| 【映画メモ】 し で始まる映画 |
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ストーリー インディペンデンス映画の父ジョン・カサヴェテスが遺した脚本を息子のニックが映画化、無軌道なカップルの激しい愛と、10年後の 再会を描いている。 エ ディ(ショーン・ペン)とモーリーン(ロビン・ライト・ペン)は激しく愛し合っていたが、荒れた暮らしを続けていた。ある日、 モーリーンが隣人に暴行されたことを知って、エディは怒りで我を忘れ、銃を手に暴れ回って精神病院に収容されてしまう。10年後、 退院したエディはモーリーンも元へ向かうが、彼女は別の男・ジョーイ(ジョン・トラヴォルタ)と結婚し、平和な家庭を築いていた。 映画は大きく前後2つに分かれているが、ベッドで目覚めた若い女がかたわらに夫がいないことに気づき、狂気のように捜しまわる前半 部が魅力的。 親友に電話をかけ、行きつけの酒場に夫の姿を探し、そんな心の乱れにつけ入った隣人に乱暴され、顔を腫らしたまま警察に捜索願いに 行き、顔の怪我は暴力夫の仕業と勘違いされ・・・、とその若い女、モーリーンの半日が描かれる。途中で彼女が妊娠中と分ってくるが、 タバコばかり吸ってほとんど食事も取らない。お腹の子によくないよ〜、と老婆心が起きるほど、彼女の情緒不安定ぶりは寒々しく 痛ましい。 夫エディがなかなか登場しないのがミソ。もちろん観客はショーン・ペンが扮していることは分っているが、これほど捜し求める 妻を放ってどこで何をしてるんだろう、一体エディってどんな 男なん
だ、とそこにいない存在をひどくリアルに感じてしまう。どうやらエディが2、3日蒸発するのはよくあるらしく、そのたびにモーリーンは半狂乱になる。それでもエディが戻ればけろりと して、2人は他人にたかった金でダンスホールにもぐりこみ、雨中をタクシーを乗り回し、友人を叩きこして食事をおごってもらう。 2人の愛はどう見ても常軌を逸しているが、せっぱ詰まった魅力がある。ことにダンスホールで踊る2人には破滅ギリギリの美しさが 感じられる。 ところで、エディが精神病院に収容された10年間、モーリーンは一通の手紙も出さず、一度も彼を見舞わなかった。あれほど深く 愛し合っていたのに、なぜなんだろう。新しい夫ジョーイとの穏やかな暮らしのために、エディとの過去をすべて葬り去ろうとしたのだ ろうか。 それはそれで分らないではないが、もしそうなら、退院したエディが目の前に現われた時、なぜあんなにもあっさりと、夫ジョーイと 幼い娘たちを捨てることが出来たのか、という新しい疑問が湧いてくる。エディやジョーイ、娘たちの心持はそれぞれ了解できるのだが、 要の位置にいるモーリーンだけが、心の輪郭がはっきり見えない。 精神病院を退院した時、エディは3ヶ月しか経っていないと思っていた。なぜならモーリーンが「3ヶ月で出られる」と言ったからだ。 この時、彼の時間は流れを停めてしまったのだと思う。二つに折り合わせた紙の挟まれた部分のように、エディにとって入院と退院の間の 「10年」は存在しないのだ。 そしてもしかすると、それはモーリーンも同じだったかもしれない。この10年、彼女は子を生み育て、懸命に堅実な家庭を作ってきた けれど、どこか夢のように現実感が伴わなかったんじゃなかろうか・・・。エディが現われた時、「10年」を挟んだ「端」と「端」が くっついて、再び彼女の中で “現実” が息づき始めた・・・。生きいきした表情でエディと去っていくモーリーンを見て、そんなことを 思った。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 『禁じられた遊び』のルネ・クレマン監督が、ジェラール・フィリップを主役に製作した軽妙でシニカルな恋愛喜劇。 財産家の妻キャスリーン(ヴァレリー・ホブソン)と離婚寸前のリポワ(ジェラール・フィリップ)は、妻の旅行をいいことに、彼女の 親友パトリシア(ナターシャ・パリー)を口説きにかかる。次から次へと女を渡り歩いてきた彼は、過去の女性遍歴を告白して、初めて 出会った時からパトリシアのことが忘れられなかったと迫るが、あえなく失恋する。絶望したリポワは狂言自殺を図るが・・・。 リポワって引っかける女がぜんぶタイプが違う。初めは会社の上司アン(マーガレット・ジョンストン)。今風にいえば切れ者のキャリ ア・ウーマンだ。能無しのリポワなんて鼻も引っかけない。ところがちょっと甘い言葉を弄されるとたちまちイチコロ、強い女ほど弱いと いう見本みたいだ。もっとも喧嘩も壮絶、破局は早い。
次のノラ(ジョーン・グリーンウッド)は初心な箱入り娘。芯からリポワを信じている。結婚を前提に親に会ってくれと言われて、
今度はリポワのほうが怖気づいて逃げ出す。この後、彼は今でいうホームレスにまでなり下がる。これで懲りて性根を入れ替えるかと思いきや、次の相手は年増の娼婦、マルセル (ジェルメーヌ・モンテロ)だ。若くも美しくもない娼婦が初めて本気の恋をして、懸命に年下の男に尽くす。リポワもそれに応えて 優しいところを見せるけど、やっぱり娼婦のヒモになりきれない。 ある時、マルセルに思いがけず遺産が転がり込むと、リポワはそっと姿を消す。女好きではあっても、悪人ではないのよね。マルセルの 悲しみを思うとつらいけど、これでよかったんだと思う。オムニバス風の本作の中で、ほろ苦いペーソスが漂う彼女のエピソードが私は 一番好き。 リポワの女性遍歴も金持ち女のキャスリーンと結婚して打ち止めかと思ったら、浮気の虫は収まらない。離婚されかかっているのに、 隣りの部屋の女性に秋波は送るし、妻の親友・パトリシアは口説くし、あまりの能天気ぶりに呆れるばかり。どこが “しのび逢い” なん だかねぇ、全然忍んでなんかいません。 パトリシアが、さんざんリポワに色懺悔させといて、「なんてひどい人」と現実的な反応をするのが面白い。それにしても、惚れた女性 を口説き落とすために、過去の女遍歴を語ってきかせるってどう? 「あなただけは別」と誠意をみせるつもりなの〜? だとしたら 勘違いもいいところ。女たらしほど女心にうとい、ってほんとかもしれない。 ずっと浮ついた艶笑小咄を聞かされている気分でいたら、最後に辛口の結末が待ち構えていてびっくりした。でもね〜、なんだかんだ 言っても、キャスリーンもパトリシアもはやっぱりリポワに惚れてるのよね。で彼は彼で、車椅子の身になっても、眼は性懲りもなく美女 の尻を追っかけてるし・・・。やっぱりフランス映画って隅に置けないなぁ。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 中世の北欧伝説「ヴェンデの娘」をもとにした人間ドラマ。アカデミー外国語映画賞を受賞したベルイマン監督の代表作の1つ。 16世紀、スウェーデンの片田舎。豪農トーレ(マックス・フォン・シドー)の一人娘カーリン(ビルギッタ・ペテルソン)は、遠くの 教会に捧げものをするために、下女インゲリ(グンネル・リンドブロム)をお供に馬で出かける。途中、3人組の浮浪者に襲われ、暴行 されて、殴り殺されてしまう。 3人は羊飼いと称して、カーリンの実家と知らずにトーレの家に一夜の宿を求める。事情を知った父親トーレは、復讐心から3人を 殺してしまう。 公開時、とても評判になった映画。ヒロインがレイプされる場面が生々しいというので、高校生の私は見に行く時はこわごわだったが、 どこがそうなのかよく分からなかったという笑い話みたいな思い出がある。 むしろ浮浪者3人組のうちの年端のいかない少年が、一夜の宿を乞うたのがあの少女の家と分かり、嘔吐する場面にショックを受けた ものだ。吐物の中から蛙があふれるほど飛び出すイメージ
があったが、久しぶりに再見したらそれはない。パンの間に蛙をはさむ下女の悪意と、年長の浮浪者の悪行に脅える少年の罪意識が、私
の中でシンクロしたのだろうか。透明感に溢れたモノクロ映像の美しさに、「これが北欧の映画なのか」と思った。ただ、映画の内容は当時の私には難しくて、“ベル イマン監督=宗教的=難解” の先入観の元になってしまった。人間の犯す罪とそれに対する償い、神の赦しがテーマのようだが、それは それとして、興味を覚えるものがいくつかあった。 まず、下女インゲリと彼女が森で出会う水車小屋の老人が信奉する北欧神話の主神オディーンについて。すぐ思い出すのが、中学生の 頃見た『バイキング』(57)だ。 スコットランドに攻め込み、捕らえられたバイキングの首領アーネスト・ボーグナインが、獣のひしめく穴に「オーディーン!!」と 叫びながら自ら身を投げ入れるシーンをよく覚えている。深い穴に両手を広げて落ちていく彼の姿は恐ろしくて、強烈で、オディーンは 誇り高く猛々しい神に違いない、と思ったものだ。 虐げられた下女インゲリの怒りはこの神の激しさに、「他人の秘密を聞き、裏の顔を覗き見る」「若い女の隣に座るのは久しぶりだ」と いう水車小屋の老人の邪悪さや肉欲は原始的な生命力として、共にこの神にふさわしい。 ヨーロッパは比較的早くキリスト教化されたけれど、辺境の地・北欧では土着の神は民間信仰として生き延びていたのだろうか。映画 では湧き出でる泉(=キリスト教)によって最後はすべてが浄化さてしまうが、深い森ではこれらの神々がまだ息をひそめていそうな 気がする。
もう1つは、豪農トーレが神に「罪なき娘の死や私の復讐を見ておられたはずなのに、なぜ黙っておられたのか」と問いかけるところ。遠藤周作は小説『沈黙』のなかで、殉教者の苦しみに神はなぜ沈黙するのか、と悲痛な問いを投げかける。これはキリスト者としての 遠藤周作の根源的疑問であり苦悩だったのだろう。その中で彼は信仰を深め、“あの人”(=イエス)を見出す。 旧約聖書の “裁きと罰” の唯一絶対神には感覚的に近づけない私にも、遠藤の日本的なキリスト教世界には親近感を覚える。 本作にこういうシーンがあることは、公開当時、まるで気づかなかった。トーレのこの問いかけにベルイマンはどのような答をだす のだろうと興味を持ったが、トーレはこの後あっさりと、「それでも私は赦しを請います」「でないと自分の行いに耐えられない」と 続ける。 絶対者に悩みも苦しみもすべて預けてしまうことで救われる、ということなのだろうか。これが西洋的なキリスト教信仰なのかな、と 彼我の違いを興味深く思った。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 1938年の発表当時、内容が反戦的ということで発禁処分となったドルトン・トランボの小説を、33年を経て、赤狩りによるハリ ウッド追放を乗り越えたトランボ自身が脚本・監督して映画化。現在をモノクローム、過去をカラーで構成している。 第一次世界大戦下、ジョー(ティモシー・ボトムズ)は爆撃を受けて耳も眼も口も失い、手足ももがれて野戦病院のベッドに横たわって いた。やがてジョニー意識をフルに動かして、少しずつ自分の今のありさまを知覚していく。絶望の中で、彼は父(ジェイソン・ ロバーズ)や恋人カリーン(キャシー・フィールズ)との思い出を蘇らせる。 モールス信号を使うことに気づいたジョーは、首を振ることで軍医(エドワード・フランツ)や看護婦(ダイアン・ヴァーシ)に 死なせてくれと訴えるのだが・・・。 初めて本作を見た時は、映画に込められた絶望があまりに深くて、立ち上がれないほど打ちのめされたことを覚えている。 聴覚・視覚・嗅覚を失い、触覚は残されているが、四肢をなくしているために自分から触れることは出来ず、喋る機能も失っている。 戦場の爆撃でそうなってしまった、という意味では、戦争の非人間性を訴える “反戦映画” かもしれないが、私はむしろ、一個の肉塊と 化した人間は生きることにどう意味を見出しうるのか、という実験映画のように思われて、痛ましさと恐怖の両方を覚えたのだ。 自ら行動を起すことは出来ず、他者とコミュニケートする方法も絶たれ、自分の置かれた状況を把握するすべもない。ジョニーの悲劇 は、肉体は完全に損傷されたのに、知能と精神は健全に保たれていることだ。そのために、彼は暗黒の宇宙をただ1人漂うような不安と 恐怖を味わわなけ
ればならなくなる。彼が全意識を働かせて、自分には目も鼻も口もなく、手足もなくしていることを知覚していくサマは、言葉を失うほどに痛ましい。 久しぶりに見た今回は、そうしたことへの心準備があったせいか、むしろ回想シーンの瑞々しさに胸を打たれた。 出征をひかえて、恋人カリーンと初めて結ばれた夜の初々しい喜び、さらに遡って、父と河釣りに出かけた夏の思い出、働いていたパン工場のクリスマス・パーティ・・・、それらは時に混沌と白濁した意識のなかで、幻想となって彼の脳裏を駆け巡る。 「現在」が陰鬱なモノクロであるだけに、鮮やかなカラーの「過去」「幻想」がいっそう美しいものに映る。 ジョニーは、これらは夢なのか記憶なのか、今は夏なのか冬なのか、そして戦場の日から何年何日が過ぎたのかを、必死に探ろうと する。年配の看護婦が窓のカーテンを開き、ジョニーが太陽の暖かさを感じるシーン、若い看護婦が胸に書いてくれた文字から、今日が クリスマスだと知るシーンの息苦しいほどの感動。 ここには、生きる手段を奪われた青年の、なお瑞々しく呼吸する “生の息吹き” がある。これは稀に見る青春映画でもあると思う。 相貌も記憶も失った『イングリッシュ・ペイシェント』の結末にくらべると、本作の救いのなさはたとえようもない。再び密閉病室に 移されたジョニーは、もはや陽光や風を感じることもない。たんに息をする物体となり、永遠ともいえる時間が通り過ぎていくのだ。 ジョニーの「SOS、助けてくれ・・・」の悲痛な叫び。「助けて」とは、「この状況から解放して」=「殺してくれ」の意味だろう。 一切の希望を剥奪され、死ぬことすら許されない極限の絶望。ブラックホールがぽっかり口を開くのが見えるような気がした。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 勝新太郎が白塗りの二枚目からの脱皮を果たし、後の『座頭市』シリーズの原点となった作品。 生まれつき盲目の七之助は幼い頃から悪智恵が回り、高名な検校・不知火(荒木 忍)に弟子入りし、名を杉の市(勝 新太郎)と 改めてからも悪行は修まらない。街道筋で癪(しゃく)の発作に苦しむ旅人を殺すと、懐中から奪った大金を もとに高利貸しを始める。 一方、これを “生首の倉吉”(須賀 不二男)に目撃されたのをきっかけに、強盗団の頭領・鳥羽屋の丹治(安部 徹)に取り入り、 師匠の検校殺しを依頼する。 ある日、彼のもとに旗本の妻・浪江(中村 玉緒)が夫に内緒で借金の申し入れに訪れる。 手籠めにした娘が川に身投げしたことを知った時に、杉の市が「死ぬほどのことじゃない」と抜けぬけと言うのを見て、「うむー ・・・」と絶句した。善悪の基準が違う、というかそもそもそういう基準なんて初めからないというか・・・。そういう価値観で生きて る人って案外いそうだなぁ。彼が旗本の奥方を騙しにかける件りなどは、「なんて悪いやつだろう」と呆れて言葉も出ない。
でも、悪行の限りを尽す杉の市なのに、あまり憎々しい気持ちにならないのが不思議。勝新太郎って役者の華があるし、悪事の機転の効かせ方に愛嬌があるせいかな。 癪(しゃく)に苦しむ旅人の世話をするフリをしながら「(針で)癪の脈を切ったら、おっと、息の根も止め ちまった」なんてことを言う。 妻が自害し、ことの次第を知った旗本が彼の住む長屋に乗り込んでくると、「ちょっとお待ちを」とか言いながら、風呂敷包みを抱えて 裏口からとっとと遁走する。慌てふためいた格好にプッと吹きそうになる。 旅人殺しを目撃した相手に口止め金を渡す遣り口といい、強盗団の首領の懐にすっと入り込んでしまう手口といい、杉の市の度胸は 桁外れに太い。彼を今の政財界に送り込んだら、凄腕の大物フィクサーになったんじゃないかしら。 贈収賄事件の絶えない世相を見ていると、「出世すればなるほど悪事がしやすくなる」という彼の信条を立派(!)に実践している お偉いさんはたくさんいそう。彼の悪には意外に現代的な匂いがする。 せっかく検校にまで上りつめたのだから、杉の市は金と権力をほしいままにして終わるほうが、映画としては面白かったんじゃないかと 思う。悪は徹底して悪を謳歌するというのも、ピカレスクものの醍醐味のような気がするんだけど・・・。 ところで、旗本の奥方役の中村玉緒、今やすっかりバラエティ番組の顔だけれど、こんなに細くてたおやかな頃もあったんですねぇ (失礼)。すっごく可憐でいじらしい。彼女の映画そう多くは見てないけど、これほど綺麗な玉緒さんは初めてです。 【◎○△×】7 |