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【映画メモ】  で始まる映画



草原の輝き

1961年  アメリカ  124分
監督 エリア・カザン
出演
ナタリー・ウッド、ウォーレン・ベイティ、パット・ヒングル
オードリー・クリスティ、フレッド・スチュワート

  ストーリー
 青春のいら立ちと成長を描いた名匠エリア・カザン監督による辛口の人間ドラマ。ウォーレン・ベイティのデビュー作。なおタイトル はイギリスの詩人、ワーズワースの作品から取られている。
 地方都市に住む高校生の恋人同士バッド(ウォーレン・ベイティ)とディーニー(ナタリー・ウッド)は、おたがいに愛し合っていた が、それを体を通して確かめ合うことが出来ずにいた。
 ディーニーは母(オードリー・クリスティ)の影響でセックスに対して罪悪感があり、バッドは名門大学への進学を強要する父(パット ・ヒングル)の期待が負担になっていた。
 そんなイライラがついに爆発する時がくる。バッドが同級生の女の子と関係したことがわかり、ディーニーがショックのあまり滝つぼ に身を投げたのだ。

  一口感想
 この映画は思春期の愛と性の葛藤がテーマといわれているが、私はむしろバッド、ディーニーそれぞれの親との関係に興味を覚えた。
 バッドは強圧的な父親に抗いながらもその支配から脱することが出来ず、前からの願いだった牧場を持つのは、父が自殺した後のこと だった。もしも、1920年代の大不況がなく、父の株が大 暴落しなければ、彼はこの後もずっと、父親の敷いた路線を歩み続けたの ではないか、という気がする。父権が強大な欧米では、男の子は父親の支配を脱し、精神的に自立するのは一大事業だ。
 ディーニーのほうは、娘を心配するあまり、真綿でくるむように自分の腕の中に囲い込んでしまう母親がいる。愛という名の母の 過保護にからめ取られて、身動きできない。
 この映画を見ていると、“ほどよい” 親であることは難しい、とつくづく思う。同時に “ほどよい” 子であることも難しい。“よい 子” 過ぎてしまうのだ。

 印象的だったのは、精神病院を退院したディーニーを両親や友人が迎える場面だ。母は娘の友人たちに「バッドのことは話題にしない でね」と頼む。病気がぶり返すのを恐れたのだ。ところがディーニーのほうからそのことに触れ、「会いに行きたい」という。狼狽する 母と友人たち。
 その時、部屋の隅にいた父が「行ってきなさい」と後押しする。それまでずっと影の薄かった父(フレッド・スチュワート)が、ここ でしっかりと存在感をみせるのだ。両親はたがいの足りない点を 補い合うことが必要なのだと感じた場面だった。
 その点で、バッドの両親は父親が強すぎて母親の存在は無に等しかった。親としての関係がバランスを欠いていたのは、彼にとって 不幸だったと思う。

 この映画のラストを見て、高校生の頃見た同じナタリー・ウッド主演の『初恋』(58)という映画を思い出した。ストーリーはぜんぜん 違うが、初恋の人の “現在” を確認して、甘酸っぱい思春期に別れを告げ、今の自分の生活にもどっていくところがよく似ている。
 それぞれがすでに違う道を歩み始めている。それはこれから先、再び交わりあうことはない。それを自分の眼で確かめ、苦しさを くぐり抜けることで、少年少女は大人へと成長していく。初恋のほろ苦さが映画の余韻を深めているような気がした。
  【◎△×】7

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続・男はつらいよ

1969年  日本  93分
監督 山田 洋次
出演
渥美 清、倍賞 千恵子、ミヤコ 蝶々、佐藤 オリエ、東野 英治郎
森川 信、三崎 千恵子、前田 吟、太宰 久雄、津坂 匡章、山崎 努
笠 智衆、佐藤 蛾次郎

  ストーリー
 弟分の登(津坂 匡章)と渡世稼業を続けていた寅次郎(渥美 清)は、旅先で優しい母の夢を見たのがきっかけで、生みの母を探しに 大阪を訪ねることにする。たまたま京都見物に来ていた中 学時代の恩師・散歩先生(東野 英治郎)とお嬢さんの夏子(佐藤 オリエ)に出会い、夏子についてもらって会いに行く。
 ようやく出会えた母・お菊(ミヤコ 蝶々)は、夢の中とは大違い、連れ込みホテルを経営する元気のいいおばさんだった。会った 途端に、口の達者なお菊と寅次郎は丁々発止の大喧嘩を始めてしまう。
 半月後、散歩先生は他界する。そして夏子は結婚し、失恋した寅次郎は柴又を後にする。
 京都・大阪を舞台にしたシリーズ第2作。本作で、妹・さくら(倍賞 千恵子)と博(前田 吟)の間に一粒種の息子・満夫が 生まれる。

  一口感想
 私が『男はつらいよ』シリーズを見始めたのは何作目辺りだったのだろう、その頃の寅さんは、素っ頓狂で困ったところはあるけれど、 愛嬌のある面白い男という印象だった。
 今回第1作、第2作と続けて見て一番意外だったのは、初期の寅さんはとても切れやすい。そして 一旦そうなると手が付けられない ほど暴れ回る。おいちゃんやおばちゃんが、寅さんが帰ってくるというと途端にそわそわして落ち着かなくなるのは、ずっと、喜劇と しての定番演技とばかり思っていたが、そういうわけでもないことが初めて分かった。
 じっさい、突風が吹き込んで、家の中が目茶苦茶になってしまうようなところがあるのだ。

 もともと寅さんは子どものように感情の起伏をすぐ表に出してしまう人だが、本作ではとくに喜怒哀楽が激しい。夢にまで見た “瞼の 母” に会ったのだから、大揺れに気持ちが揺れるのは無理ないが、「金の無心ならお断りだよときた。これが実の母親のいうことか?」 と、まー、泣くこと泣くこと。大の男があっちもこっちでも、みっともないほど愚痴を並べては泣く。
 こういう寅さんを見ていると、私はどうしても日本神話の荒ぶる神 “スサノオ” を思い浮かべてしまう。スサノオは、亡き母の愛を 求めて泣き、荒れ狂う。そんなところがそっくりだ。
 もっとも、神話のアマテラスは懲らしめのためにスサノオを高天原から追い出してしまうけれど、“とらや” の人たちは決して寅さん を見捨てない。無銭飲食(本人はその気じゃなかったらしいけど)で警察に留置されて、迎えに来たさくらが泣くシーンは、いじらし くて健気で、ほんとうに胸が痛くなった。

 本作の寅さんは実母との対面ばかりでなく、父と慕う恩師の死を目の当たりにしたり、マドンナが葬儀場で男と抱擁しているのを目撃 したり(といっても慎ましやかなものだけど、寅さんにしたら大ショック)、シリーズのほかの作品に比べるとシリアスだ。
 このままじゃ、ちょっと寅さんにはつらすぎるなぁ、と思っていたら、最後に母親・お菊と仲良く京都の町を歩く寅さんが出てきて ホッとする。ミヤコ蝶々がお菊を怪演。寅さんの “屁理屈” に太刀打ちできるのは彼女以外考えられない。まさにはまり役だ。
  【◎△×】7

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卒業

1967年  アメリカ  107分
監督 マイク・ニコルズ
出演
ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス、アン・バンクロフト
マーレイ・ハミルトン、リチャード・ドレイファス

  ストーリー
 ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスを一躍スター・ダムに押し上げた、“青春のバイブル”の名にふさわしい輝きを放つ映画。 「サウンド・オブ・サイレンス」「ミセス・ロビンソン」などサイモン&ガーファンクルの音楽がマッチして、アメリカ映画に新しい 流れを作った。
 ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)はスポーツ、学業とも賞と名の付くものはすべて取って東部の大学を卒業したが、周囲の 期待を空々しく感じる自分の思いを扱いかねていた。
 両親がむりやり開いた卒業記念の祝賀パーティで、ベンは有閑マダムのロビンソン夫人(アン・バンクロフト)と知り合い、成りゆき で関係を持つ。しかし、大学の夏休みで帰ってきた彼女の娘のエレーン(キャサリン・ロス)と出会ったことで、次第に真実の愛に 目覚めていくのだが・・・。
 他の男と結婚するエレーンを式の最中に教会から奪って逃げるラストシーンはあまりにも有名。『俺たちに明日はない』とともにア メリカン・ニューシネマの到来を告げる作品となった。アカデミー監督賞を受賞。

  一口感想
 ベンが、大学院に進むのか就職するのか将来の方向もはっきりしてないのに、やみくもに「明日結婚する?」とエレーンを押し まくるのには笑ってしまった。でも、若い男性が恋に眼が眩んだらこんな風なのかな、と思ったりもする。
 そもそも、ベンはスポーツ、学業ともに優秀で、ーーつまりは親の期待に沿ってひたすら頑張ってきた “いい子” なのだ。でも、 卒業してみれば「それがいったい何なんだ」と思ってしまったのだろう。エレーンに「これまでの自分はクズだ」なんていってる けど、“いい子” を目指して頑張った4年間が一遍にばかばかしくなったんじゃなかろうか。
 今の彼は<目標喪失>状態だ。だから今度は「恋」という分かり易い目標に一途に邁進したわけだけど、問題はむしろこれからだ。 「恋」を獲得し目標を達成してしてしまったら、後はどうするんだろう。
 教会から逃げ出しバスに乗り込んだベンとエレーンが、初めは嬉しそうにニコニコしていたのが、だんだんに表情が変わり、 不安そうにちょっと顔をそむけたりするラストは、とても意味深長だ。結婚は味気ないほど “現実” そのもの、いつまでも モラトリアムではいられない。これからベンはどうやって本当の “卒業” をし、大人の門をくぐるんだろう。
 40年ほど昔、大学を卒業する時のなんとはなしの不安感を思い出したりして、ちょっとほろ苦い気分になった。
  【◎△×】8

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ソナチネ

1993年  日本  93分
監督 北野 武
出演
ビート たけし、国舞 亜矢、渡辺 哲、勝村 政信
寺島 進、大杉 漣

  ストーリー
 『3−4X10月』に続いて再び沖縄を舞台に、暴力団同士の抗争とそれに巻き込まれたヤクザを描く北野武監督作品。
 ヤクザの村川(ビート たけし)は、組織の命令で友好団体の中松組の助っ人をするために、弟分の片桐(大杉 漣)やケン(寺島 進) らを連れて沖縄にやって来る。しかし抗争はますます激化、村川たちは中松組幹部の上地(渡辺 哲)や舎弟・良二(勝村 政信)らと ともに海の近くの廃家に身を隠す。
 やがて、村川は今回の件が組のライバル幹部の罠であったことを知り、怒りを爆発させる。

  一口感想
 映画が始まってすぐに、村川が弟分のケンに「俺、ヤクザ辞めようかなぁ。疲れちゃったよ」という場面がある。主人公がいきなり こんなことを言うなんて、ヤクザ映画としてはずいぶん異例な気がする。ヤクザ映画におなじみの暴力行為を無感情に展開する村川だが、 冒頭のこのセリフがいつも通底奏音のように虚無の響きを鳴らしているからだ。
 抗争で死亡した仲間の遺体を海に投げ込んで始末する時も、夕景が美しく、そこに浮かび上がるシルエットが殺し合いの虚しさを 視覚的に伝えてくる。北野監督のすぐれた映像感覚を感じる。

 この映画は “ヤクザとしての自分にどう引導を渡すのか” を模索する村川の心の放浪を描いているような気がする。
 海辺の廃家にひそんで、ひと時の安らぎを得る村川たち。浜辺に海草で土俵を作り、ケンと沖縄ヤクザの良二が紙相撲の真似をする。2人は横並びになったり、前・後ろに重なったり、兄貴分の上地に2:1で向き合ったりする。トントントントン、単純な動きに童心が誘われる。楽しい。
 私は「たけし映画」に必ずといっていいほど登場するギャグがじつはあんまり好きでないが、本作で初めて共感めいた感情を覚えた。

 ケタケタ笑いながら見ている村川。しかしそんな気分に冷水を浴びせるように、彼は突然 “ロシアン・ルーレット” を始める。かり そめの平穏が切り裂かれて、いきなり「死」が顔を出す。
 もちろん、この時はケンや良二を驚かせただけで終わるのだが、この遊びはラストの村川の死の伏線となっていく。一見、屈託のない馬鹿ふざけの底に、悲しみや絶望が見え隠れすることに胸を突かれた。

 終盤近く、ホテルのエレベーターで組のライバル幹部・高橋らと遭遇してのアクションシーンはさすがの迫力だ。たけしの緊張を たたえた鋭い眼差し、「高橋」と一声かけてからの素早い銃撃の身ごなしなど、海辺のメルヘンチックなタッチとは対照的な凄みが ある。
 常識人のようでいて、ひょいと狂気を覗かせる良二を勝村政信が好演。村川の「遊び」の世界を寺島進が、ヤクザとしての現実部分を 大杉漣がかっちり受け持って、これまた好演だった。
  【◎△×】7

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曽根崎心中

1978年   日本  112分
監督 増村 保造
出演
梶 芽衣子、宇崎 竜童、井川 比佐志、橋本 功、左 幸子
木村 元、灰地 順

  ストーリー
 近松門左衛門の浄瑠璃をもとに、遊里に生きる女の意地を通して心中の美を描いたドラマ。
 堂島新地の遊女・お初(梶 芽衣子)と醤油屋の手代・徳兵衛(宇崎 竜童)は深く言い交わした仲だった。しかし徳兵衛は、彼の 律儀さを見込んだ主人・久右衛門(井川 比佐志)に姪との縁談を持ち掛けられ、さらに友人・九平次(橋本 功)に用立てた金を踏み 倒され、ゆすり呼ばわりまでされてしまう。
 衆人環視の中で恥辱を受けた徳兵衛は、自害してこの不名誉をそそぐほかはないという覚悟をする。一方、お初は嫌いな客から 身請け話が持ち上がり、進退極まった2人はついに曽根崎の森で心中する。

  一口感想
 お初がずっと「二人は死ぬしかない」と言い続けるもんだから、話は「なにが何でも死んでやる〜!」みたいな勢いで流れていく。 徳兵衛は初めのうちは、死なずにすむ方向もちょっとは気持ちにあったようだけど、お初の意志は強いし固いし、抗(あ らが)いようがない。
 なにしろ原作は“滅びの美学”を描いた近松門左衛門の心中ものだ。おめおめ生き延びたんじゃ、男と女の意地が成り立たなくなる。

 テレビや映画は、台詞回しとか感情表現が舞台に比べると自然で写実的なのが特長だと思うのだが、本作はこっけいなほど気合いが入っている。だけどその大仰さが面白くて、引き込まれて見てしまった。

 梶芽衣子の見開きっぱなしの眼ぢからが凄い。ビームが出てきて焼き殺されそうだ。演じている間は大変だったんだろうな、と余計な 心配までしてしまう。死んでも添い遂げずにおかないという想いの深さ、思いつめた哀しさが切ないほどに感じられ、さえざえした眼の 底に情炎が揺らめいて、びっくりするほど綺麗。
 徳兵衛と心中行に出る時に、だれもいない溜まり場で、両手を付いて「旦那さま、お内儀さま、お身内の皆々さま、おさらばでござい ます」と挨拶する心根の美しさ、曽根崎の森で「懐かしいおかかさま、お名残り惜しゅうおととさま」と両親に先立つ不幸を詫びる 哀れさに打たれた。

 それにしても、九平次の憎々しさといったらない。こんなにあっけらかんと憎たらしい悪役も珍し いんじゃないかなぁ。扮した橋本功は特筆に価する怪演奇演だ。暴力シーンが生々しく激しいのにもびっくりした。
 徳兵衛は終始お初には押されっぱなし、九平次には殴られっぱなし、果ては溜まり場の縁下に隠れるしかないヘタレぶり。宇崎竜童の 熱演が悪くない。

 最後は悪巧みが明るみに出た九平次は散々にお仕置きされ、伯父は徳兵衛がお初と夫婦になって店を継ぐことを許すのだが、何も 知らない2人はそのまま心中する。
 死ぬしかない2人が思い通り死ぬんだから、本望かもしれない。哀れさの一方で、徳兵衛の汚名がそそがれたことで、気分は救われる。息絶えた2人が手を握りあい、額をつけて向かい合った姿は、安らぎが満ちてほんとに美しいと思った。
  【◎△×】7

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その男、凶暴につき

1989年  日本  103分
監督 北野 武
出演
ビート たけし、白竜、川上 麻衣子、佐野 史郎
芦川 誠、岸部 一徳、平泉 成

  ストーリー
 人気タレント、ビートたけしが本名の北野武でメガフォンを取った衝撃的な監督デビュー作。
 一匹狼的でに署内でも孤立している刑事の我妻(ビート たけし)は、後輩刑事・菊池(芦川 誠)とともに麻薬売人が惨殺された事件を 追ううち、表向きはレストランの経営者である仁藤(岸部 一徳)が黒幕であることを知る。やがて同僚刑事・岩城(平泉 成)が一枚 噛んでいることが判明するが、彼も仁藤が差し向けた殺し屋・清弘(白竜)に殺される。

  一口感想
 ビートたけしが監督・北野武としてデビューを果たした作品ということで、以前から見たいと思っていた。当初、深作欣二監督が担当の 予定だったが、スケジュールの都合で降板し、ビートたけしが急遽、代わりを務めることになったという。
 監督は初体験の彼は専門的な知識がなくて、スタッフに助言をあおぎながら撮影を進めたというが、それにしては完成度は高い。とくに 印象的なのは、ほとんど途切れることなく暴力シーンが登場するにもかかわらず、全編をおおうのが虚無的な静寂であることだ。
 “キタノ・ブルー”といわれる独特の「青」が北野映画の特徴として知られているが、それが映画のトーンとしてすでに表われている ことに驚いた。

 一匹狼の刑事・我妻の異端性は、冒頭の少年たちが遊び半分で浮浪者を襲撃するシーンによく出ている。我妻は少年の1人の後を付け、 自宅に押し入って暴行を加え、無理やり自首させる。仲間の刑事が「なんでその場で止めないんだ」というが、そうせずに彼らの行為を じっと見ていただろう我妻を想像すると、ひんやり背筋が寒くなる。
 「俺が何をしたっていうんだよ」と半泣きで抗議するスポイルされた少年。彼らへの怒りが沸点に高まるまで抱え、一気に無言で 爆発させる我妻。さらに、洒落た郊外の白い家が象徴する “日常性” に突如暴力が闖入する構図。“暴力” の不気味さが眼前に飛び 出してくるのを感じる。

 対照的にブラックな笑いを誘われるのが、我妻がら麻薬所持容疑の男をガサ入れをするシーンだ。刑事が3、4人がかりで押さえに かかるのを振り飛ばして男は逃げる。我妻が追う。男のマラソン選手も顔負けのスタミナと速さに、呆れるのを通り越して可笑しくなる。
 我妻は途中で後輩刑事の運転する車に乗る。一旦見失った男を後輩が見つけ、「あそこにいます」「ばか、追いかけろ」、こうなると 完全に漫才のノリだ。

 しかし男は逃走の初めに、道に転がっていたバットで同僚刑事の頭を叩き割っている。何事もないバットが凶器に変貌する不気味さ。 ここでも、“日常性” に突然暴力が顔を覗かせるのだ。
 また、後輩刑事の素人っぽさ、人の良さが強調されることで、彼が麻薬組織の手先になる終盤のオチが効果的な怖さをかもし出す。

 我妻をつけ狙うヒットマンに扮した白竜が突出した存在感だ。私がロック歌手としての彼を知らないせいもあると思うが、その迫力は ただ事でない。夜の橋で我妻とすれ違う時、倉庫での対決シーン、彼が登場するだけで空気が一変する。2人が共に死んでいくラスト シーンは壮絶としか言いようがない。
  【◎△×】7

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その男ゾルバ

1964年  アメリカ/イギリス/ギリシャ  146分
監督 マイケル・カコヤニス
出演
アンソニー・クイン、アラン・ベイツ、リラ・ケドロヴァ
イレーネ・パパス、ジョージ・ファウンダス

  ストーリー
 ギリシャの現代作家ニコス・カザンツァキスの原作をもとにマイケル・カコヤニス監督が映画化。リラ・ケドロヴァはこの作品で アカデミー助演女優賞を獲得した。
 バジル(アラン・ベイツ)は、クレタ島に父が残した炭鉱の処理のためにギリシャにやって来たイギリス人の作家だ。彼はピレウス 港でクレタ島に向う船を待っている時に、ゾルバ(アンソニー・クイン)という男と知り合う。
 バジルは廃坑に近い炭鉱を再採掘することにし、監督として彼を雇う。2人は元高級娼婦だったというマダム・ホーテンス(リラ・ ケドロヴァ)の安宿に居を定める。
 ゾルバはパワーに溢れたな楽天家で、人生を楽しむためにはどんな困難や悲しみにもくじけない逞しい魂を持っていた。女と音楽を こよなく愛し、バジルにも恋をしろとハッパをかける。
 村に住む寡婦(イレーネ・パパス)は、炭坑管理人マヴランドー二(ジョージ・ファウンダス)の末息子パブロに求愛されていたが、 やがてバジルに惹かれるようになる。2人が結ばれた夜、パブロが海で死ぬ・・・。

  一口感想
 アンソニー・クインが扮するゾルバがじつに魅力的だ。あくまでも楽天的で思考は前向き、物事に失敗しても全然めげない。下手な 反省なんかしないのだ。
 老朽した炭坑をどう採掘したらいいのかさんざん考え、いいアイデアを思いつくと、嬉しくて嬉しくて、知らぬうちに身体が踊って しまう。幼い一人息子を失くした時も、彼は踊りでその悲しみ爆発させた。喜びも悲しみも身体で表現するゾルバなのだ。知的に ものごとを理解しようとするバジルとはまったく対照的だ。
 若い女が大好き。セックスが彼のパワーの源だ。だけど、年老いた女にも優しい。宿の女主人ホーテンスの懇願に負けて、その気も ないのにバジルの立会いで婚約式なんぞ上げたりする。
 あとどうするんだろうと思っていたら、うまい具合にホーテンスは死んでしまうのだが、病床の彼女を最期まで優しく看取るのも ゾルバなのだ。

 一方、アラン・ベイツ扮するバジルもなかなか好青年だ。
 人生にも恋にも慎重で、奔放で破天荒なゾルバに振り回されてばかりいる。それでも彼の無垢な生き方を愛し、受け入れている。
 父の遺産の炭坑の復活には失敗するけれど、ゾルバと知り合ったことが彼の人生の大きな財産になったのはたしかだと思う。
 ラストシーンで、彼がゾルバに教わって下手くそなダンスを踊る姿が微笑ましい。ギリシャに来る以前のバジルなら考えられない ことだ。

 ところで、クレタ島の風習というのがあまりに強烈だ。島の男の求愛を受けいれず、よそ者と結ばれた女を許さない。イレーネ・ パパスが扮する寡婦を村人が取り囲んでじわじわと追い詰めていく様子はほんとに不気味だ。
 瀕死のホーテンスの部屋に村の老女たちが入り込み、じっと死ぬのを待つシーンも怖い。息を引き取った途端、わっと村人が群がって、 部屋からあっという間に家財の一切合財を持ち出す。死肉に群がる禿げ鷹みたいだ。
 原作者の体験がもとになっているそうだから、こういう風習があったのは事実なのだろう。これまで何回か訪れたことのある ギリシャだけど、こんなのを見てしまうと、なんだかもう行けなくなりそう。さすがに今はもう違うだろうけれど。
  【◎△×】8

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ソフィーの世界

1999年  ノルウェー  107分
監督 エリック・グスタヴソン
出演 シルエ・ストルスティン、トーマス・ヴォン・ブロムセン
アンドリーネ・サテール、ビョルン・フローベルグ

  ストーリー
 世界中で150万部を超えるベストセラーとなった、ヨースタイン・ゴルデルの原作を映画化。
 間もなく15歳の誕生日を迎えるソフィー(シルエ・ストルスティン)は、ある日、「あなたはだれ?」「世界はどこから来るの?」 とだけ書かれた不思議な手紙を受け取る。彼女は手紙の差出人アルベルト・クノックス(トーマス・ヴォン・ブロムセン)とともに、 ヨーロッパの哲学・芸術・科学などの歴史をたどる旅に出る。
 やがて2人は ‘少佐’ という謎の人物や、彼が15歳の娘ヒルデのために小説を書いていることを知る。それにつれて、自分たちは 本当に存在するのだろうか、いつか自分たちはいなくなるのだろうか、と2人の<実存>への疑問は深まっていく。

  一口感想
 最初にこの映画を見た時は、原作が「哲学入門書」というイメージで喧伝(けんでん)されたせいか勝手が 違って戸惑ったが、2回目の今回はすんなりファンタジー映画として楽しむことが出来た。

 「あなたはだれ?」「世界はどこから来たの?」、それだけしか書いてない手紙がある日ポストに入っていたら・・・、そう想像する だけで、私はストンと空想癖が強かった15歳の少女にもどってし まう。
 手紙を運んでくるのは白い大きな犬だ。手紙の差出人に質問したいことがあったらピンクの封筒に入れて、犬のお駄賃に角砂糖一個を 添える。こういう趣向が私は大好き。
 犬と一緒に森の道をゆくと、小さな湖のほとりに古い壊れかけた小屋。中には不思議な鏡があって、触れると鏡面は水のように揺れて、吸い込まれそうになる。
 ・・・私の心は次々現われる不思議な出来事に魅了され、ソフィーと一緒に時空を超えた旅へと誘(いざな)われていく。

 でも実際ソフィーとアルベルトの旅が始まると、それは丁度お行儀のよい歴史教科書を読むよう。古代のソクラテス、プラトンから 始まって中世、ルネサンス、フランス革命、ロシア革命と続いていく。これではテーマパークのイベント館で歴史探訪をしているのと あんまり変わらない。

 この映画はもっともっと原作を大胆に翻案して、「不思議の国のアリス」のような物語にすべきだったんじゃないだろうか。
 謎の人物の ‘少佐’ やソフィーにそっくりの15歳の少女ヒルデはいったい何者なのか、というミステリーの要素を生かして、ソフィーとアルベルトは単に歴史の案内人になるだけでなく、‘少佐’ の書く小説が終らないように大活躍してもよかったんじゃないかと思う。
 哲学書的な部分に縛られてしまったんだろうか、奔放さが足りなかった気がする。

 ラストのカーニバルのシーンは私には少々意味不明だった。「私たちは永遠」といきなり結論を出してしまったのは、やっぱり「私は だれ?」「世界の始まりは?」という実存的哲学をエンターテインメントにするのが難しかった、といういことのかな・・・。
  【◎△×】6

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空の穴

2001年  日本  127分
監督 熊切 和嘉
出演
寺島 進、菊地 百合子、澤田 俊輔、外波山 文明、権藤 俊輔

  ストーリー
 不器用な男が恋人に捨てられた若い女と出会い、生き方に変化を起こす物語。主演は北野武作品の常連として存在感の光る寺島進。
 北海道の寂れた街道筋でドライブイン「空の穴」を営む市夫(寺島 進)は、ギャンブル好きの父親(外波山 文明)と侘しい男所帯 の2人暮らしだ。
 恋人・登(澤田 俊輔)とドライブ旅行の途中、ちょっとした口論で置き去りにされた妙子(菊地 百合子)は、空腹に耐えかね市夫の 店で無銭飲食を企てる。彼女をバイトとして雇った市夫は、無味乾燥な日々に差した仄かな明るさに、心が浮き立つのを覚える。
 ある日、休日にドライブにでかけた2人は偶然登と行き会う。彼は旅先で知り合った女子高生と一緒だった・・・。

  一口感想
 奇妙なタイトルだが、“空の穴” とは主人公・市夫の経営するドライブインの名だ。命名者は市夫の父で、そこにはパイロットになり たかったという父の夢が託されている。
 終盤、妙子が去った後、店を開く気力も失せた市夫が、原っぱに寝っころがっているシーンがある。金を使い果たして、ギャンブル旅行 から帰ってきた父親が、傍らに来て寝そべる。市夫の初めての失恋、そんな息子の痛みを事情は聞かずに分かち合う父、2人でともに 眺める空。

 この映画はある意味では、父と息子の物語だと思う。それは市夫が繰り返し父のエピソードを妙子に語るところにも感じられる。 ところが、実際に画面に登場する父親は、ギャンブルにうつつを抜かす無為徒食の輩。店でごろごろテレビを見ている中年男を、私は 初めどこかのオヤジが居候しているのかと思ったほどだ。
 妻に逃げられ、飛行機と空への憧れを抱きながら息子を育てた男の陰影が、この父親からほとんど感じ取れない。市夫が語るイメージ とギャップがありすぎて、存在感が薄いのが気になる。

 ふらりと現われ、ふらりと去っていく妙子も、何を考えているのかよく分からない今風の女の子らしさはあるが、なにかもう1つ 迫ってくるものがない。
 彼女は「ここにいてくれ」と懇願する市夫に「ずっと一緒にいられるわけないでしょ」といい、なおも取りすがる彼に、昔飼い犬が 市夫を咬んだ理由が分る気がする、という。時々、暗い顔で考えに耽っている時もある。市夫の孤独に共振れする “何か” を持っていそうなのだが、それが何なのかが見えてこないのだ。

 ただ、恋人を一文無しで放り出し、咎められれば簡単に「ゴメン」、あとは「どうしろっていうんだよ」と開き直る登と、「私困った んだよ」以上のことは言えず、「いっちゃんが言えって言うから」ともたもた口ごもる妙子のやり取りは、今どきの若者ってこうなの かな、と思わせるリアルさがある。「男なら責任、感じろ」「土下座して謝れ」という市夫は、彼らから見てすでに古い人間なのかも しれないな、とも思った。

 市夫が父を養うだけの真面目な生活から(逆説的な言い方だが)足を洗って、旅に出かける結末にほっとした気分。寺島進が中年に かかった不器用な男を丸ごと演じて印象的だった。
  【◎△×】6

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それから

1985年  日本  130分
監督 森田 芳光
出演
松田 優作、藤谷 美和子、小林 薫、笠 智衆
中村 嘉葎雄、草笛 光子、森尾 由美、羽賀 研二

  ストーリー
 明治の文豪・夏目漱石の原作を、『家族ゲーム』など現代感覚あふれる映画で注目を浴びた森田芳光監督が映画化。
 明治後期の東京。“高等遊民” を自認する長井代助(松田 優作)は、30歳になっても職につかず、読書や思索にふける生活を送って いる。友人の妹の三千代(藤谷 美和子)に思いを寄せていたが、気持ちの踏ん切りがつかず、その間に美千代は代助の友人の平岡 (小林 薫)と結婚してしまう。
 地方の銀行に勤めていた平岡が、辞職して3年ぶり帰京してきたことから、代助と美千代の交流が再開する。

  一口感想
 大正生まれの母がまだ娘時代、友達(と思うけど、奉公先の仲間だったかも)とどこか池のほとりに佇んでいる写真を見たことがある。 セピア色に変色し、表情も分らないほど褪せた写真だけど、遠い昔のレトロな匂いに引かれた。この映画にはこうした明治・大正の空気 感が映像のいたるところから伝わってくる。
 たとえば・・・、土砂降りの石畳の道。苔むした石造りの橋がその上を横切る。美千代が橋を渡って、横の石段を下降りてくる。抱えた 白いゆり。代助がそっと匂いを嗅ぐ。
 家々の佇まい、人々の挙措、どれ1つ取っても明治・大正の匂いがしっとり満ちている。とりわけ、タイトル・シーンのぼーっと浮き 上がってくる藤谷美和子が美しい。

 “高等遊民” は漱石の造語だそうだ。資産家の子弟などで、定職につかずに気ままに暮らせる境遇の人。今はこういうあり方は世間的 に認められがたいだろう、仕事で生活の資を得るのは当然のことだから。しかし、代助は「生きるために働くなんてくだらない」と考えて いる。
 実業家の父(笠 智衆)や兄(中村 嘉葎雄)が代助の無為を許しているのは、「三年寝太郎」じゃないけど、いずれその気になるだろう と思っているからだが、実際は「何でも出来る」立場にあるから何もしない間に、代助の何かがやれる力はどんどん失われている。その ことに代助は気づいていない。

 平岡のほうは仕事で挫折し、現実の厳しさを身を持って味わっている。社会に出て大きく変化した平岡と、昔のままの代助。学生時代、 親友だった2人の間には埋められない溝が出来ている。借金に苦しむ平岡が代助の援助を潔しとせず、肩肘張った態度に出るのはこの ためだ。
 しかし、代助も美千代のために金を工面しようとすると、結局は義姉(草笛 光子)を通して実家に頼るしかない。高尚を気取っても、 実際には何の経済力もないのだ。

 私にはこうした代助の “高等遊民” ぶりが興味深く思える。一見、金に困らない気ままな暮らしが、そのじつ、「実家の期待に 応える」という条件付きの自由なのだ。そして実家の期待とは “資産家の娘と結婚すること” だ。
 代助が理由にもならない理由をあげて逃げようとするのは、美千代を愛しているから、だけではないだろう。結婚により縁戚関係とか 世間(=仕事)とか、つまり “現実” に入っていかなければならない。それが不安でもあり、自信がないのだと思う。
 美千代との関係が知れて、代助は実家に勘当される。これからは自力で生きていかなければならない。映画は美千代を挟んだ代助と 平岡の三角関係という色合いが強いが、世俗から逃げ続けて、最後に逃げ切れなくなった男の話、という風に見ても面白いと思った。

 俳優陣はそれぞれ「らしさ」が出ていると思ったが、代助の義姉に扮した草笛光子が出色。良家の夫人らしく闊達で品がよく、現実主 義者でもある。一番印象に残った。
  【◎△×】7

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ソン・フレール ー兄との約束ー

2003年  フランス  90分
監督 パトリス・シェロー
出演
ブルーノ・トデスキーニ、エリック・カラヴァカ、ナタリー・ブトゥフー
モーリス・ガレル、カトリーヌ・フェラン、アントワネット・モヤ

  ストーリー
 不治の病にかかった兄が、長く疎遠だった弟と和解し、安らぎのうちに死を迎える人間ドラマ。『王妃マルゴ』『インティ マシー/親密』のパトリス・シェロー監督作品。ベルリン国際映画祭で監督賞を受賞した。兄トマを演じたルーノ・トデシーニは12 キロもの減量で撮影に望んだという。
 パリに住むリュック(エリック・カラヴァカ)のもとに、ある冬の夜、兄のトマ(ブリュノ・トデスキーニ)が訪ねてくる。血小板が 破壊される難病が再発したので、看病してほしいというのだ。互いに反目し、長く行き来もなかった兄だけにリュックは戸惑うが、 頼みを聞き入れ、看護を引き受ける。
 トマは入院し治療を受けるが効果はなく、想像以上の苦しさの中で自暴自棄に陥っていく。そんな兄をリュックは献身的に支えるの だが・・・。

  一口感想
 家族の死を看取る映画はいろいろあるけれど、看病するのは母か姉妹あるいは恋人、つまり女性というのがほとんどだ。しかし、本作 のトマはそのいずれでもなく、弟リュックに病気の世話を頼む。こういうパターンの映画は私は初めて見た。
 兄弟は子どもの頃は仲がよかったが、いつの間にか疎遠になっていた。理由は、リュックの同性愛をトマが受け入れられず、それを 知ったリュックもトマを拒否したことにあるらしい。死を眼前にしたトマが弟に看病を頼み、戸惑いながらもリュックがそれを承諾した のは、2人とも、たった1人の兄弟の絆を結び直したかったのかもしれない。

 トマはリュックの付添いで入院するが、治療の効果は上らない。トマを演じるブリュノ・トデスキーニは撮影に備えて12キロの減量 をしたのだそうだ。痩せて病み衰えた身体は、目をおおいたくな るほどリアルな迫力がある。
 手術を決意したトマが、全身の体毛を剃られるシーンはとても痛ましい。わずかに股間をタオルでおおったトマの全裸を、カメラが容赦 なく捕らえる。ナースが要領よくトマの身体の向きを変えながら、体毛を剃っていく。絶えず話しかける声が優しいのが、かえって 不自然に響く。
 物体のように横たわり、なすがままになっているトマの深々した絶望、かたわらで見守るリュックのいたたまれなさ。ほんとうに つらい場面だ。
 こうして行った手術も効果がなく、原因は他にあるかもしれない、と医師は新たな手術を提案する。なんだか実験動物にでもなった ような苛立だしさが湧いてくる。トマはそれを拒否して退院し、海辺の療養を選択をする。

 映画は、トマがリュックの付き添いで入院〜手術〜退院するまでを、海辺の療養生活を点景のように挟みながら綴っていく。
 海岸のベンチで日光浴する兄弟に、散歩の途中の老人(モーリス・ガレル)が海で起きる死について語って聞かせるシーンがリフレン する。漁師も海を恐れること、海で死んだ者は同じ浜辺に打ち寄せられること、海に飛び込んでそのまま帰ってこなかった若者のこと など・・・。
 海辺の家でリュックと暮らすようになったトマは、ある日、リュックも気づかぬほどの静けさで海に消える。兄の死を悟ったリュック が、テラスの揺り椅子に座って海を見つめるラストシーンは、静謐さに満ちて美しい。兄弟であるというだけの理由で生まれた無償の 愛は、2人の間の確執を洗い去り、最後に安らぎが残された。難病ものというジャンルでくくれない余韻が残る。
  【◎△×】7

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