| 【映画メモ】 か で始まる映画 |
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ストーリー 今世紀初頭のイングランド南西部、コーンウォールの海辺の村を舞台に、孤独に生きる女性と難破船からただ一人生き残った東欧 移民の愛の物語。イギリスの文豪ジョセフ ・コンラッドの短編「エイミー・フォスター」の映画化。 両親から疎まれ愛を知らずに育ったエイミー(レイチェル・ワイズ)は、人に心を閉ざし、村では変わり者と思われていた。エミーに とってのだた1つの慰めは、海を眺めることと海からの贈り物ー石やガラスの破片などの漂着物ーを集めることだった。 ある日この地方を襲った大嵐で、東ヨーロッパから新天地アメリカに移民を運ぶ船が難破した。乗員はすべて死亡したと思われて いたが、ただ一人、ウクライナの青年ヤンコ(ヴァンサン・ペレーズ)が生き残っていた。ひもじさに耐えかね、助けを求めるヤンコ だったが、村の人々は奇妙な言葉をしゃべる彼を恐れ、忌避するだけだった。唯一救いの手を差し延べたのはエミーだった。 やがて、2人の間には愛が芽生え、結婚し、子供も生まれた。ヤンコの雇い主父娘(ジョス・アックランド、キャシー・ベイツ)だけ が理解者だったが、それでも2人は幸せだった。しかし、ある時ヤンコは病いに倒れる。 エイミーが海を見晴らせる崖にただ1人立つ姿がとても印象的だ。北海の荒れた波が大きうねり、強風を吹きつける。その中のなかで 立ち尽くすエイミーのシルエットは、遠めには耐えがたいほど孤独に見えるけれど、近づくとそうでないのが分る。海を見つめる彼女の 顔は微笑を浮かべているからだ。 エイミーは不幸な人だと思う。自分には責任のない出生の秘密のために両親に疎まれ、心を閉ざして口を利かない彼女を村人がさらに 「変人だ」と厭う。だれにも理解されず、理解を求めず、孤立して生きてきた。荒々しい海と、海が運んでくる宝物(漂流物)だけが 彼女の心の慰めだ。船
が遭難して村に流れ着いたヤンコは、エイミーにとってまさに “海からの贈り物” だったのだ。初めてヤンコを見た時、農家の主婦は「野獣のような男がいる」と恐怖に囚われるが、エイミーはまったく動じない。外来者に対して 恐怖・猜疑を抱かなかったのは、エイミー自身が村で疎外された存在だったからだと思う。 村人たちの嘲りのなかで2人が必死に愛をはぐくんでいく様子は、胸が痛くなるほど切なく美しい。ヤンコは懸命に働いた賃金で、上着 とエイミーへのプレゼントのリボンを買う。海辺のデート、そして結婚式、いつもヤンコは一張羅のその上着を着、エイミーは首にリボン を巻く。慎ましさからこぼれ出る喜び。それを見ると、いつも私は胸が熱くなってしまうのだ。 「(これほど努力しているのに)なぜ憎まれるのだ」というヤンコの問いに、ケネディ医師(イアン・マッケラン)が「君が遠い国から 来たからだ」と答える場面がある。「君(と村人)たちの間には “越えられぬ海” がある」と。 異質であるゆえに拒否され偏見の目を向けられる。映画の中で繰り返し語られるのは、この “異質に対する不寛容” だ。これは今の 日本に置き換えても、あまり変わらないような気がする。ヤンコの雇い主・スウォファー父娘が2人の味方であることだけが救いだ。 レイチェル・ワイズは好みのタイプの女優ではないのだが、映画によってはドキッとするほど心に残る時がある。内に激しい思いを 秘めながら、人には氷のように心を閉ざす女性を演じる時だ。『I Want You』(98)のヒロイン、そして本作のエイミー。 抑えた演技で深々とした印象を残す。 ヤンコを演じたヴァンサン・ペレーズも、特異な風貌がそれだけで “異質” であることを感じさせて適役だった。 孤独な2つの心があい寄り、幸せをつかもうとする切ないラブストーリー。ただ、エイミーを拒否し続けていたケネディ医師が彼女と 和解するまでが、少々はしょった感じがするのが残念。誤解を解いた医師が「許してくれるか?」と問うた時、エイミーは「だれが私を 許すの?」と言う。すると医師は「私が許そう、彼の代わりに」と答える。 この時エイミーは初めて孤独の扉を開けて、外に出たのではないのかと思う。受け入れられ、心を開くことの安らぎ。とても大事な 場面であり、台詞だ。それだけに、このプロセスにもう少し説得力があればなぁと思った。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 黒澤明監督の戦国時代を舞台にした痛快時代劇。 秋月家は隣国の山名家との戦いに敗れ、世継ぎの雪姫(上原 美佐)とともに隠し砦に立て籠った。姫の護衛を勤める真壁六郎太 (三船 敏郎)は、隠し軍資金200貫を取り出して、同盟国の早川領への脱出を企てる。 一方、百姓の又七(藤原 釜足)、太平(千秋 実)は戦さで一儲けのつもりが当てが外れ、国に帰る途中、偶然に涸れ沢で金の延べ棒を 発見する。大喜びの2人に出くわした六郎太は、2人を敵陣突破に利用することを思いつく。 千秋実、藤原釜足演じる凸凹コンビが、『スターウォーズ』のC-3POとR2-D2のモデルとなったことはあまりにも有名。 千秋実と藤原釜足の百姓コンビがなんとも面白い。仲がいいくせに、欲の皮を突っ張らせてすぐ喧嘩を始める。「これからは仲良く すべぇな」と「この欲張りこきめ!」の繰り返しに吹きだしそうになった。 すぐうろたえて右往左往し、窮地に陥っては真壁六郎太に助けを求め、そのくせちっとも懲り
ず、すぐまた黄金をちょろまかそうとする。そのたびに2人を追いかけ、連れ戻す六郎太はまるで幼稚園の先生、剛勇で鳴らす彼も形無しだ。雪姫が耳が聞こえないと勘違いして、馬に水を飲ませに行くのを身ぶり手ぶりでやって見せるシーン、抱腹絶倒とはまさにこのことだ。 終盤、口が利けないはずの雪姫が、一声、「さらばじゃ」と声をかけた時の2人のおかしさといったら!! 「?」「・・・・・・・」「なにか言ったか?」「んにゃ」。ジョージ・ルーカスがこのコンビに惚れ込んだのも無理はない。 ここに三船敏郎の一見不器用な演技が入ってくることで、ぐっとしまったダイナミックさが出てくる。とくに、三船が疾走する馬上で 刀を振り上げ、敵の武将を追い掛けるシーンの流麗ともいえる爽快感! バックに木立ちが風を切るように流れ、馬のひづめが力強く 地面を蹴る。滅多にお目にかかれない名場面だと思う。 陣幕を挟んで敵将・田所兵衛(藤田 進)と対峙し、長槍で陣幕をバサリバサリと切り裂きながら戦うシーンも、(陣幕に隠れて)見え ない相手と戦うという設定がいかにも新鮮だ。 本作では千秋実・藤原釜足コンビにお株を奪われがちな三船敏郎だが、こうした見せ場では彼ならではの豪快さが味わえ、さすがに 存在感がある。この映画はやはり、〔凸凹2〕 + 〔豪胆1〕 のトリオで初めて成り立つ映画だなと思う。 ラスト、馬を走らせながら下女を馬上にぽ〜んと引っ張りあげるのもかっこよかった。
ただ、雪姫役の上原美佐は個人的にはかなり微妙。凛とした美しさがあるが、声が悪いし、演技といえば “棒を手に持ち仁王 立ち” 一つなのが気になる。もっとも、君主としての信念を披瀝する牢内のシーンは、演技の硬さがかえって妙な迫力になっていたとは 思うけど。 それにしてもちょっと長いなぁ。せめて2時間以内に収めてほしかったなぁ。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 『友だちのうちはどこ?』『桜桃の味』のアッバス・キアロスタミ監督が、葬式にまつわる珍しい風習を取材するため小さな山村を 訪れたTVクルーが、老女が死ぬのを待つ十数日間の姿をユーモラスに描いている。ヴェネチア国際映画祭で審査員グランプリを受賞。 テヘランから700キロ離れたクルドの村“シアダレ”へ、珍しい葬式の儀式があると聞いてTVクルーの一行がやって来た。 ところが今にも死にそうだと聞いていた老女はなかなか死なず、2週間が経ってしまう。ディレクターのベーザードは、何もすることが なくイライラを募らせる同行スタッフと、早く戻れと急かすテヘランの上司に挟まれ、ストレスが高まるばかり。 携帯電話をかけるため一々車で丘の上まで出かけ、穴から一向姿を見せない墓掘り人夫と話し、案内役をする老女の孫の少年と親しく なり・・・いつの間にか彼にも奇妙な日常生活が形成されていく。 映像の色と構図の美しさに何度も画面を止めたい誘惑に駆られた。山肌に貼り付いた村の佇まいそのものがまず美しい。 キアロスタミ監督の特徴ともいえる長い長いジグザグ道、(“シアダレ”という村の名前は「黒い谷」という意味だそうだが)濃い光 と影に揺れる「白い」家々、間をうねる細い路地、赤や青に塗った戸口、土壁を背に日永一日座っている黒いクルド衣装の老女たち、 上から覗き込んだ構図の家屋や石段の入り組んだ眺め、そこに暮す人々の表情仕草、丘陵を覆う豊かな草が黄色い波のように揺れるさま、 ・・・1つ1つが写真を趣味にしている私にはかぶり付きたいくらいに美しい。 死ぬのを待たれている百歳の老女がちっとも死なない、という設定もブラックで可笑しいが、ディレクターのベーザードが、村の案内役の 少年やちっとも顔を見せない井戸掘りと交わすやり取り、村人たちにとっては当たり前の生活を、都会からやってきたTVクルーが興味 津々で眺める視線などが、妙にユーモラスで楽しい。 ドラマというよりドキュメンタリー・タッチの映画だが、大したヤマ場もなく淡々と続くそんな映像を見ていると、のんびりと 心が伸び広がるような気持ちになる。そしていつの間にか幸せな気分になっている。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 終戦後、時子(田中 絹代)は幼い息子の浩を抱え、まだ復員しない夫・修一(佐野 周二)の帰りを待っていた。細々手内職をしたり、 持っている着物を友達の秋子(三宅 邦子)に売ってもらったりして、暮らしを立てていたが、ある日浩が大腸カタルに罹る。病院費用 がない時子は思い悩んだ挙句、秋子と同じアパートの住人・織江(村田 知英子)の紹介で、一晩だけ売春の斡旋を受けてしまう。 浩がぶじ退院した日、修一が復員する。再会の喜びも束の間、浩の入院の話から修一は時子の態度に不審を抱き、金の工面をどうしたの かと問い詰める。事実を知った修一は会社に復帰後、同僚・佐竹(笠 智衆)にたしなめられつつも時子を許すことが出来ず、苦しむの だった。 タイトルに惹かれて見たけれど、映画としてとくに破綻はないものの、内容に共感できなかった。自分の出征中に幼い息子が入院する ほどの病気になったのだ。一人残された妻はさぞ不安で心細かっただろうと心配するよりも、いきなり、金をどう工面したのか、と険し い声で詰問する。その夫の態度に驚いた。 田中絹代や佐野周二はちょうど私の親の世代に当たるが、昭和20年代の男ってこんなだった んだろうか。その後も、たった一度とはいえ身体を売らなければならなかった妻の苦しさや辛さを思いやるどころか、許すの許さない のとウジウジする。こんな男でも、夫として縋っていくしかなかったのだなぁと、当時の女性の哀れさに思いを馳せてしまった。 【◎○△×】5 |
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ストーリー 遺伝子工学が極度に発展した近未来を舞台にしたサスペンスタッチのSFドラマ。この社会では新生児は受精段階で遺伝子操作され、 遺伝子的に優秀な人材のみが選別されるシステムになっていた。 ヴィンセント(イーサン・ホーク)は両親の愛の結晶として生れたが、遺伝子操作されていなかった。誕生時の検査で心臓疾患の可能 性があり余命30年と診断されたことから、高等教育を受けるチャンスも奪われ、希望のない生活を余儀なくされていた。 やがて、宇宙飛行士の施設“ガタカ”の清掃業に就いたヴィンセントは、優秀な遺伝子を持ちながら事故のため身障者となった 元エリート、ジェローム・ユージーン・モロー(ジュ−ド・ロウ)と知り合い、パートナー契約を結ぶ。 彼の生活を保証することを見返りに、血液などのサンプルを提供してもらい、ジェロームになりすましたヴィンセントは、“ガタカ” に潜り込みエリートの階段を上り始める。数年後、ヴィンセントは念願の宇宙飛行士に選ばれるが、彼の正体を疑っていた上司が殺害 される・・・。 静かで優しくて、そして悲しい映画だ。登場人物は、ヴィンセントを追う刑事でさえも、一人として悪人はいない。差別社会で優者の 側に身を置くものですら、みな遺伝子操作された中で生きることの痛みを感じているかのようだ。 ヴィンセントは念願の飛行士として宇宙へ飛び立つ時、「空に帰る」と表現する。それは私にはまるで、「死んで星になる」という ように聞こえた。カプセルに乗り込む時、彼は大仰な宇宙服でなく普通の背広を着ている。同乗の飛行士もみなバスにでも乗り合わせた 普通の人に見える。だが、みんなどこか悲しそうだ。従来の宇宙飛行の持つ明るい未来志向のイメージとは異なった、静かな悲しみが 画面に漂っている。 ジェロームが大きなガス暖炉に入って自ら点火するシーンが、宇宙ロケットの発射シーンと交互に現われることも、悲しみの色を濃く する。 もともとジェロームは遺伝子操作を受けた超エリートだったのだ。それが自殺を企て、失敗して車椅子の身になった。彼はなぜ死のう としたのだろう。そして、パートナー契約を結んだヴィンセントとの共同生活は、彼に何をもたらしたのだろう。映画はそれについて 何も語らないけれど、私には、ラストシーンのジェロームの自死は、「空に帰った」ヴィンセントの後を追ったものに思えてならない。 遺伝子操作社会なんて一見荒唐無稽に見えるけど、過去にナチス・ドイツが優生学に基いた人種選別を行おうとしたという現実がある。 (ちなみに、彼らの考えでは有色人種は劣等であり、ーーつまり私たち日本人も彼らによれば、抹殺されるべき存在に分類される。) 現在でも、身体的・能力的に劣ったものは、社会に役に立たない存在として排除しようとする思想は根強くある。 この映画は、そのような社会が実際に到来した時、たとえ選別された優者の側に立ったとしても、人は決して幸福になれないだろ、と 語りかけている気がする。なぜなら、私たち人間は“心”という決して操作できないものを持っているのだから。 【◎○△×】8 |
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ストーリー ルイス・ブニュエル監督が『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーヴと再びコンビを組み、数奇な運命に弄ばれた薄幸の美女に潜む女の魔性を 描いた文芸ドラマ。 1920年代のスペイン、16歳のトリスターナ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は母と死に別れ、母の知人の老没落貴族ドン・ロペ (フェルナンド・レイ)に引き取られる。「人間で一番幸福なのは働かないこと」といい放つドンは、先祖の財産を食いつぶすだけの 放蕩貴族だった。やがてドンは彼女を女として求めるようになり、トリスターナもそれに応ずる。 ある日、散歩に出たトリスターナは、僧院の庭で絵を描く若い画家オラーシオ(フランコ・ネロ)と出会い、恋に落ちる。2人は 駆け落ちするが、2年後、トリスターナは重病に陥り、オラーシオと別れてドンの元にもどる。そして、手術で片脚を切断した トリスターナは、ドンの願いをいれて、彼と愛のない結婚をするのだった。 女って怖いなぁ、って自分もその一人でありながら思ってしまった。初めに登場するトリスターナは可憐で無垢な乙女だ。邸の召使い サトゥルナ(ロラ・ガオス)の息子たちと鐘楼で遊ぶ姿など無邪気そのもの。 でもその直後に、トリスターナはドン・ロペの首が鐘になって揺れる悪夢を見る。女性ならだれでも一度は通る“少女”から“女”に なることへ無意識の怖れや不安、それがドン・ロペによってなされることへの恐怖が示されているようで、ドキッとする場面だ。 サトゥルナの口のきけない息子に、2階の窓から、片脚を太腿から切断した裸身をみせる場面は、ほんとうに怖い。初めは好色な好奇心で ガウンを脱ぐよう誘った息子が、怖れで顔を歪ませて庭木の中に逃げ込む。 彼が恐怖したのは片脚のない彼女の姿ではなく、そういう裸身をあえて晒すトリスターナの心根に対してではなかったか。そんな彼の 様子を、トリスターナは目に蔑みを浮かべ、薄く笑いながら見おろすのだ。表情の乏しいドヌーヴの演技がここで突然悪魔的な色を帯びる。 トリスターナはドン・ロペとの歪んだ関係から一旦は逃げ出したのに、なぜまた彼の元に戻ったのだろう。ドン・ロペも「必ずもどる」 と、それを確信していた。2人の間には、オラーシオの若い健康な愛では太刀打ち出来ない、性愛を超えた愛憎の業の深さのようなもの が感じられる。その呪縛から逃れられないと悟った時に、トリスターナは本当の悪女になったのではなかろうか。 窓を開けて、風に舞う夜の雪を眺めながら、ドン・ロペを見殺しにするトリスターナ。その姿は女の魔性を示して余りある。愛のない 結婚をする彼女の絶望の深さと、それでも彼女に溺れずにいられないドン・ロペの哀れさが胸を覆い、改めて怖い物語だなぁと思った。 【◎○△×】8 |
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ストーリー フランスの女流作家フランソワーズ・サガンが18歳の時に書いた処女小説をもとに、早熟な少女の父の恋人への嫉妬を描いた 叙情的なドラマ。 17歳の少女セシール(ジーン・セバーグ)は海を見下ろす丘の別荘で、父レイモン(デヴィッド・ニーヴン)とその若い愛人エルザ (ミレーヌ・ドモンジョ)とともにバカンスを過ごしていた。父が亡き母の友人アンヌ(デボラ・カー)を別荘に招いたことから、3人の 関係はギクシャクし始める。父が美しく優雅なアンヌと結婚すると言い出したのだ。 未来の義母として自分にうるさく干渉をするアンヌに反抗して、セシールはエルザと共謀して父とアンヌを別れさせようと計画する。 レイモンとエルザの仲を見せつけられたアンヌは、絶望から運転を誤って崖から転落死してしまう。1年前の夏の出来事だった・・・。 セバーグのボーイッシュなヘアスタイルが、当時セシール・カットの流行を生んだ。 デボラ・カー演ずるアンヌは、美しいけれど、固真面目で、付き合ったら退屈しそうな感じ。そう魅力的な女性とは思えない のだが、原作ではどう描かれているのだろう。当時フランソワーズ・サガンの人気はすごかったけど、なんとなく敬遠して一冊も 読んでいない。 思春期の少女の心理を扱ったテーマは面白いと思うのだが、あっさりと毒のない描き方は少女趣味的な感傷に 留まっている感じで、感銘は薄い。おきゃんなミレーヌ・ドモンジョを久しぶりに見られたのが、懐かしかった。 【◎○△×】6 |
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ストーリー “現代登山の父”と呼ばれるラインハルト・メスナー原案による、前人未踏の秘峰に挑む男たちの死闘を描いた人間ドラマ。監督は 『フィツカラルド』『アギーレ/神の怒り』のヴェルナー・ヘルツォーク。 南米パタゴニア、前人未踏のセロトレ山に、トップ登山家の ロッチャ(ヴィットリオ・メッツォジョルノ)とロック・クライミング世界選手権のチャンピオン、マーチン(ステファン・グロヴァッ ツ)の2人の男が挑むことになる。 その中継を試みるTVプロデューサー、アイヴァン(ドナルド・サザーランド)らも含めた一行は キャンプを張るが、1ケ月余の悪天候と、2度の登頂失敗から慎重になるロッチャに痺れを切らしたマーチンは、ロッチャのパートナ ー、ハンスと一緒に独断で出発してしまう。 もどってきたマーチンは登頂の成功を主張するが、雪崩に遭ってハンスは不帰の人となり、証拠の写真もない。登山隊は解散するが、 パタゴニアに留まったロッチャは、女優メイ・ウェストに憧れる“4本指”の謎の男(ブラッド・ドゥーリフ)に出会う。 一方、マーチンは一躍時代の寵児となり、富と名誉と恋を手に入れる。しかし、彼の登頂成功を疑う声も多く、2人の登山家は再び 中継テレビの見守る中、セロトレ山に挑むことになる。 マーチンがロック・クライミング撮影のために、救い綱なしで、棚のように張り出した岩の下側を指だけで張り付いて渡っていく シーンは、怖くて、足指の先までじんじんしてしまった。セロトレ山を登る時も、彼は手袋を外してしまう。凍傷で指を失ったという 謎の“4本指”の男のことが頭をチラチラして、見ていられない気分。 嵐が襲って来ると、熟練の登山家ロッチャは垂直に近い岩壁に雪穴を掘って避難するが、マーチンは相変わらず素手で登頂を続ける。 無茶だ!と叫びたくなる。案の定、あと一歩のところでマーチンは墜落する。 山頂に立ったロッチャを待っていたのは、メイ・ウェストの写真を貼り付けて雪に突き立てられたピッケルだった。“4本指”の男が すでに山頂を究めていたのだ。彼はなぜそれを誰にも言わず、乞食のようにただ麓をうろうろしていたのだろうか。 “4本指”の男が登頂に成功したと主張するマーチンに、「頂上になにかあったかね」と聞くシーンがある。マーチンが怪訝そうに 「なにも・・・」と答えると、彼はふっと皮肉な笑いを顔に浮かべる。 私にはなぜか、彼が人間の征服欲や努力や虚栄を山の高みから 見下ろして嘲笑う、傲慢な“山の神”のように思えた。 宙吊りのまま虚空に浮かぶマーチンの姿は、まるでそんな残酷な“神”に捧げられた生贄のようだ。山頂に突き立てられた“4本指” の男のピッケルは、貼り付けられたメイ・ウェストの写真とは裏腹に、人間的な努力や達成の欲望など微塵も寄せつけない、自然の 厳しさの象徴のように思えて、なんだかぞっとしてしまった。 【◎○△×】8 |
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ストーリー プロレタリアート文学の小林多喜二の原作をもとに、俳優の山村聰が初めて監督に挑んだ作品。劣悪な労働条件で酷使され、ついに 団結して立ち上がる漁夫たちの姿を描いている。 昭和初期、大不況で仕事にあぶれた鉱夫、農夫、労働者らを乗せた蟹工船・博光丸は、ベーリング海の漁場をめざして函館港を出発 する。連日の嵐で、船酔いした即席漁夫たちの汚物で船内は不潔を窮め、病人が続出するが、監督・浅川(平田 未喜三)は船医や船長 の忠告を無視して、操業を強行する。 カムチャッカの漁場では警報を無視したため多数の遭難者を出し、反抗した雑夫は撲殺される。怒り心頭に発した漁夫たちは、ついに 浅川ら船の幹部らに待遇改善の要求を突きつける。しかし回答は、日本海軍の出動による「暴動鎮圧」だった。 俳優・山村聰が初めて監督に挑んだ作品だそうだ。第2回監督作品の『黒い潮』を先に見たせいか、本作は期待以上の出来だった。 陰惨になりがちな内容の映画だが、漁夫たちが陽気に騒ぐシーンや、良心的な船長や船医と監督・浅川ら本社から派遣されてきた幹部 たちが対立するシーンなど、けっこう変化がある。 浅川は徹底した悪役なのだが、彼にしても本社からの強い圧力のなかで漁獲量を焦らざる を得ない訳で、本当に非人間的なのは、利益追求が最優先される資本主義の体質そのものだなぁ、なんてことも思ったりする。(資本 主義を否定してるワケじゃありません、念のため) それにしても監督を演ずる平田未喜三が凄い迫力。本職は千葉の網元さんで稀に見る篤志家だそうだが、いかつい体躯といい鋭い眼 つきといい、まさに圧巻。昔の荒くれ労働者を束ねる現場監督には、実際こういう人がいたんだろうなぁ。私なんか見てるだけで震えが くる。彼だけ最後までしたたかに生き延びちゃって・・・ほんとに怖かった・・・。 【◎○△×】7 |
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ストーリー フェリーニとジュリエッタ・マシーナの名コンビが純真無垢な心を持つ娼婦の姿を描いた物語。 カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は不幸な生活を送りながらも、人を疑うことを知らない女だった。恋人に捨てられしょげている 時に、有名な映画スターに拾われて喜んだのも束の間、彼は喧嘩した愛人とよりを戻して、カビリアはまた1人ぼっちになってしまう。 ある日、ふらりと寄ったショーでカビリアは催眠術の被験者にされて、催眠状態のまま架空の人物オスカーとの恋を演じてしまう。 観客の笑い者にされたと腹を立てるカビリアに、舞台上の彼女の純真な姿に感動した、と声を掛けてきた青年(フランソワ・ペリエ)が いた。 彼は偶然にもオスカーと名乗り、カビリアに交際を申し込む。初めは用心していたカビリアだったが、彼女をレディのように扱う オスカーに次第に夢中になり、結婚を申し込まれると、新生活に備えて家を売り払って大金を用意する。しかし、オスカーもまた彼女を 利用したに過ぎなかった。 オスカーの裏切りに打ちひしがれて一人森の夜道を歩くカビリア。涙でマスカラが流れ、眼の下にひと粒大きな雫型の涙あと。 それはそのまま扮装したピエロの顔だ。悲しみを胸底に押し包んで、陽気に人を楽しませるピエロ。 そうだ、ジュリエッタ・マシーナってピエロなんだ、と思った。 森でパーティをしていた若者たちの陽気な騒ぎに囲まれて、徐々に口元に微笑が浮かんで来る時のカビリアの表情が素晴らしい。 悲しみのなかに微笑みが揺らめいている。 マシーナが演ずる人間像にはいつも、悲しみを突き抜けた向うに、どれだけ騙されても汚れない無垢な魂が見える。それが見るものの 心を打つ。カビリアの夜は明けそうでなかなか明けないけれど、「いつかきっと幸せがくる」と祈りたい気分になった。 【◎○△×】8 |
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ストーリー タイトルの“カラビニエ”とはカービン銃兵のことで、憲兵を指す。 農民のユリシーズ(マリノ・マッセ)とミケランジェロ(アルベール・ジュロス)の兄弟のもとに、ある日、 王様から召集令状が届く。戦争では何をしてもよいし、世界中の富が手に入ると聞いて、二人は張り切って戦場に向かう。しかし、 そには期待したものは何もなく、おまけに国では革命が起こり、二人は憲兵たちに戦犯として処刑されてしまう。 戦争と権力に翻弄される人々の姿をパロディ化して描いたゴダール得意の風刺劇。 倉橋由美子の「大人のための残酷童話」を映画にしたらこんな感じになるのかなぁ、と思った。勿論ストーリーは全然違うけど。 でも、けっこう深刻・残酷な内容をケロリと茶化して、乾いた感じがよく似ている。 ところで、登場人物4人の関係がよく分らない。一見ユリシーズとクレオパトラは30代半ば、ミケランジェロ とヴィーナスは10代の終わりか20代の初めに見えるーー大体この4人、名前からしてふざけてるーー。 ミケランジェロとヴィーナスはクレオパトラを「お母さん」と呼んでいるので、この3人は母子らしい。 ユリシーズは彼女を「クレオパトラ」と名前で呼んでいるので、初めは二人は愛人かなと思ったが、ユリシーズと ミケランジェロがカービン銃兵に処刑された後、字幕に「彼ら兄弟は・・・」と出てきた。 ということは、ユリシーズとクレオパトラも母子ということになる、到底そうは見えないが・・・。 と、とつおいつ考え、思わず笑ってしまった。こういう訳の分らなさ自体ふざけていて可笑しいし、物語の寓意性を 強めているのに気づいたからだ。なにしろ荒野の一軒家にふわふわと楽しげに暮す4人、というだけで浮世離れしている。 そういう意味で私には面白い映画だった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 『ゴッドファーザー』のコッポラの意欲作で、カンヌ国際映画祭作品賞に輝いた。高性能マイクの話を聞いたのと、盗み撮りを扱った 映画『欲望』に刺激を受けたのが、本作を撮るきっかけになったという。 盗聴のエキスパートハリー・コール(ジーン・ハックマン)は、公園で密会中のカップルの会話を盗聴録音している最中に、「殺される かもしれない」という微かな声を聞く。過去に苦い経験を持つハリーは、音のプロは明瞭に録音を再生しさえすればいいのだという 意識と、知ってしまった殺人計画に眼を瞑ったままでいいのか、という思いの狭間で苦悩する。 やがて実際に殺人事件が起こるが、被害者は意外な人物だった。 オープニングのスクエア・パークを上方からズーム・レンズで映し出した映像の新鮮な感覚に引き込まれた。昼下がりの公園を大勢の 人が行きかう。足元から延びた長い影がくっきりと浮き上がって、本人はまるで黒子のようだ。「虚」と「実」の逆転。映画のテーマが 凝縮されていると思った。そこにさまざまな会話の断片がざわめきながらコラージュされていく。 ハリーは過去に数々の語り草となる仕事をモノにしてきた盗聴のプロ。人がもっとも秘密にしたい部分に侵入する仕事だけに、「好奇 心」を持たないことが第一の信条だ。どんなに退屈なやり取りだろうが、どれほど刺激的な会話だろうが、ハリーにとってそれ は “音” に過ぎない。依頼主の要求に応えるために、不明瞭な音をクリアに再生することだけに関心を注ぐ。
ハリーは人には決して心を開かない。恋人にも正体を明かさず、愛しているという確証さえ与えない。ジーン・ハックマンがこれほど スタティックな役柄を繊細に演じきるとは意外だった。 倉庫を改造した仕事場に同業者たちを招いた夜、隣接した駐車場跡で、その日紹介された女と2人きりで踊るシーンが印象的だ。仲間がバイクで2人の周りをぐるぐる走り始める。女がハリーから離れてバイクに乗る。その場を立ち去るハリー。無駄なものが何1つない空間構成、漂うような男や女の動き、都会の孤独がひりひりする。 ひたすら音の中に埋没し、ノイズ混じりの不確かな音をまさぐり続けるハリーを見ていると、だんだん現実との接点が失われ て、妄想の狭間に陥っていくのは無理もないと思えてくる。 盗聴テープの中に殺人にかかわる会話を聞いたことから彼のプロ意識が揺れ始めるのは、過去に自分のテープのせいで人が殺された 経験を持つからだが、この辺りから私には、彼の「虚」と「実」の境界が曖昧になり始めたような気がする。 テープ依頼主の秘書の秘密めいた脅迫的な態度や、同業者に紹介された女を通してテープが依頼主の手に渡っていたことなど、どこまで が現実で、どこからがハリーの妄想か判然としない。ホテルで目撃した殺人事件も、彼の不安が生んだ幻想かもしれないのだ。 盗聴のプロのはずのハリーがじつは盗聴されており、どんなに探しても盗聴器を発見できないというラスト、コルトレーンのレコード に合わせてサックスを吹く彼の姿に、滲み出た孤独がべったり貼りついているようだった。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 四国・松山を舞台に、ボートに青春を賭けた少女たちの姿を瑞々しいタッチで描いた青春映画。 1976年春。高校の進学校に合格し入学を控えた15歳の悦子(田中 麗奈)は、ある日、夕方の海で逆光にきらめくボートを見る。 その美しい風景に感動した悦子だったが、入学した伊予東高校には女子ボート部がなかった。悦子はたった一人で女子ボート部を作り、 男子に混ぜてもらい練習を始める。 やがて何とか4人のメンバーをそろえるが、新人戦に惨敗。これを機にメンバー全員にやる気が湧いてくる。元日本選手権メンバーの 晶子(中嶋 朋子)をコーチに迎え、5人はボートに情熱を注ぐ。悦子は幼馴染みの関野(松尾 政寿)への想いを胸に秘めつつ、仲間たち と厳しい訓練を積み、再び新人戦に挑むのだった。 タイトルの「がんばっていきまっしょい」というのは、ヒロイン・悦子の行っている高校の合言葉らしい。毎年、新年度には生徒会長が 講堂の演壇に立って、「がんばってぇ〜、いきまっ〜しょい!」と掛け声をかける。生徒たちがそろって「しょい!!」と合わせる。 新入生はびっくりするが、2回目の「いきまっ〜しょい!」では照れくさそうに声を出す。
この導入部で、私はこの映画がすっかり好きになった。映画全体の健康で清新なムードがよく表われている。スポーツなんてしたこともなかった(もちろん知識もまったくない)少女たちが、10月の新人戦まで、という約束でボートの練習を 始める。漕ぎ方どころかオールの持ち方も分からない。ボートが持ち上げられなくて、男子校のボート部員に海まで運んでもらう。 そんな彼女たちが、秋の大会で他高校の女子ボート部員から「お嬢さんチーム」と呼ばれて口惜しい思いをしたり、箸にも棒にもかからない 負け方をして、「このまんまじゃ終われない」と気持ちが1つになっていく様子が、気負いもテライもなく描かれている。 なかでも、色が白くてか細くて、みんなに「姫」と呼ばれている少女が面白い。「漕がなくていい」というだけの理由でコックスになる のだが、初めはなんとも悠長だった「キャッチ、ロウ」の掛け声が、いつの間にか「ファイトー!」交じりの「キャッチ、ロウ」に変わっていく。 「そこ、体が右に傾いている!」「左手の動きが歪んでる!」と的確な指示を飛ばし、新人戦ではゴール近くになると「スパーッ トッ!」と喉も張り裂けんばかりの金切り声。必死の形相に、微笑が湧いてくる。 次の年、悦子たちは「ビリにならない」ことを目標に大会に臨む。なんとマー現実的だと可笑しくなるが、「勝つ」より気が楽なのは たしかだ。それに女子ボートは参加校が少ないから、ビリになら
なければ予選、準決勝と先に進めるのだ。合宿の夜の花火、寺の境内いっぱいに揺らめく万灯会のロウソク・・・、みな美しく、心に残る。砂時計の砂がさらさら落ちるように過ぎてゆく青春のひと時を、悦子たちはボートに夢をかけてがんばるのだ。 準決勝の前の晩、みんなで並んで寝ている時に、だれかが「17歳は1回しかないんやね、このままずっとおれたらええのに」と呟く 場面で、私も同じことを思ったことがあるのをフイに思い出した。16はまだ子ども、18はもう大人、大人でも子どもでもない17は 今この時しかないんだ、と感傷的になったっけ。 映画のラストシーン、17歳の悦子が海辺に佇む。その後ろ姿に今は廃屋になった艇庫と、メンバー5人の古びた写真が重なる。青春 への思いが懐かしい輝きを持って胸を浸すのを感じた。 【◎○△×】7 |