| 【映画メモ】 こ で始まる映画 |
|
ストーリー 再会と別離を繰り返すイギリス人姉妹とフランス青年の愛の遍歴を描いている。『突然炎のごとく』の原作「ジュールとジム」を 書いたアンリ・ピエール・ロシェのベストセラー小説の映画化。日本初公開時にはカッとされた26分を含む完全版が1984年に上映 された。 フランス人青年クロード(ジャン=ピエール・レオ)は、母の旧友の娘でパリに遊びに来ていたアンヌ(キカ・マーカム)の誘いで イギリスを訪れ、彼女の妹ミュリエル(ステイシー・テンデター)と出会う。姉妹の家に滞在するうちに、クロードは美しい姉妹の どちらにも惹かれるが、目を病む勝気なミュリエルが自分を愛しているらしいと感じ、求婚する。 彼の母は反対するが、1年の猶予の後に気持ちが変わらなければ、という条件で認める。しかし、パリで美術評論家となったクロード は偶然再会したアンヌと結ばれるのだった。 フランス人青年のクロードは、イギリスを訪れて、妹娘ミュリエルに惹かれる。眼鏡越しの視線の鋭さや敏感な感受性が新鮮に思えた んだろうか。でも、海辺の道を自転車で走ったり、崖の上の庭で戯れる3人は、初々しいけど稚なくて、とても恋だの愛だのという感じ ではない。 ところが、クロードは姉娘アンヌの思わせぶりなそそのかしで、急にその気になってプロポーズする。彼の軽さや子どもっぽさが、 この辺りにとてもよく出ている。ミュリエルは思いがけない話に初めは拒否するが、クロードがあっさり引っ込むと、本当は自分も 愛していたような気になる。狼狽したり、急に恋心を抱いたり、ミュリエルもクロードに劣らぬ子どもっぽさだ。 結局1年後に気持ちが変わらなければ、という条件で周囲からOKが出るが、ここまでのいきさつを見ても、1年は持たないだろうな と予想がつく。ママゴトみたいなプロポーズ劇だったのだ。案の定、パリに戻ったクロードはたちまち気が変わり、破談の手紙を出す。
ミュリエルはといえば、イギリスの田舎で人付き合いもなく、自分の世界に閉じこもったまま、凝り固まったようにクロードを思い
続ける。ところで、姉娘アンヌはそうとう複雑な女性だ。初めてパリにやって来た時、彼女はクロードに惹かれたように見えるのだが、なぜか しきりに妹を会わせたがる。表向きは、目の病のために引きこもりがちの妹のため、という理由だが、彼女には、好きな人の気を引く ために、わざと違う人を引き合わせる、というような屈折した心理があったんじゃないのかなぁ。 だから、次にパリに出てきた時は、妹があれほど思いつめているのを知っていながら、あっさりクロードと関係を結んでしまった のだ。 といって彼と結婚しようというのでもない。彼女は男性遍歴の後、結婚をひかえて不治の病にかかっていることを知ると、婚約を破棄 し、かつての愛人、ディウルカに看取られて死んでいく。彼女なりに一本芯が通っているというか、けっこう自立した女性だったのかな と思う。 一方、ミュリエルとクロードは7年後に再会し、結ばれる。クロードは再び結婚を申し込むが、ミュリエルは今度も拒否する。クロー ドと結ばれることで過去の一切を終わらせ、新しい一歩を踏み出す、クロードとの関係はこの一度きりで終わり、という彼女の気持ちは、 パリで美術評論家として売れっ子になり、女性遍歴を繰り返していたクロードには分らないだろうなぁ、と思う。 始まりは恋ともいえない子どもっぽい想いだったが、この7年、ミュリエルは真剣に苦しんだのだろう。その苦悩が彼女を大人にした のだ。 さらに15年が経ち、ミュリエルは結婚し、たった一度の関係で身籠ったクロードの子を育て上げる。一方、クロードは昔アンヌと 訪れた美術館で、車の窓ガラスに映った自分を見て、「これが僕か? まるで老人のようだ」と呟く。クロードだけが変わらない。そし て取り残された。痛ましい気がしないでもないが、しょうがないのかな、とも思う。 クロードを中心に見れば、この物語はいつもたがいの想いがすれ違うじれったい恋物語だ。アンヌとミュリエルを中心に見れば、1人 の男を触媒として変化・成長していった女の物語だ。 どちらかといえば、私はふわふわと頼りないクロードよりも、自分なりの生きかたをしたアンヌとミュリエルのほうに魅力を感じる。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 台湾を舞台に、3姉妹が織りなす恋愛模様ややもめの父の心情が描かれるホームドラマ。 一流ホテルの名シェフだったチュ氏(ロン・ション)は、妻亡きあと、男手一つで3人の娘を育ててきた。日曜日には家族全員が 集まり、チュ氏の豪華な手料理を囲むのを一家の習慣にしているが、高校教師の長女(ヤン・クイメイ)、航空会社に勤める次女(ウー ・チェンリン)、大学生の3女(ワン・ユーウェン)の娘たちはこの晩餐が重荷になっている。 ある日曜日、味にうるさい次女チアチェンが父の味覚が衰えたと非難する。そんな折、隣人チンロン(シルヴィア・チャン)の母親で、 アメリカで次女と暮らしていた未亡人のリャンおばさん(グァ・アーレイ)が帰国する。 男やもめのチュは、日曜は家族そろって夕食を囲むのを決まりにしている。そこで早朝から準備にかかるのだが、なにしろ元は台北の 一流ホテルの料理長だ、手際のいいこと、料理の豪華なこと、見ているだけでお腹がぐーぐー言いそうになる。 中華料理というと、どれも油で炒めて甘い味付けで、と貧弱な先入観しか持ちあわていない私だが、チュの作る料理は、もち米やナツメ をいれた鍋物とか、ハマグリの塩焼きとか、エビをあしらった前菜とか、種類も彩りもびっくりするような豊富さだ。 トントン菜を刻む包丁の音、シュンシュン湯気を上げる鍋や釜、冒頭の一連のシーンはまさに至福の時間、じつに旨そう、いつまでも 見ていたい。 ところが、集まった3人の娘たちはこんな豪華な食事を前にして、ちっとも嬉しそうな顔をしない。箸もあんまり進まない。次女に いたっては、チュの舌(味覚)が落ちたとごたくを並べる始末だ。 妻亡きあと、男手一つで娘たちを育ててきたチュにとって、週に一度の会食は家族の絆を確かめる大事な行事なのだが、それも言って みれば親の一人よがり、娘たちは少々負担に感じている。それぞれに仕事や恋に忙しく、父親の習慣に付き合っている暇はないのだ。
長女は昔の失恋が尾を引いて、男っ気なしの高校教師。ところが学校に気になる新任コーチが現われた。匿名のラブレターも届き
始めた。航空会社に勤める次女は恋愛経験も豊富だ。現在、海外支社への栄転の話が出ている。本当はコックになりたかったが、「女には無理」 と父に反対されて諦めた。それがいまだにわだかまりになっている。 大学生の3女は友人の恋の相談に乗ったりして、一見のん気な学生生活だが・・・。 父のチュは次女にいわれるまでもなく味覚の衰えを感じている。頑固親父の彼は決してそれを認めないけれど、本当は自分でもなんと なく心細い。親友の現料理長に愚痴を言ったり慰めてもらったりしている。こうした家族のエピソードがほのぼのと味わい深く進行して いく。 面白いのは、一番気楽に見えた3女が、ある夜の会食で「結婚します」と爆弾宣言して、あっという間に出て行くところ。文字通り、 ほんとにその場で出ていく。何しろ外で彼氏が待ってるんだから、これは速い。家族も観客も驚いている暇がない。次に長女が同じ早業を 見せる。結局、一番早く家を出そうに見えた次女が残ってしまう。家族って案外こんなもんなのよね、とこの辺りは身につまされる展開 だ。 毎朝、部屋を順番に巡っては娘たちを起していた父親は、あいかわらず寝巻き姿で部屋を回る。後ろ姿が寂しいな・・・。と思わせて おいて、映画は最後にとんでもない大技(おおわざ)を披露する。これはもう、ほんとにしてやられました。 隣人のでしゃばりおばさんがショックのあまり失神するのが大笑い。 この人、前作『ウェディング・バンケット』では、本作の父親役のロン・ションといい味わいの夫婦を演じている。2作しか見てない けどうまい女優さんだなと思う。もちろんロン・ションは、娘想いだけど無骨で昔かたぎな父親として、見事な存在感を示している。 海外支社長として出発する次女が父のために料理を作り、そのスープを口にして、チュが味覚が戻ったことに気づくラストがいい。 それぞれの人生に踏み出す父と娘が、わだかまりを解き、家族の絆を結び直す。おいしい料理をたっぷり食べたような満足感の残る映画 です。 【◎○△×】8 |
|
ストーリー ダニー・ローマン(サミュエル・L・ジャクソン)は、シカゴ警察東地区で抜群の腕を持つプロの人質交渉人だ。障害基金の横領を 内偵していた長年の相棒が何者かに殺され、その容疑がダニーにかかる。 ダニーは内務捜査局のオフィスに乗り込み、人質を取って立てこもると、西地区の名うての交渉人クリス・セイビアン警部補(ケヴィン ・スペイシー)を交渉相手に指名し、真相を暴こうとする。 息をつかせぬ展開で、映画を見ている間はけっこう面白かったが、見終わって、だんだん物足りなさが出てきた。プロの交渉人2人が 主役ということから、2人の頭脳的な駆け引きを期待してしまったせいかもしれない。 オープニングで、ダニーが人質事件を解決する様子が出てくる。一応ここで、交渉人としての彼の腕の確かさを見せたのかなと思うが、 のべつ喋って犯人をイラつかせてるように見えて、あんまり凄腕っぽくない。 そこへ持って来て、自分が濡れ衣を着せられたと分かると、いきなり切れて、人質を取って立てこもってしまう。シカゴ警察NO.1と いわれる交渉人なら、もっと事態を見極めようとする冷静さが
あってもいいと思うんだけど・・・。という訳で、知的な展開を期待していた私としては、あっという間にふつうのアクション映画に突っ込んでしまって、見ている間中、 なんとなく腰の据わりが悪かった。 いかにもプロの交渉人らしかったのは、ケヴィン・スペイシーが扮するセイビアンだ。「真犯人はほかにいる。真相究明に協力して くれ」というダニーに、「お前が真犯人であろうとなかろうと興味はない。自分の仕事は人質を無事に救出することだ」と言う。これは かっこいい。プロであるならこれくらいの突き放した冷静さが欲しい。 で、興味はない、といいながらも、真犯人をあぶりだすために、ダニーに対してすら大はったりをかまし、強行突入を図るSWATを 牽制したり、FBIの介入を抑えたり、ラストのどんでん返しにもセイビアンらしさが発揮される。ただ全体として、真相解明のために彼が何をしたのか印象がはっきりしないのが、スペイシーがいいだけに、もったいないというか残念な気がする。 ダニーはセイビアンの仕掛けをすぐに見抜き(この辺はさすが切れ者!)、人質にした内務捜査局ニーバウムの女性助手やタレこみ屋 ルディの協力で、独自に事件の核心に近づいていくのだが、私としてはセイビアンとタッグを組んでの真相究明、という成り行きがもっとほしかったと思うわけです。 アクション映画としては、別働隊がビルに潜入したり、ヘリコプターまで出動して、ツボを押さえた作りだったと思う。 【◎○△×】6 |
|
ストーリー コーネル・ウールリッチの同名小説を原作とするサスペンス・ミステリー。ピエール・カルダンが衣装を担当したことでも話題を 呼んだ。 コート・ダジュールで独身生活を楽しむブリス(クロード・リッシュ)のもとにどこか陰のある妖艶な美女が訪れる。彼女はパーティ でにぎわうテラスにブリスを誘い出すと転落死させ、そのまま姿を消した。続いて銀行員のコラル(ミシェル・ブーケ)が、謎めいた 美女に青酸カリ入りの酒を飲まされ、悶死する。若手政治家モラン(ミシェル・ロンダール)は自宅の物入れで窒息死する。 ある日、コリー(ジャン=クロード・ブリアリ)は友人の画家フェルギュス(シャルル・デネ)を訪れ、モデルのジュリー(ジャンヌ・ モロー)を見て、どこかで会ったことがある、と不審を抱く・・・。 5人もの人間への復讐を、テンポよく畳み込むように描くのは至難のことなんだなぁ、と思った。出だしは好調だ。風に揺れる白い スカーフ、ベランダから身を乗り出す男を両手で突き落とす女、きらめく陽光。だれにも気づかれぬうちに、あっけないほど簡単に 行われた殺人。芸術的といっていいほど見事だ。 2つ目も深夜、突然現われたミステリアスな女、酒に混入させた毒薬、とそこそこ雰囲気が出ている。ところが、3番目辺りからもた つき出す。もしその家のリビングに物入れがなかったら、引き出しにガムテープが入ってなかったら、女はどうするつもりだったんだ ろう。
4番目もそうとう行き当たりばったりだ。5番目は、相手が刑務所にいるために自分もあえて捕まる根性はすごいが、その後はかなり
偶然性に頼った展開だ。こういう怨念が凝り固まったような復讐劇は、ぜったい外しがない確実性が基本じゃなかろうか。果たして計画通りにことが運ぶのか というスリル、思いがけず裏目に出た時のスリル、それぞれが映画の興趣を盛り上げるからだ。 復讐の動機や5人の男たちの関係が比較的早い段階で分ってしまうのも、興を削ぐ。「何の関連もなさそうなあの男たち、一体どう いうつながりがあるんだろう」「あの女に一体何をしたんだろう」という疑問を観客に持たせたまま話を引っ張るほうが、緊張は持続 すると思うのだ。 ジャンヌ・モローは当時40歳に手の届く年齢、ジュリーの役には少し無理があったのではないかなぁ。彼女の下がり気味の唇は、 若い頃は、若さゆえのやつれたアンニュイや色気を感じさせたが、年を取ってくるとただのしまりのなさに見えてくる。体型も崩れ 始めているし、妖艶な美女というには苦しいな、というのが率直なところ。 彼女があと10年若ければ、カラーでなくモノクロ映画だったなら、ジュリーの哀しみと怨みの陰影が出せたのではないかなぁ。 凍った心を覗かせる目の表情など、演技は危なげがないだけに、惜しい気がする。 【◎○△×】6 |
|
ストーリー タリバン政権崩壊後のアフガン。ノクレ(アゲレ・レザイ)は御者をしている保守的な父(アブドルガニ・ヨセフラジー)、乳飲み子 を抱えた兄嫁(マルズィエ・アミリ)との3人暮らし。兄はパキスタンに出稼ぎに行ったきり、行方不明だ。 毎日父親の馬車で送られ宗教学校に通うノクレだが、靴を履き替えた彼女の行く先は違う。女性に一般的な学問を教える普通学校だ。 そこでノクレは「大統領になって戦争をなくしたい」という大きな夢を持つようになる。やがてパキスタンから大量の避難民が帰還する ようになり、彼らに家を占領されたノクレ一家は住まいを転々とせざるを得なくなる。 イランの巨匠モフセン・マフバルバフの娘、サミラの監督作。タリバン政権崩壊後のアフガニスタンに生きる人々の暮らしを、女性の 目を通して描き、カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。 監督のサミラ・マフマルバフは、『パンと植木鉢』『ギャベ』などの作品のあるイランの巨匠モフセン・マフマルバフの娘だそうだ。 つまり本作は、同じイスラム教国とはいえ、若いイラン女性の目に映ったタリバン政権崩壊後のアフガニスタンを描いている、という ことになる。 ノクレが町を歩いていると、出会い頭に顔を合わせた男性が、急いで壁に向かって「罪を犯しました」と神に赦しを乞う。御者をして いるノクレの父は、若い女性客がブルカを上げて顔をさらす
と、「神への冒涜だ」と怒って途中で降ろしてしまう。タリバンの支配が
終わったとはいえ、イスラム教の女性抑圧の思想が急に変化するわけではない。一方で、ノクレが父に内緒で通う普通学校では、「女性だって大統領になれるはずだ」という新しい考えを持つ生徒たちがいて、 ノクレのその1人だ。彼女たちが交わす議論は、現代日本人から見れば恥ずかしいほど青臭いが、それだけに、アフガニスタンが今やっと 女性解放の緒についたばかりということがよく分かる。 「未来は大統領」の大志を抱くノクレを笑いもせず励ます詩人の男性(ラジ・モヘビ)も登場して、新旧の価値観が混乱する中に あっても、新しい方向へ進み始めているのかな、とつい淡い期待を抱きかける。 ところが、映画は後半、現実はそう簡単に変わるものではないことを明らかにし始める。ノクレの家族は、母は亡くなり、一家の稼ぎ 手の兄はパキスタンに出稼ぎに行ったまま行方不明、乳飲み子を抱えた兄嫁は乳が出なくなっている。幼い甥は日に日に弱り、兄嫁は ノクレに「どうしたらい
い?」と始終問いかける。ノクレもどうしたらいいのか分からない。食べ物に窮乏し、飲み水さえ事欠く日々だ。攻撃を受けて廃墟と化した町はいまだ瓦礫のまま。パキスタンからの大量の帰還民に ねぐらを提供したために、ノクレたちはかえって住まいを失い、馬車で放浪しなければならなくなる。 映画が進むほどに、こうした現実の重さが真綿で締め上げるように迫ってくる。タイトルの “午後の五時” とは『ロルカ、暗殺の 丘』(97)でも暗唱される、スペインの国民的詩人、ガルシア・ロルカの詩に出てくる言葉だ。“夕暮れの薄暗い影さす 午後の五時 ・・・/ ・・・残るは死 死だけだった・・・”。なんて陰鬱な語句だろう。この言葉のように、ノクレの周囲にはいくつものつらい 死が訪れる。 新生アフガニスタンへの予感と、厳しい現実をともに視野に入れた作風は、なかなか魅力的。ただ、その2つのこなれ具合が足りない というか、分離した印象が残るのが惜しい。美しく印象深い映像が随所に織り込まれ、将来性のある映画作家だという感じを受けた。 【◎○△×】6 |
|
ストーリー トム・クルーズが冷徹な殺し屋を演じたクライム・アクション。偶然プロの殺し屋を乗せてしまったタクシー運転手の悪夢のような 一夜を描いている。 タクシー運転手のマックス(ジェイミー・フォックス)はロサンゼルス空港で、地味な中年の客、ヴィンセント(クルーズ)を乗せる。 目的の建物に着くと、ヴィンセントは多額のチップと引き換えに、一晩専属ドライバーになってほしいという。求めに応じてマックスが 建物の前で待っていると、タクシーの上に男の死体が落ちてくる。ヴィンセントは、麻薬組織に雇われ、一晩のうちに5人の重要証人を 殺そうとする殺し屋だったのだ。 ヴィンセントに銃で脅されて、マックスは次の目的地へ向かうが・・・。 このカタカナ・タイトルどうにかならないかなぁ〜。映像もスタイリッシュだし、ストーリーも私にはけっこう面白かったけど、 タイトルだけ見たら、どういう映画なのか全然イメージが湧かない。“collateral” でふつうに辞書引くと「付随する」 とか「補足する」と出てくる。これが「巻き添え」っていう意
味だなんて分かる人いるのかなぁ。最近は原題を日本語発音のカタカナにした邦題がふつうになってしまった。タイトルに引かれて見に行くことの多い私としては、 「もうちょっと考えてほしいぃ〜」と心底思うことがある。 ところで、《トム・クルーズ初の汚れ役》 が謳い文句の映画だが、私は彼が演じるヴィンセントってそんなに悪いヤツという感じがしなかった。 たしかに情け無用でターゲットを殺していくし、これまで彼が演じてきたナイスガイじゃない。でもヴィンセントには、過去になにかとてつもない悲しみ(とか絶望)を経験して、そのために心が死んでしまった、という感じがある。そういう翳や深さを感じさせるのは、やっぱりクルーズの役者としての力なんだろうと思う。 ただ、つくづく歳を取らない人だな、クルーズって。童顔というのともちょっと違う。おもちゃのロボットみたいにつるりとした顔 なのだ。男優の場合、老けないっていうのは必ずしもメリットとはいえないんじゃないかなぁ。年齢に合った風格や貫禄が出てこなくて、 そうこうしている内に “とっちゃん坊や” になってしまう。 本作のクルーズは髪をシルバーに染めて、スーツもグレーの地味なものを着て、痛々しいくらいに中年っぽさを出そうとしているけど、 成功しているかどうかはかなり微妙だ。彼の今後の課題は
案外この辺にあるかもしれないな・・・。しかし、アクションの切れのよさはさすが。与えられた仕事を冷徹にこなしていく機械のような身のこなし。任務を完遂するための あくなき執念。 相手が殺される理由なんか知る必要はない。「仕事」を果たすことだけが生きる目的で、完璧に果たせなかったら、それが命運の尽きる時。 「ロスでは地下鉄で人が死んでもだれも気にしない」、そういってガクリと息絶えるヴィンセントから、孤独が霧のように立ちのぼる。 クルーズの演じる殺し屋はなかなか魅力的だ。 偶々彼を乗せたばかりに散々な目に会うタクシー・ドライバーを演じているのは、『RAY/レイ』(04)でアカデミー主演男優賞を 受賞したジェイミー・フォックス。受賞後の映画初仕事だけあって溌剌とした演技ぶり。クルーズと互角の存在感を示していた。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 幼い頃から宇宙に興味を抱いていたエリー(ジョディ・フォスター)は、天文学者となり、地球外知的生命の存在を研究していた。 ある夜、エリーたち研究グループは未知の電波をキャッチする。
それは恒星ベガ付近から地球に向けて発せられもので、宇宙間移動装置
(ポッド)の設計図が信号化されて収められていた。ポッドの建造が正式に決定し、乗員の選考が行われることなり、エリーも志願する。しかし、査問会はエリーの「神は人間が生み出した 観念」という信仰心のなさを理由に、彼女の上司・科学者ドラムリン(トム・スケリット)を選ぶ。 地球外生命と人類の接触を描いたカール・セーガンのベストセラーを映画化したSFドラマ。ジョディ・フォスターが演じる天文学者 エリーの姿を通し、科学と宗教、頭脳と心、アイデンティティの探求といったテーマを追求し、SF映画に新しい意味づけを投げかけた。 中学生頃までは、生命体の存在する星が地球以外にもあるはずだ、とシンプルに信じていた。何十億か何百億か知らないが、気が遠く なるほどの星が全宇宙に存在するのだ、その中でたった1つ地球にしか生命が存在しないなんて考えられない、と思ったのだ。 さすがに、今はもうそんなことは思わない。何も根拠はないけれど、何百億分の一というような偶然が重なり合って、いはばある種の “奇跡” が起こって生まれたのが地球なのだと思っている。
丁度、人間(に限らずすべての生物にいえることだが)の身体が、どんな
ハイテクも及ばない驚くほどの精密さで作られていて、ごく当たり前のように暮らしているこの命は本当は一種の奇跡なのだ、と思う
ようになったのと同じに。とはいえ、それでもひょっとして・・・と、地球外の知的生命体の存在を夢物語として楽しみたい気持ちはやはり捨てられない。 大学時代、一般教養で何のはずみか天文物理をちょこっと習ったことがある。その時に、細胞を分子・中子・原子とどんどんミクロに見て いくと、そこに展開される世界は宇宙と同じ構造をしているのだと知って、不思議な気持ちになったことがある。 最もミクロな世界は最もマクロな世界に通じている。『ミクロの決死圏』じゃないけれど、どんどん微小になって細胞の最も小さな核の 中に際限なく入っていくと、いつかパッと宇宙の彼方に突き抜けている・・・そんな夢想を抱いたりしたものだ。 エリーの乗ったポッドが、メビウスの輪のような巨大マシンの回転が速まるにつれて足元から透明になり、いつしか光のワープホールに 吸い込まれて宇宙の彼方に運ばれていくさまは、子供時代の空想を具体的に表わしたらこんな風だったんだろうか、と興奮を感じた。 こうしてたどり着いた恒星ベガの大気はねっとりと重く、手を伸ばすとゼリーのように揺れる。それなのにエリーの髪は海の風にさや さやと流れる。大気の密度や濃度が違う星ならこんなことも起こるかも・・・、と思いながら、この不思議な感覚は夢の中にいるようでも ある。
ここでエリーは、亡くなった父の姿をした知性体から「私たちは1人ではない」というメッセージを受け取る。「うん、そうか・・・」としばし熱い思いが胸に湧いた。 もはや地球以外に生命体が存在するとは思わないけれど、地球上の私たちが1人で生きているのでないのは真実だ。こんな大事なことをふだんはすっかり忘れている。 エリーが宇宙に興味を持つようになったきっかけは、私たちは「なぜここにいるのか」「ここで何をしているのか」を知りたい、という ことだった。今風にいえば “アイデンティティ” の問題だ。 他者(それは人によって、いろんな内容やレベルがあるけれど)とのつながりの中で、人は生き、生かされている。エリーの求める 答は、案外こんな身近なところにあるのかもしれない、とふっと思った。 証拠のないものは信じない、というガチガチの科学信奉者だったエリーが、宇宙体験によって科学の呪縛から解放されるのが印象的 だった。子供の頃に思い描いた空想をさまざまに思い出しながら、2時間半という長尺を引き込まれるように見た。 【◎○△×】7 |