| 【映画メモ】 せ で始まる映画 |
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ストーリー 中央に絶大な影響力を誇るコラムニストの生活を通して、マスコミ・芸能界の暗黒面をドライなタッチで描いた作品。 ブロードウェイのプレス・エージェント、シドニー・ファルコ(トニー・カーティス)は、成功のためには良心の切り売りさえ厭わ ない。野心を実現するために、政治・芸能界に大きな力を持つコラムニスト、J.J.ハンセッカー(バート・ランカスター)にへばり ついている。 J.J.は妹のスーザン(スーザン・ハリソン)とその恋人でクラブ・ギタリストのスティーヴ(マーティン・ミルナー)の仲を快く 思わず、ファルコを使い、悪辣な手段でスティーヴを陥れることに成功する。しかし、そのからくりを知ったスーザンは、兄とファルコ を激しく責め立てるのだった。 プレス・エージェントという言葉は初めて聞いた。情報を売るトップ屋みたいなものだろうか。本作のシドニーは、いつか自分も新聞 でコラムを担当するようになりたいという野心を持っている。“コラムを持つ” こと= “成功”、つまりコラムニストというのはそれ ほどの存在らしいのだ。 この辺りは日本と状況が違うのでやや理解しにくいが、J.J.を演じるバート・ランカスターの圧倒的存在感で否応なく納得 させられてしまう。釈明や弁明は一切許さない。「シャラップ」の短い一
言で完全に相手の口をふさぐ。完璧に命令を遂行しない限りは、相手の社会生命の抹殺さえも意に介さない。彼はマスメディアに
築き上げた自らの王国の絶対的な権力者なのだ。「自分に対する非難は、8000万人の読者を非難しているのと同じだ」とJ.J.がいう場面は、正直言ってゾッとする。 コラムニストの仕事とは、ブロードウェイの劇評だけなのか、政治・社会一般をも論評するのか、映画ではよく分からなかったが、 これほどの肥大した自己意識を持つ人が、民主主義の名の下に世論を左右するのだとしたら、そうとう怖い。 シドニーに扮したトニー・カーティスも単なる二枚目ではない演技力を見せ、感心した。偽の情報を書かせるために、弱みを握った コラムニストを脅迫したり、自分に惚れているシガレット・ガールを口説き落として、女好きのコラムニストに斡旋したりする。 J.J.に首根っこを抑えられ、犬のように追い使われるサマはじつにみっともないが、彼にくっ付いていれば甘い汁が吸えるという 計算もしたたかにしている男なのだ。 こういう情報屋は、芸能界といわず、政治、経済の裏世界にはごまんといそうだ。卑屈と尊大が同居する厭らしさを、トニー・カー ティスが “上っ面だけの笑顔” でじつに巧みに表現している。 タイトルからして、シドニーはJ.J.を追い落として、自分を虫けら同然にあしらった仕返しをするのかと思ったのだが、そんな 甘い話ではなかった。 J.J.がなぜあれほどまでに苛烈な方法を用いて妹の恋を邪魔しようとするのかよく分からなかったことや、シドニーが自ら墓穴を 掘るのにくらべてJ.J.は社会的地位を失墜させることもなく終わることにやや割り切れなさを覚える。しかし、モノクロームの映像 がシビアなストーリーによく似合って、フィルム・ノワールの雰囲気を十分に味わうことが出来た。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 松竹ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として強い支持を受けていた大島渚のデビュー第2作。欲望のままに行動しながら、じりじりと 破滅へ向っていく青年と少女の姿を描いている。 大学生の藤井清(川津 祐介)は、ある夜、中年男に無理矢理ホテルに連れ込まれようとしていた真琴(桑野 みゆき)を助け、男から 金を巻き上げる。翌日、清は港の材木置き場で真琴を犯す。 それ以来、2人は同棲し、美人局で金を稼ぐ日々を送るようになる。姉の由紀(久我 美子)が訪ねてくるが、真琴には帰る気は なかった。やがて真琴が妊娠し、清は同じ手口で堕胎の金を手に入れようとするが・・・。 若者の刹那的な生きかたを描いたストーリーには惹かれたが、あんまり好きになれない映画だった。理由ははっきりしている。台詞が 青臭くて、聞いていて気恥ずかしくなるのだ。 「こんなひどい境遇の中でもやっぱり青春はあったの」とか、文学青年が頭の中でひねり出したような台詞が続出する。映画は小説と 違って感性に訴えてくる部分が大きいので、こういう日常会
話では絶対に言わないような台詞ばかり出てくると、作り物めいて、共感しにくい。大島監督の観念的で理屈っぽいところがそのまま
出てしまっている感じだ。登場人物、とくに清や由紀が自分や人の気持ちを妙に分析して言葉にするのも、やはり違和感がある。 たとえば清は、真琴や彼女の友達が男に声をかけて車に乗せてもらうのは、「中年男への好奇心、セックスへの好奇心からだろう」と 真琴にいう。 それはその通りかもしれないが、木に竹を接いだように、いきなりペラペラとそんな台詞を喋られると、興ざめする。 余白の部分がないというか、台詞でぜんぶ説明してしまう感じなのだ。 60年安保で世論が沸き、学生運動が激しいうねりを見せていた当時には、こういう青臭さも若者の共感を呼んだのだろうか。 とはいえ、清と真琴の行き当たりばったりの生きかたには、無気力で目的を失った時代の雰囲気がそれなりに映し出されて いたと思う。桑野みゆきの演じる真琴の開き直り具合はチャーミング。破滅的とまではいわないが、どこまでもどこまでも堕ちていく 感じに引かれた。 【◎○△×】6 |
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ストーリー ホテトル嬢のミヤコ(麻生 久美子)は心に傷を持つサキコ(つぐみ)と一緒に暮らしている。不感症の彼女は、ある日、新谷 (永瀬 正敏)という客とのセックスで初めて快感を得る。それ以来、プライベートで会うようになり、サキコが骨折で入院すると、彼を 部屋に引き込むようになる。やがて退院してきたサキコと3人の奇妙な同居生活が始まるのだが・・・。 ミヤコはホテトル嬢をしている。不感症だから向いている、というのだが、なぜもっと真っ当な仕事をしようとしないのか、ほんとうの ところは分らない。同居人のサキコには働かせず、ペットみたいに養っている。サキコも「働こうかなぁ」と言ってみたりするが、本気で はない。死ぬ気もないのに屋上からヒョイと飛び下りて、骨折してしまう。 そして、新谷は本名も仕事も住まいも定かでない、正体不明の男だ。ミヤコ、サキコ、新谷ーー彼らにはどっしりした生活感がない。 部屋にふわふわ浮いた綿毛みたい。はかない空気感がこの映画の特徴だ。 ミヤコたちの部屋には2匹の大きな金魚の絵が飾ってある。ミヤコとサキコを表わすように、尾びれが揺らめきからんでいる。ある日、 新谷がひょいと現われて、2人のバランスが揺れ始める。
通りがかりの男が女2人の関係の危うさを露呈してしまうのだ。ミヤコが男に抱かれても不感症なのは、多分、サキコを愛しているから。新谷にサキコを抱いてと頼むのも、そのくせサキコは感じたの かと嫉妬するのも、サキコに対する屈折した愛の表れのような気がする。 新谷が一緒に住むようになると、サキコは金魚を3匹買ってきて、ミキサーの中で飼い始める。ミキサーの底には鋭い刃がついていて、 ひらひら泳ぐ金魚が触れそうで、見ているだけであぶなかしい。ある時ミヤコはミキサーのスイッチを入れる。金魚は一瞬身を翻し、粉々 に砕かれる。これはミヤコの妄想。でも、スイッチを入れて全部をバラバラに壊したい衝動って、多分だれでも持っている。 ミヤコはいつも酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせている。ウナギの骨が喉に刺さったから、というけれど本当はなにもない。それで も喉が痛い。時々は呼吸困難に陥る。あっけない彼女の死を考えると、なにかの病気だったんだろうか・・・。でも私には、金魚鉢のよう に閉ざされた3人の関係の暗喩のように思える。 3人の関係はぎりぎりまで煮つまり、ある日、泡が割れるようにバラバラになってしまう。雑踏の中をゆく新谷。だれかに呼ばれた気 がして、振り向き、手を上げる。結局彼はミヤコたちに置き去りにされてしまったんだ・・・。通りがかっただけの男なんだからしょうが ないよ、とつぶやく私だ。 青春の手ざわりの不確かさを感じる映画。サキコに扮したつぐみは登場場面の8割近くが松葉杖。後ろ姿のいじらしさが印象的だった。 【◎○△×】6 |
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ストーリー ドイツのジャーナリスト、エリッヒ・マリア・レマルクが自身の従軍体験を基に書いた同名小説の映画化。製作された1930年当時、 きわめて衝撃的な作品だったため、ポーランドでは親独的、ドイツでは逆に反独的とみなされ、アメリカでは “反戦宣伝映画” として 一部で上映禁止の動きが出るなど、波紋を呼んだ。 第一次世界大戦を舞台に、戦場で若い命を散らす兵士たちの姿を描き、戦争の虚しさをまざまざと映し出し、アカデミー作品、監督賞を 受賞。 1915年、第一次世界大戦下のドイツの田舎町。若者たちの出征で町が熱気に包まれる中、学校では老教師が愛国精神を説いていた。 ポール・バウマー(ルー・エアーズ)をはじめ学生たちは続々と軍隊に志願する。しかし、町の郵便配達夫だったヒンメルストース曹長 (ジョン・レイ)の厳しい訓練を経て配属された戦場では、さらに苛酷な状況が待っていた。 映画は、老教師の出征をうながす熱弁に煽られて、軍隊に志願した学生たちの目を通して描かれる。それはたとえば、食料も碌にない 兵舎暮らしだったり、鉄条網張りの任務で砲火の轟音や照明弾の明りで浮き足立ったり、と小さなことばかりだが、それだけに戦争の 現実を彼らがどう体 験していくかがリアルに伝わってくる。 なかでも印象的なのは、重傷を負った仲間のケムメリッヒをみんなで病院に見舞う場面だ。彼が「脚がひどく痛む」と訴える。仲間の 一人、ムラー(ラッセル・グリーソン)が「そんなはずはない。君
の脚はもうないのに」と言いかける。ケムメリッヒは負傷した脚を
手術で切断されたのをまだ知らずにいたのだ。ないはずの脚が痛む。実際そういうことはあるらしい。このあと、ムラー自身が同じ境遇になり、見舞いに来た仲間に同じことを訴え かけて、ぎょっとしたように下肢に眼をやる場面が出てくる。戦争の無残さを強く感じさせられる。 何度か繰り返される塹壕戦が意外なほど迫力がある。堀に身を潜めて、平原を迫ってくる敵を銃撃する。バタバタ倒れながらも、 残った兵士たちはひたひたと近づいてくる。そしてついに塹壕の上に姿を現わす。一進一退の戦いが等身大で描かれるだけに、かえって 恐怖の実感がある。 胸を衝かれるのは、砲弾の破裂でできた穴に飛び込んだ主人公のバウマーが、中に隠れていたフランス兵を銃剣で突き刺すエピソード だ。バウマーは敵兵が持っていた妻子の写真に打ちのめされ、「死ぬな」と懸命に世話をする。しかし、フランス兵が一晩中あげるうめき 声に耐え切れなくなると、今度は「早く死んでしまえ」と悪態をつく。ごくふつうの若者が極限状況で取ってしまう行動や心理が如実に現われていて、つくづく身につまされる。
バウマーが休暇で帰った故郷の町では、老教師はあいかわらず教壇で軍国的熱弁を振るい、老人たちはビールを飲みつつ好戦論をぶち 上げる。戦争の現実を知ってしまったバウマーは、そんな彼らを今は白々した視線で見つめるだけだ。老人が戦争を始めて、若者が戦場で死ぬ」という台詞が出てくるが、これ以上皮肉な言葉はないんじゃないかと思う。 有名なクライマックス・シーンは思っていたよりずっとあっさりしたものだった。バウマーが、銃撃の合間にふと訪れた静寂のなかで、 1匹の蝶が羽を休めているのに気づく。それに気を取られたのは、親友の古参兵カチンスキー(ルイス・ウォルハイム)を失った虚脱感も あったのか・・・。そんなわずかな心の隙を衝くように、蝶を捕まえようと身を乗り出したバウマーを狙撃兵の銃弾が襲うのだ。 所詮、兵士は戦場の消耗品に過ぎない。「戦線に異状なし」という、淡々とした電文が無常感を強める。声高に反戦を唱えているわけ ではないだけに、かえって戦争のむごさや虚しさが感じられる。古参兵カチンスキーを演じたルイス・ウォルハイムに強烈な印象を 受けた。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 当時弱冠26歳のスティーヴン・ソダーバーグの長編デビュー作。カンヌ国際映画祭で作品賞を獲得し、世界的巨匠の仲間入りを 果たした。 有能な弁護士ジョン(ピーター・ギャラガー)とその妻アン(アンディ・マクダウェル)は一見理想的な夫婦だが、ジョンとアンの妹 シンシア(ローラ・サン・ジャコモ)はひそかに不倫の関係を続けており、アンの身体は無意識に夫との交渉を拒んでいた。 ある日、町にジョンの大学時代の親友グレアム(ジェームズ・スペイダー)が越して来る。性的不能の彼は、女性が自らのセックスに ついて告白するビデオテープをコレクションしていた。グレアムから撮影に誘われ、アンは拒否するが、シンシアはジョンとの情事を 告白する。 アンがセラピストに「ゴミのことが気にかかる」と話す声に重ねて、グレアムが車を走らせる道路が筋になって流れる。町の公衆トイレでシャツを 着替えるグレアムと、意味のないことを話し続けるアン。一見何の脈絡もない2つが奇妙なアンサンブルを作るオープニングが秀逸だ。 女性の性告白のテープを収集するなんて、ずいぶん奇妙な性癖だ。夫とまるでタイプが違うグレアムに惹かれるものを感じていたアン が、気味悪くなって、近づかなくなるのはもっともだと思う。ところが、グレアムは無力なほどに静かで優しくて、青みがかった薄暮のような男なのだ。 彼が全裸に毛布を巻きつけて、ポツンと壁に寄りかかってテープを見ているシーンがある。かすかに頬が紅潮している。そこに ただようのはセックスの生々しさではなく、静かな孤独と充足だ。グレアムのような男性になら、女性は心の一番奥にしまいこんでいる 秘密を話したくなるかもしれな
いな・・・。下手をすると異常者っぽくなりかねない役柄を、透明感をもって演じたジェームス・スペイダー。この映画以来、彼に関心を持つようになった。 マクダウェルを見たのもこの映画が初めてだった。木々の葉を揺らして通り過ぎる風のよう。涼しげな佇まいに引かれる。 夫に触れられるのが嫌というアンだけど、ゴム手袋で水道の蛇口を洗う手つきは神経症的で、性的なフラストレーションを感じさせる。セラピーで 意味のない話を続けるところも。 アンもグレアムも通常のセックスはしたくなかったり、出来なかったりするけれど、セックスそのもを拒否しているわけではないんですね。セラピストの前で自然に頬を赤らめるマクダウェルがとてもきれい。こういうナチュラルさが彼女の魅力だなと、見るたびいつも思う。 アンの夫ジョンと妹シンシアは、性のモラルに囚われない点では似ているけれど、シンシアの放縦には堅苦しいアンに対するこれみよがしがある。性的に成熟しているようでいて、美しくて聡明な姉に対しては稚ない姉妹葛藤を抱いている。そのアンバランスに引かれる。 と同時に、自分のありどころをセックスで確かめている感じもある。グレアムに出会って一番内面に変化が起こったのは、アンよりも シンシアのほうかもしれない。 その点ジョンは、セックスとか不倫とかに自分の有能さを確認する古いタイプの男だ。嫉妬に駆られて、大学時代、グレアムの恋人を 奪ったと告げたりするけど、それが今のグレアムに何の意味も持たないこと気づかない。 ビデオテープという一見表層的な媒介物によって本当の自分が露わになる。テープを通してセックスの嘘と真実に迫った切り口が新鮮だ。玄関の階段に並んで腰を下ろしたアンとグレアムのツーショットが素敵。アンはセックスの自由さを取りもどしたかしら、グレアムは不能から解放 されたかしら、・・・いろんな思いが湧いた。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 敗戦直後の淡路島を舞台に、作詞家・阿久悠自身の少年時代を綴った同名小説を篠田正浩監督が映画化。 昭和20年9月。淡路島の国民学校の5年男組では、駒子先生(夏目 雅子)の指示に従って、三郎(大森 嘉之)、竜太(山内 圭哉) ら生徒たちは教科書の不適切な表現箇所を墨で黒く塗りつぶしていた。敗戦によって教育方針が変わったのだ。駒子先生は新婚早々の 夫・正夫(郷 ひろみ)の戦死の報に、婚家に留まるべきかどうか悩んでいた。 そんな頃、海軍提督だった父(伊丹 十三)と一緒に波多野武女(むめ)(佐倉 しおり)が転校してくる。 タイトルには “少年野球団” とあるけれど、子供たちと野球の関わりが十分に描かれてるとはいえない気がした。野球に対する 少年たちの熱気や、野球の魅力が少しも伝わってこない。 野球そのものではなく、戦後すぐの混乱期が徐々に収まっていく過程を描きたかったのだとしても、三郎・竜太・むめの3人を中心と した子供たちの世界と、駒子先生をめぐる夫と義弟(渡辺 謙)の三角関係、それに理髪店を営む女トメ(岩下 志麻)と愛人の旅役者の いきさつ、と話が3つに分散して、焦点がまとまらない印象を受けた。
どれもみなそれだけで1篇になりそうなほど面白いのだが、最初から最後までべったり描くので、半ば過ぎ辺りからだんだんだれて くる。駒子先生を核に据えてストーリーを一つの流れに絞るとか、子供をメインにするなら、大人のエピソードは子供の目に映った範囲にとどめるとかしたら、テンポもメリハリも出たんじゃないかと思う。 個人的には、理髪店の女主トメのエピソードが面白かった。旅役者の新太郎(沢 竜二)はすぐ出奔してしまう不実な男だが、トメは 心底惚れているらしい。帰ってくればけろりと迎え入れてヨリをもどす。時にはカツラをかぶって、舞台で新太郎の相方を勤めたりもする。シナを作ったり客に媚を売ったり、はすっ葉で気のいい女を、岩下志麻がいかにも楽しそうに演じている。 理髪店をバーに衣替えしてそれなりに繁盛していたのに、若いホステスに愛人をかっさらわれて、おまけに年長のホステスには「時代 が変わった。これからの水商売は東京か大阪じゃなきゃ」と引導を渡され、さすがのトメもがっくり。戦後を生き抜く女たちの逞しさと 脆さと変わり身の早さと・・・、もろもろが垣間見えて興味深かった。 駒子先生を演じた夏目雅子の芯の強さを秘めた清潔な美貌も印象に残った。私は彼女の映画はこれ1本しか見ていないが、資生堂CM のデビューが鮮烈だったせいか(日に焼けたタフなイメージだった)、繊細なはかなさは意外だった。彼女の早逝があらためて惜しまれる。 【◎○△×】6 |
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ストーリー うだつのあがらない中年芸能ライターの目を通して、セレブリティ(有名人)たちの内幕を描いた風刺コメディ。 中年芸能ライターのリー(ケネス・ブラナー)は高校の同窓会をきっかけに人生の再出発を誓い、16年間連れ添った妻ロビン(ジュ ディ・デイヴィス)と離婚し、やり手の編集者ボニー(ファムケ・ヤンセン)と同棲を始める。コツコツ書き上げた小説が酷評されると 脚本家に転向し、人気俳優など有名人に売り込みを図るが、彼らの我がままに振り回されるばかりだった。 一方、別れた妻のロビンは、偶然知り合ったテレビ・プロデューサー(ジョー・マンテーニャ)の才腕で人気レポーターにのし上がる ・・・。 女に振り回され、セレブリティ(有名人)に振り回される中年脚本家は、まさに監督ウディ・アレンの自画像だ。もったりしたケネス ・ブラナーは似ても似つかぬ外見だが、セコセコと落ち着かぬ神経症的なセリフ回しは見事にアレンそのもの。 アレンがもっと若ければ当然自分で演じていただろうが、『スコルピオンの恋まじない』(01)はヘレン・ハントとのカラミがかなり 苦しかった。若い(といってもブラナーも十分中年だが)俳優に任せ
たのは正解だったと思う。サイモン・リーは芸能記事で細々身を立てるライターだ。40歳の時、高校の同窓会でそれなりに中年の風格を身につけ始めたクラス メートたちを見て俄然焦りを感じる。 “なにもの” かになるべく一念発起し、16年連れ添った女房といきなり離婚。彼を励ますしっかり者の女編集者と同棲を始めたのは いいけれど、若い女優の卵(ウィノナ・ライダー)に目移りして、これまた突然別れを持ち出す始末だ。 書いた小説が酷評されればすぐめげて、脚本家に方向転換。自信作の売り込みにかかるが、人気俳優(レオナルド・ディカプリオ)や 有名モデル(シャーリズ・セロン)に体よくあしらわれるだけ。 気が付けば別れた女房は人気テレビレポーターに変身、セレブレティの仲間入りを果している。一方自分は相も変わらぬ売れない芸能 ライターだ。自虐的な中年男性像はいかにもアレン的でほろ苦い。 自分中心で大人になりきらないサイモン・リーと対照的なのが、元女房ロビンの再婚相手、テレビ・プロデューサーのトニーだ。離婚 の痛手でやつれたロビンを大きな愛情でくるみ、自信を持たせ、人気インタビュアーに育て上げる。 ロビンが彼の愛に応えるために、番組で知り合った高級娼婦に性技の手ほどきを受ける場面は爆笑もの。初めは神経質でヒステリック で閉口させられるが、だんだんひたすらなところがキュートに見えてくる。サイモンがいまだに自分の道が見つけられずにフラフラして いるのに比べて、彼女はしっかり幸せをつかんだようだ。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 第二次世界大戦下のジャワ島日本軍捕虜収容所を舞台に、極限状況に置かれた人間たちの愛憎を描いた、戦闘シーンが一切ない戦争 映画。 1942年、ジャワ島の日本軍捕虜収容長ヨノイ中尉(坂本 龍一)は、バタビアの軍法会議にかけられていたイギリス陸軍少佐 セリアズ(デヴィッド・ボウイ)に強く惹かれる。強引にセリアズを自分の収容所に連れて帰り、特別扱いするヨノイを軍曹のハラ (ビート たけし)はいぶかしがるが、そういうハラも日本語を流暢に操るイギリス軍中佐ロレンス(トム・コンティ)と親しくして いた。 脱走を企て牢に入れられたセリアズとロレンスは、クリスマスの日、酒に酔ったハラに釈放される。やがて、ヨノイは更迭され、 新しい所長はセリアズを首だけ出して生き埋めにする。ある夜、ヨノイがやって来てセリアズの髪を切り取っていく。 閲兵場に掘られた深い穴に、首だけ出して埋められたセリアズ。そのままで何日も過ぎ、もはや生死さえ定かでない。ある夜、月光の 中からヨノイが現われ、セリアズの金髪を一房切り取って持ち去る。 公開当時、この場面が強烈な印象だった。セリアズがもし、金髪でなかったなら、白人でなかったなら、ヨノイは彼に心を 奪われただろうか。ヨノイがそれまで自分のゲイ的な要素に気づかずに
いたとしても、それを目覚めさせたのが、同国人や同じ東洋人でなく、美しい西洋人だったことに、私は強い印象を受けたのだ。それは無惨に面変わりしてさえ、なお月光に輝くセリアズの金髪に、私自身が惹かれたことの表われかもしれない。 坂本龍一もデヴィッド・ボウイも(じっさいは知らないが)ゲイの濃密な匂いを発散させる人たちだ。しかし、この映画が公開当時、 ある種の衝撃を持って迎えられたのは、軍人同士の同性愛感情を描いているからというだけでなく、日本人の西洋に対する憧れに触れて いたからではないかと、今あらためて思う。 それは、ハラがクリスマスの日、ローレンスに「ふあーぜる・くりすます」と笑いかける場面でも感じられる。ハラは笑顔に人の 好さが表れるが、戦場の残虐行為に疑問を持たない粗野で無教養な男だ。軍隊に入れば腹いっぱい食べられる、軍隊は天国だと思って いる。 「死んで俘虜の辱めを受けず」という軍人精神を叩き込まれている彼が、酔っていたとはいえ、クリスマスを祝う言葉を捕虜にいった のだ。ローレンスとの間に友情が芽生えていたハラだが、彼の笑顔に西洋人への媚を感じてしまった私だった。 坂本龍一もビートたけしも、今見ると演技がヘタクソだなぁと思う。でもそれが、日本軍人の硬直した精神を表しているようで、 かえってぴったりしている。ローレンスに扮したトム・コンティの落ち着いた雰囲気もいい。 そしてやっぱりデヴィッド・ボウイ。白い蝶が一羽、埋められたセリアズの頭に止まり、そしてふわっと飛び立つ。彼の死を幻想的に 表現したこの場面はほんとうに美しい。 【◎○△×】7 |
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ストーリー “ブラッド・パック”と呼ばれる80年代後半から90年代を代表するヤング・スターが出演した青春群像映画。 大学を卒業した7人組は、ミュージシャン志望のビリー(ロブ・ロウ)、弁護士を目指すカービー(エミリオ・エステヴェス)、同棲 中のアレック(ジャド・ネルソン)とレズリー(アリー・シーディ)、上司と不倫中のジュールズ(デミ・ムーア)、福祉事務所に勤める ウェンディ(メア・ウィニンガム)、ジャーナリスト志望のケヴィン(アンドリュー・マッカーシー)など、それぞれの道を歩み始めて いた。 そんな中、ウェンディとドライブへ出かけたビリーが飲酒運転で事故を起こし、病院へ担ぎ込まれる。怪我は軽かったが、心配して 仲間が駆け付け、久しぶりに全員の顔がそろった。カービーはそこで女医となった憧れの先輩デール(アンディ・マクダウェル)と再会 し、恋をする。 タイトルは、嵐の大海で船乗りたち導くという “聖エルモの火” に由来するが、彼らが学生時代に集ったバーの名でもある。 大学で仲のよかった7人組グループのその後を描いているが、私は女性3人の三様の生きかたに興味を引かれた。 福祉事務所で働くウェンディはミュージシャンのビリーに一途な純愛を捧げている。彼は学生結婚した妻と子がいて、その上女たらし だ。そういうことをぜんぶ承知で彼一筋。といっても、あくまで2人の関係はプラトニックだ。ミュージシャンとして生きる覚悟を決めた ビリーがニューヨークに旅立つ時、2人は初めて結ばれる。 それもどちらかというと「しっかりね」というウェンディからの餞別なのだ。「ビリー以外は愛せない」というが、彼女の愛は母性愛に 近い。娘可愛さで過保護になる父親から離れて、最後はアパ
ートで一人暮らしを始める。見るからに野暮ったくてダサくて地味だけど、
しっかり自分を持ったウェンディに好感を持った。銀行員のジュールズ(デミ・ムーアはどう見てもお堅い銀行員には見えない。ま、いいでしょう)は、妻子ある上司との関係が破綻し、 勤めもクビになって、情緒不安に陥る。 母親の死後、父親は再婚を繰り返し、娘を顧みることがない。美人で華やかで、青春を楽しんでいるように見えたジュールズだけど、奔放な恋愛遍歴はじつは父親の愛を求める代償行為だったのだ。 でも、愛人や恋人を父親代わりにすることは出来ない。父親の愛に包まれて自立の道を歩み始めたウェンディと対照的に、ジュールズ が大人になるには、まだしばらく時間がかかりそうだ。 建築の勉強を続けるレズリーは、同棲中の恋人アレック、密かに彼女を愛し続けていたケヴィンの2人からプロポーズされるが、どちら にもノーと答える。これはなかなか面白い。なぜなら、女性は結婚したがるものだ、という男性の無意識の共通認識に対して、彼女は それは男性の幻想(あるいは思い上がり)にすぎないと、はっきり態度で示したからだ。 アレックやケヴィンと同じように、レズリーも自分の人生設計を持っている。仕事を生きがいにする女性は今は珍しくないけれど、 80年代ではずいぶん目新しかったんじゃないかな。アレックとの煮詰まった関係を、ケヴィンと関係することでうまく打開したレズリー は、なかなかどうして、したたかといえる。 男性陣のなかでは、弁護士志望のカービーが最後までフラフラして頼りない。大学の先輩の女医にストーカーまがいの恋をして、 一方的に振られて、少しは人生経験になったのかなぁ。 女医に扮したアンディ・マクダウェルは私の好きな女優の一人。成熟した女の匂いと、さっぱりした持ち味が、映画に落ち着きを与えていたと思う。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 戦国時代の茶人、千利休の没後400年を記念して作られた、井上靖原作の映画化。出演者が男優ばかりで、女優が1人も出ないこと が話題を呼んだ。ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。 利休(三船 敏郎)が太閤秀吉(芦田 伸介)の命で自刃して27年、愛弟子だった本覺坊(奥田 瑛二)は、利休の死の謎を解明しよう とする織田有楽斎(うらくさい)(萬屋 錦之介)の情熱に打たれる。彼は利休の晩年に催された深夜に及ぶ茶会 について話す。 客の1人は小田原落城の際に秀吉に反抗し切腹した山上宗二(上條 恒彦)だが、もう1人が分らない。有楽斎は、それは利休の死後 やはり自刃した武人・古田織部(おりべ)(加藤 剛)であることを見抜く。 千利休の死の謎を追うというミステリー仕立てになっているが、世俗の権力に屈服しようとしない芸術家の高い矜持が秀吉の怒りを 買った、という解釈はとくに目新しくはない。しかし、利休の愛弟子・本覺坊が在りし日の師の面影を偲びつつ、思い出を語っていく 構成が巧みで、ついつい引
き込まれる。本覺坊に扮する奥田瑛二がいい。雪深い山里離れた庵で、亡師と対話を交わしながら、修業の日々を送る茶人の様相がとてもよく出て いる。スキャンダラスな話題で世間を騒がせた人とは到底思えない。 一方、三船敏郎の利休は正直言って少々苦しい。映画を見ている時はそれなりに見えるのだが、日が経つほどに残るのは、やっぱり 無骨な武人の印象なのだ。 茶人だからといって、必ずしも笠智衆のような枯れた風貌・人柄とは限らない。天下の秀吉と対等に渡り合い、時には彼に屈辱の煮え湯 を飲ませたような男なら、案外、三船のようなエネルギッシュなパワーを発散していたかもしれない、と思ったりもするけれど・・・。 芦田伸介は秀吉を演じるにはハンサム過ぎるが、秀吉の驕(おご)り、時にひらめく卑屈、 磊落(らいらく)を装った劣等感などをじつに巧みに表現していたと思う。 とくに、茶室の腰戸が開くと、座っている秀吉が現われるシーンは印象的だ。時の権力者と言えども、一段低い室外に座して待ち、 茶室に入る時は腰を屈めた平伏姿になる。金銀や錦などきらびやかさを好む秀吉に対し、それは下品であると教え諭すような室内の質素 な構え。これらすべてが秀吉の神経を逆なでしたことだろう。 三船利休は力と力で対決するイメージだが、むしろじっさいの利休はそうした秀吉の内面にたぎる怒りを気づかぬフリでやり過ごし、 それが一層彼の劣等感を刺激して怒りを煽る、という構図だ
ったのではないかという気がする。萬屋錦之介が扮する信長の弟・織田有楽斎は興味深い人物だ。彼は主筋にありながら、おめおめと秀吉の天下の下で生きながらえて いる。その忸怩(じくじ)たる思いが、利休の死の真相を知りたいという欲求になっている。 病床の彼は、最後は自分自身が自刃するイメージの中で死を迎える。これも彼なりの意地の通し方だったのだろう。 本覺坊が目撃する深夜の茶事で、利休、山上宗二、古田織部の3人の間に死の盟約が出来ようだ。重要な場面らしいが、 “無” と “死” をめぐる彼らのやり取りは禅問答のようで難しすぎる。もう少し分りやすい描き方はできなかっただろうかと思う。 【◎○△×】7 |