不可解な死を遂げ、親友・なつみ(吹石 一恵)の携帯も同じ恐怖のメッセージを受け 取っていた。由美は葬儀屋の男・山下(堤 真一)とともに真相究明に乗り出すのだが・・・。 携帯を媒介にして死が伝播していくところは、ビデオテープを媒介にした『リング』と発想が非常によく似ている。しかしそういう 都市伝説的な恐怖と、テレビスタジオで山伏が登場してお払いをしたり、突然身体が吹き飛んだり、腕がねじくれる恐怖は、タイプが 違う。それがなんの脈絡もなく出てくると、どういうスタンスの映画か分からなくて、見ているこちらは混乱する。
心理学の講義中、携帯のメールに気を取られている学生に、いかにもやる気のなさそうな教授が「きみぃ、この授業のテーマはなんだ
と思ってるんだね」と聞く。「・・・あ、・・・虐待は虐待を生む・・・みたいな・・・」「・・・まー、そうなんだけどね・・・」。一応、これは映画の伏線のようだが、児童虐待という深刻な問題を、こういうお手軽な感覚で扱っていいものだろうか、遊びのような 姿勢に疑問を感じる。 幼女の虐待者が母親ではなくて姉だったというのは、どんでん返しのつもりだろうか。その姉がなぜ次々に死の呪いを伝播させたのか、 母親の携帯に由美たちのメールアドレスがなぜ入っていたのか。こういったストーリーの背景は、必ずしも理屈で説明される必要はない が、少なくとも感覚的に納得できないといけないと思う。 由美が背後に包丁を隠し持って、山下のベッドサイドに立つラストは、もやは “携帯” のキーワードからさえ離れている。“怖がら せグッズ” をとりあえず寄せ集めたという感じで、コンセプトがないことが本作の最大の欠点だと思う。三池監督はオムニバス映画 『美しい夜、残酷な朝』(04)で、センスのいい美しいホラーを作っていただけに、とても残念だ。 【◎○△×】4 |
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ストーリー 喜劇王チャップリンが第一次世界大戦を風刺した戦争コメディ。 アメリカ陸軍の新兵チャーリー(チャールズ・チャップリン)はヘマばかりして鬼軍曹からいじめられる。夜半まで降り続く雨で塹壕 内は水浸し。それでも食事を済ませたチャーリーは、斥候として偵察に出る。 崩壊寸前の民家で出会ったフラン人少女(エドナ・パーヴィアンス)を救い出そうと、敵の将校宿舎に忍び込むが・・・。 冒頭に「原爆もミサイルもない。大砲と銃剣と毒ガスだけ。いい時代でした」と皮肉交じりのナレーションが入る。後の『独裁 者』(40)に比べると、同じ戦争風刺でも、この頃のチャップリンはまだ余裕が持てていたのかな、と思ったりする。 新兵のチャップリンが行進の訓練を受けるシーンにまず笑ってしまう。がに股でなく、靴を真っ直ぐ前に向けて歩け、といわれる。 すると、かえって内股になり、肩まですぼんでしまう。がに股に戻ると力が抜けてすっと肩が開く。その繰り返しがリズミカルで可笑 しい。
長雨で塹壕の掘り部屋が池みたいになってしまうシーンもケッサク。高い場所のベッドには3,4人がかたまって寝ている。剛の者は 水に浮かんだまま鼻と口だけ出して寝ている。ほかに寝る場所のないチャップリンも彼に倣う。 こんな状況でもちゃんと枕と毛布を引っ張り出してかぶる。もちろん、水でびたびただ。 じっさいに戦場で豪雨に見舞われたら、塹壕はこんな風になったんだろうか。ふとそう思ったら、笑ってばかりもいられない気持ちに なったけど、やっぱり面白い。 ほかにも、家族から送られてきたチーズがあまりに臭くて、防毒マスクをつけて開ける場面、飛び交う弾丸でタバコに火をつけたり、 ビールの栓を開けたりと、徹底的に戦争を笑いのめす。 後半は斥候に出たチャップリンが木に変身して敵の兵士をやっつけたり、民家を宿舎にしている敵の将校連をうまく騙して、捕虜に して自陣に凱旋したり、いわゆるパントマイムとは違うアクションの連続なのが意外だ。ずっこけ兵士に見えたチャップリンがけっこう はしっこく立ち回る。 とはいえ、民家のフランス人女性(チャップリンお気に入りのエドナ・パーヴィアンスが扮している)に、米兵だというのを伝える ために、レンガで自分の頭を殴って目から星を出し、手をひらひらさせてストライプを作ったりして、チャップリンらしいギャグの連続。 楽しめた。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 今やゴルフ・シーズン到来。浮浪者チャーリー(チャールズ・チャップリン)も、ゴルフバッグを担いで郊外のゴルフ場に列車で到着 する。 駅では有閑階級のご夫人(エドナ・パーヴィアンス)が夫(チャールズ・チャップリン2役)を待っているが、酒浸りの夫は身支度に 時間を取られてやって来ない。仕方がないので乗馬に切り替える。チャーリーは美しい彼女に一目惚れ。 一方彼女はパーティで出会ったチャーリーを夫と間違えて・・・。サイレント時代のチャップリンの代表的短編の1つ。 わずか20分の間によくこれほど詰め込んだというほどギャグの満載。チャップリン2役の有閑階級の紳士が、上はしっかり身支度 して、カメラが引くと下はパンツだけ。本人、気づいていないものだから堂々の行進でロビーに赴く。よくしたもので誰も気付かない。 電話ボックスに入ってふと下に目をやる。「あ・・・!」 この一連の流れがほんとに可笑しい。この紳士、このあとどうやって部屋まで帰るか、というくだりでも笑わせられた。 彼は気取った顔をしてるけど、かなりの飲兵衛らしく、夫人に禁酒するまで部屋は別にすると言い渡される。後ろ姿で肩を震わせて 泣く紳士。と思いきや・・・、見事に1本取られました。 放浪者チャーリーのほうも、ゴルフ場で勝手に人のボールを打っては、それが次々他のゴルファーに波及していくチグハグさが面白い。 彼のせいで他のゴルファーが取っ組み合いの喧嘩になっているのに、当の本人は我関せず、というのがいかにもチャーリーらしい。 感心したのは、遠くからでは地面に置いたように見えるボールが、じつは水面上だったというシーン。一歩踏み出した途端にどぼん、 というのには驚いた。 ホテルの仮装パーティで、例のゴルファーのうちの1人(マック・スウェイン)とばったり、という場面では、何度も相手にどつかれ て、しまいに自分から先に床に寝転がってしまったのが可笑しかった。負け犬根性もいいところ。 でも最後は、和解しようと手を差し出した相手の尻っぺたを蹴飛ばして、すたこらさっさ。有閑階級に媚を売らない放浪者の面目躍如 としたラストだった。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 現代イラン社会で女性がさらされる困難や厳しい現実を、半日の出来事として凝縮して描いている。監督のジャファル・パナヒは、 『オリーブの林を抜けて』などのキアロスタミ作品で助監督を勤め、本作でヴェネチア国際映画祭・金獅子賞を受賞した。 ある病院で女の赤ちゃんが生まれる。付き添った産婦の母親は「男の子でないと離縁されてしまう」とうろたえる。 ・・・カメラは病院から街頭へ移る。そこには刑務所から仮釈放されたばかりの3人の女性たち。警察官の姿を目にするたびに逃げ 惑い、身を隠す。その中の1人は故郷へ帰ろうとするが、身分証明書もなく、女1人では切符を買うことができない。 その頃、妊娠した未婚女性が堕胎のために刑務所を脱走する。やっとの思いでたどり着いた実家では兄弟たちに追い払われる。町を さ迷ううちに、彼女は生活苦から娘を捨てようとする母親と出会う・・・。 警察に捕まった娼婦が牢獄に入れられる。こうして物語は一巡りめぐって、もとに戻っていく。 これまで私が見たイラン映画は子供を描いたものか、牧歌的なのどかな雰囲気を湛えたものばかりだった。イランは検閲が厳しく、 そういったものしか上映が許可されないから、と聞いたことがある。 本作は現代イランの都会を舞台に、厳しい現実にさらされる女性たちの抑圧された姿を描いている。案の定というか、イランでは 上映が禁止されたとか。 本作の特徴は、登場する女性たちのほとんどが刑務所を脱走した囚人であることだ。おかしな話だが、私には、イラン女性はチャドル (ベール)に身を隠して、家の奥深くで暮らしている、という先入観があった。そのため、仮釈放・脱獄した女性たちが主人公という 本作の設定に、なんとはなしのショックを受けた。 しかし考えてみれば、どんな国にも女性囚人はいるだろう。そうした社会から脱落した女性の視点を通すことで、イランにおける 抑圧された女性の立場がよりクリアになる、そう思った。 1つのエピソードの登場者が次のエピソードをつなぐオムニバス風の構成となっていて、物語は最後に1つの循環を終えてもとに 戻っていく。まるでイラン女性の置かれた状況が、逃げ道のない閉じられた輪であることを示すかのように・・・。 冒頭のエピソードに登場する18歳の少女は、故郷に帰りたいのだがバスの乗車券がなかなか買えない。女性には同伴者が必要で、 女一人ではバスに乗れないからだ。女性の人格が一人前と認められていないことを物語る端的なエピソードだ。 それだけに、その後の未婚のまま妊娠してしまった女性や子供を捨てる母親のように、話に深刻さが増してくると、「彼女たちは これから一体どうするんだろう」と暗澹たる気持ちになる。 しかし、60年生まれという若いジャファル・パナヒ監督の、女性たちを見つめる目は温かい。このような映画が現われること 自体が、イランが少しずつ変化している証のように私には思えるのだが・・・。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 山あいの小さな町に暮らす春野家の人々の日常をユーモラスに描いた異色ホームドラマ。 長男・一(佐藤 貴広)は内気な高校生。片想いのアオイ(土屋 アンナ)が転校してしまい、落ち込んでいる。小学1年の妹・幸子 (坂野 真弥)は、時折現われる “巨大な自分” に困惑している。母親の美子(手塚 理美)はアニメーターの仕事に復帰しようと 離れに住む元アニメーターの舅・アキラおじい(我修院 達也)の特訓を受けている。催眠治療士の父・ノブオ(三浦 友和)は、そんな 美子に不満な様子だ。 一家に出入りしているのが、美子の弟のアヤノ(浅野 忠信)。彼は元恋人のアキラ(中嶋 朋子)に今も未練タラタラだ。ノブオの 弟で漫画家の轟木一騎(轟木 一騎)は、最近仕事に行き詰っている。こんな春野一家の上を時がゆっくり流れていく・・・。 1つの家族の中に、ありふれたものと奇天烈なものがごちゃ混ぜ、花見弁当みたいだ。 ありふれたものは、たとえば高校生、一の片想い。転校生のアオイにぽーっとなって、もうそれだけで胸がわくわく、じっとして いられない。回転の小さい自転車をフーハー漕いで、ふだんは途中で降りて電車に乗り換える道まで、走ってしまう。やっとアオイと 口が利けてバス停まで送って行った時は、嬉しくて、両手を広げてわざわざ雨に濡れてしまうほどだ。 一を演じている佐藤貴広は丸い鼻、ちょっと広めの口、小さめの目と、どこにでもいるふつうの少年だ。それだけに青春のシンプルな ときめきに思わず微笑してしまう。
奇天烈なのはおじいに扮する我修院達也の存在。彼はどの映画で何をやっても “異界” を作り出す。ところが、手塚理美を初めと
する家族は、彼の奇天烈さを少しも意に介さない。なんでもない日常に溶かし込んでしまう。“ふつう” と “ふつうでない” が当たり前のような並んで、大きく全体が “ふつう” になっている。これは考えたら、そうとう 変だ。 小学生の幸子は、自分の前に “巨大な自分” が現われるのに困っている。幸子はアヤノおじさんの話をヒントに、鉄棒の逆上がりが 成功したら、“巨大な自分” が消えるんじゃないかと思う。奇妙な感覚が生じるというのは、小さい子どもにはありがちのような気が する。それを逆上がりで解 決という発想がなんともいえない。手に豆をこさえて頑張る幸子はほんとにいとおしい。 アヤノの “のろいの森” のウンチ話が面白い。浅野忠信の魅力って、演技なのか地なのか分からない自然体のセリフ回しにあると いつも思う。一の合鎚のよさもあって、彼のじっさいの体験談を自分もその場で聞いているような気分になる。 アヤノが元恋人アキラに会いにいく場面もいい。何をしゃべっていいいか分からない。でも立ち
去りがたい。それで「そっかぁ〜」
なんて意味のない言葉を連発して、なんとなくそこにいる。間がいいのか悪いのか、なんかぎこちないけど嫌な感じでもない。その
微妙な空気が彼のセリフ回しでふわ〜っと浮き上がってくる。ふつうなようで変、変なようでふつうの春野家の日々がゆっくりした時間の流れの中で過ぎていく。“茶の味” というタイトルはまさに いい得て妙。縁側でぼーっと空を眺めて茶をすする。何度か出てくるこの場面が、この映画の空気をよく表わしている。 青々した田や畑、鳥のさえずり、広い川原と流れる川、桜の樹。・・・田園ののどかさが春野家の人々を包む。ラストの、おじいが 残した家族1人1人に当てたパラパラ絵をみんなで見るシーンがいい。おじいの愛がいっぱい詰まった絵。ほんとに素敵だ。けっこう 長い映画だけど、ぼんやり(このニュアンス、お分かりですね。^ ^)じっくり、いい気分で見終わった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 商社に勤める和田(本木 雅弘)は、翡翠輸入の商談のため中国の雲南省へ出張することになる。中国に着くと、会社に貸しがあると いうヤクザの氏家(石橋 蓮司)が現れ、取り引きを見張るために和田に同行するという。こうして、ミャンマーとの国境近くに ある “鳥人伝説” が残る少数民族の村への旅が始まった。 途中、幻覚を起こすキノコを食べたために、案内人の沈(コ・イワマツ)が記憶喪失になってしまうが、どうやらたどり着いた村は、 のどかで、飛ぶことを教える “鳥人学校” もあった。 沈の記憶が戻らぬままに滞在を余儀なくされた和田と氏家は、次第に、鳥人学校の教師・燕(王 麗黎)や豊かな自然に魅せられて いく。椎名誠の同名小説の映画化。 主人公の商社マンが中国・雲南省奥地の目的地までたどり着くまでの道中が抜群に面白い。珍奇な日本語を操るガイド兼通訳の沈、 翡翠取り引きを監視するためにムリヤリ同行するヤクザの氏家、2人のキャラクターが際立っている。 沈の日本語が傑作だ。「キサマが和田さんでありますか」。あまりのがたがた道に車のドアが外れて落ちてしまうと「(引っ張る ための)綱がないのであるからして、どうしようもない」。こんな調子で、彼が口を開くたびについ笑いだしてしまう。
一見凶暴な氏家が、じつは人が好くて、それを必死に隠している様子がみえみえなのも微笑ましい。主人公の和田に扮する本木
雅弘は “トボケ” と “まじめ” がほどよくミックスして、こんな強烈な2人にはさまれても埋没してしまっていない。健闘している
と思った。中国の秘境とか奥地とかいわれるところがいかに凄まじいか、映画を見ていると本当によく分る。車はもちろんのこと、馬も通れない。 自分の身体がただ一つの移動手段なのだ。手に荷物を持ち、脚だけを頼りに何日もかけて山路を辿っていく。その間には突然の嵐にも 襲われる。危険な崖や川の奔流もある。
映画の中に「毛沢東という人がいたことを知らない人たちもいる」という台詞が出てくるが、あながちウソではないだろう。それほど
中国は広大で、かつ分断され、僻地・辺境で孤立した暮らしをする人々が大勢いることが、映画を見ているだけでも身に沁みて
感じられるのだ。目的地の村に着いてから、物語は急に失速する。村人がほとんど姿を表わさないために、ストーリーが急にリアリティを失い、 絵空事めいてしまうのだ。氏家が「この村を文明に汚染させないために俺が守る」と意気込み、和田が「電気も薬もない村で、人々は 本当に幸せか」と反論しても、その村が実体のあるものに感じられないので、言葉だけが空疎に響く。 村に伝わる “鳥人伝説” も村人たちがどう思っているのか不明のまま、ガイドの「迷信です。村の恥です」の一言で片付けられ ては、着地点を失ってしまう。そのせいか、後半、“鳥人伝説” を中心に話が展開するようになると、とっかかりをなくしたような 心許なさを感じた。 【◎○△×】7 |