| 【映画メモ】 ふ で始まる映画 |
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ストーリー 第二次世界大戦末期を背景に、村娘マーラのひたむきな愛を描いたメロドラマ。 北イタリアの小村に住むマーラ(クラウディア・カルディナーレ)のもとに、パルチザンの青年ブーベ(ジョージ・チャキリス)が 異父兄の戦死を知らせにやって来る。 惹かれあった2人は、ブーベが自分の村に帰った後もしばらく文通を続ける。しかし、ブーベの便りには仕事のことが書いてある ばかりで、マーラが待ちかねる愛の言葉はない。 そんなある日、突然やって来たブーベは、マーラの気持も確かめず、父親(エミリオ・エスポジト)から彼女との結婚の許可を得て 帰ってしまう。さらに数ヵ月後、姿を表わしたブーベは、パルチザン仲間を撃った憲兵とその息子を殺し、追われる身になったと マーラに告げる。 ブーベが仲間の助けで国外へ逃亡した後、マーラは町に出て印刷会社で働くようになるのだが…。 ブーベとマーラの恋のなりゆきがいかにも幼くて微笑ましい。ブーベは思いついたように不意に逢いに来たり、手紙をよこしたり して、それで自分の気持ちは通じていると一人合点している。マーラはそれがじれったくて腹立たしい。それでもブーベのことが好きで ならない。 マーラに扮したクラウディア・カルディナーレは、その魅力がもっとも耀いていた時期の作品だけあって、ちょっととんがらせた 口元や利かん気な眼がとっても可憐だ。 のどかな恋の顛末が語られるのか思っていたら、物語は思いがけない方向に展開していく。ブーベが些細なイザコザから憲兵とその 息子を殺してしまうのだ。 ところが、それを知ったマーラがあまり驚いた素振りがなく、それどころかブーベの村へ里帰りする途中、靴を買ってもらったり、 カフェでお酒を飲んだり、いかにも恋人との久しぶりのデートを楽しむような風情なのだ。
戦争末期のドサクサの頃だし、殺人といっても大した犯罪と思われてないのかな、と不思議な気持ちになる。結局はそれが最後まで
尾を引いて、マーラの運命を大きく変えていくのだから、やっぱり大変なことなのだ。この辺りのマーラの描きかたはどういうこと
なのか、ちょっと首をひねる部分だ。ブーベの逃亡後、町で働き始めたマーラの前にステファノ(マルク・ミシェル)という新しい男性が登場する。彼は浮気な婚約者に 悩まされていて、一途にブーベを思うマーラの健気さに惹かれる。マーラもステファノの誠実さや落ち着いた性格に安らぎを覚える。 常識的に考えれば、マーラはステファノと結婚したほうが幸せに思えるけれど、送還されてきたブーベが裁判の結果14年の刑を 受けると、マーラは獄中のブーベを待つ決意をする。こうして2週に一度、ブーベに会いに刑務所に通う日々が始まる。 7年が経った時、偶然にマーラがステファノに再会するシーンがとても印象的だ。 彼女は寂しい笑顔で「14年というのは初め耐えられないと思った。でも今は何ということもない」とステファノに言う。マーラと ブーベは同種の人間、互いに皮膚感覚で分かり合っているのだと思う。ステファノは彼女には知的すぎる。一緒になっても、いずれズレが 出てきて、マーラは別の苦しみを背負いそうな気がする。 14年の歳月は長く、マーラの言葉はあまりに哀しいが、これでいいのかもしれないとも思う。映画の初めではあんなにも溌剌とした 若さに溢れていたマーラが、いつの間にか憂いを帯びた大人の横顔を見せるようになっている。その変化が切ないと思った。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 司馬遼太郎が昭和34年、直木賞を受賞した初長編小説の映画化。 戦国末期、織田信長の伊賀攻めにより壊滅させられた伊賀忍者の生き残り・葛籠重蔵(中井 貴一)は、かつての師匠から時の権力者 ・太閤秀吉(マコ イワマツ)暗殺の任務を与えられる。重蔵は信長への怨みを秀吉に重ね合わせることで任務を引き受ける。 大阪への道中、彼は謎の “くの一” 小萩(鶴田 真由)と出会い恋に落ちる。同じく伊賀忍者・風間五平(上川 隆也)は、伊賀を 捨て、立身出世の道を選ぶ。重蔵、彼の配下の女忍者・木さる(葉月 里緒菜)、黒阿弥(火野 正平)らの前に五平が立ちはだかる。 この映画で一番印象的だったのは、重蔵が小萩に「いろいろな人間に自分を変えてきために、本当の自分が分からない。本当の自分の 気持ちを探ろうとすれば、闇の地獄に落ちてしまう」というシーンだ。 忍者をこういう視点で捕らえた映画は初めてのような気がする。忍者が背負わされたもっとも過酷な運命は、この「自分はだれか」が 分からない、ということではないかと思ったのだ。 前田家の奉行・下呂と名を変え、最後は石川五右衛門として処刑される五平が、牢獄で「俺は俺だ」と絶叫する。興味深いのは、 秀吉すらも「自分はだた世のなかが求める人物を演じているだけだ」と重蔵に述懐することだ。
「自分とはなにか」という問題意識はすごく現代的だと思う。原作を読んでいないが、司馬遼太郎の歴史観になにかこういう視点が
あるのだろうか。とはいえ、秀吉は「演じている自分」というものをはっきり認識している。そこがこの老人のしたたかさでもあり、怖いところだ。 ぬけぬけと重蔵を言いくるめて命乞いをし、生き延びれば、獄につながれた五平を「あの時の賊だ」と断言して、処刑させる。多分 秀吉のことだ、違うと承知の上で処刑させてしまったのだと思う。 演じているマコ・イワマツが秀吉の猾さ・怖さを存分に表現して、もの凄いと思った。 けっこう面白かったけど、話をもっと整理してもよかったんじゃないかと思う。例えば、小萩のアヘン中毒のシーンなど要らないと 思うし、木さるが重蔵と五平の間で揺れる設定もあまり生かされていない。登場人物が多すぎるのも気になる。焦点を当てるべき人物を もっと大胆に刈り込んでもよかったのではないかと思う。 一番気になったのは、重蔵が秀吉を暗殺しようとする動機が曖昧なのと、寝所にまで侵入しながら、なぜ暗殺を中止したのかが、 映画を見ているだけでは分からなかったことだ。核になる部分の輪郭がはっきりしないために、映画の印象まで弱くなった気がする。 【◎○△×】6 |
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ストーリー ピーター・バニング(ロビン・ウィリアムズ)は40歳の働き盛り、猛烈な仕事人間だ。一家はクリスマス休暇に、妻モイラ(キャロ ライン・グッドール)の祖母でピーターを孤児院から引き取って育てたウェンディ(マギー・スミス)をロンドンに訪ねる。 ある夜、ピーターたちが外出から帰ると、子供たちの姿は見えず、ドアにはフック船長(ダスティン・ホフマン)からの脅迫文が貼って あった。そこに現れたティンカーベル(ジュリア・ロバーツ)とともに、ピーターは子供たちを救うために、再びネバー・ランドへと 向かう。 大人になったピーター・パンってどんな風なんだろう、と興味があったのだが、かつての記憶をすっかり失って、今はバリバリのやり手 弁護士というのは、どんなものかなぁ。かなり無理を感じるんだけど。 ピーター以外にもう1人、ネバーランドを出て、大人になってしまった老人が出てくる。彼はネバーランドにいた頃と同じくビー玉が 大好きで、そのためにみんなからはボケていると思われているのだが、私には彼のほうが大人になったピーター・パンのイメージに 近い。 ネバーランドに舞い戻って、忘れていた童心を取りもどし、嬉々として空を飛び回るロビン・ウィリ
アムスを見ても、なんかも1つ弾け切らない気分だ。ジュリア・ロバーツのティンカーベルは、少年と少女の中間みたいな感じがよく出ていて悪くないが、途中で肩出しドレスの大人の 性になって、ピーターとキスするのは止めてほしい。 ピーターが島を出た後、子どもたちのリーダーになっていたルフィオがフックに殺されるのも、疑問を感じる。フックがラストで 大ワニの置物に飲まれていなくなるのだが、ルフィオもそのノリで退場させてほしい。 この映画はどうもリアルなところとファンジックなところがごちゃ混ぜで、どういう気分で見たらいいのか分からないのが困る点だ。 “ピーターパン” の後日談を、大人の感覚で作り上げてるからじゃないかなぁ。わざわざ「童心を忘れないようにしよう」なんて科白を 入れたりするのがその証拠。かえって変に説教臭くなってしまうよ〜。 出演者たちはとても豪華。主役のロビン・ウィリアムズを初めとして、フック船長にダスティン・ホフマン、その一の子分スミーに ボブ・ホスキンス、少女時代のウェンディがグウィネス・パルトロー、老いた現在のウェンディがマギー・スミス、ティンカーベルには ジュリア・ロバーツという具合だ。 そろって、いかにも楽しそうに演じている。とくにダスティン・ホフマンは傑作。なんか騒ぎをやらかさないことには、退屈で寂しくて 仕方ない。ナリは大人でも、心は悪ガキそのまんまという “大人子ども” だ。これだけの出演者を集めてるのに、もう1つはじけ切らなかったのがちょっと残念。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 19世紀のベルギー、フランダース地方。母を亡くしたネロ(ジェレミー・ジェームズ・キスナー、ジェシー・ジェームズ)は祖父 (ジャック・ウォーデン)と牛乳配達をしながら暮している。絵を描くのが好きなネロはルーベンスの絵を見るのが夢だった。 配達の帰り道、道端に捨てられた瀕死の犬を見つけたネロは、パトラッシュと名付け、飼うことにする。祖父が病気になってからは、 パトラッシュが牛乳の荷車を引くようになる。 ある日、ネロは町で画家のミシェル(ジョン・ヴォイト)と出会い、コンクールへの出品を勧められる。希望を胸に、唯一の友達 アロア(ファレン・モネット)をモデルに絵の製作に励むネロだったが、アロアの父コゼツ(エイドリアン・ポール)はそれを快く 思わず、ネロにひどい仕打ちをするのだった。祖父が亡くなり、やがてコンクール発表の日が来る。 ベルギーのフランダース地方でロケを敢行。2種類のエンディングが用意され、アメリカなどではハッピー・エンディング版が 公開された。 子供の頃本を読んで、あんまりネロが可哀想で、とくにラストのルーベンスの絵の前で息絶える場面などは思い出すだけでもつらくて、 それ以後「フランダースの犬」は私にとっては “禁じられた物語” になっていた。今回映画を見る時も、「あのラストは耐えられる かな」とじつはおっかなびっく
りだった。私が年を取ったのか、映画の作りが淡々としているからなのか、ふつうの映画として観賞できたのはさいわいだった。 教会の石の床に座って、ネロはパトラッシュに「ここは外よりもっと寒いね」という。私がこの映画で唯一泣きそうになった場面だ。 人の魂を救うはずの信仰の場さえ、ネロには世間以上に冷たい場所に思われたのだ。 アロアの母親や画家のミシェルなど彼を理解する大人たちもいたし、ネロは生きようと思えば生き延びられたと思う。でも、孤独と 絶望に打ちのめされて、生きる気力を失ってしまったのだろう。誰にも助けを求めず、自ら望んで死んでいったように見える。 息絶えたネロとパトラッシュを、ルーベンスや母が迎えに来るラストシーンはちょっとお笑い。でも、私としてはこれでほっとして いるのだ。ここがつらすぎるのは耐えられそうにないから。 子供の頃は、パトラッシュはたんに身体が大きいために、荷車を曳かされているのかと思っていたが、じつは、“フランダース犬” と いう労働用の犬種があるのだそうだ。 映画に出てくるパトラッシュは、真っ黒く長い毛がもしゃもしゃして、人間臭い顔をした妙な犬だ。こんな犬は初めて見た。なんと なくセント・バーナードみたいな洒落た西洋犬をイメージしていたので面食らってしまったが、頼りがいのある家族という感じはする。 映画としては、気をてらわず全体に丁寧に作られていると思った。 【◎○△×】6 |
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ストーリー パリに着いた途端に妻が行方不明になり、妻を探して必死に言葉の通じない異国の町を走り回る夫の姿を描く。 医者のウォーカー(ハリソン・フォード)は、学会に出席するため妻(ベティ・バックリー)を伴い20年ぶりにパリを訪れる。 しかし、ホテルでシャワーを浴びている僅かの間に、妻が消えてしまう。 空港で取り違えられた妻のスーツケースが関係あると目星をつけた彼は、ようやく本来の持ち主のミシェル(エマニュエル・セイナー) を見つける。彼女の話では、何者かに運んでほしいと頼まれた自由の女神像がその中には入っているという。やがて2人の前に国際的な 陰謀が明らかにされていく。 ホテルの部屋に腰を落ち着けて、さて、スーツケースの点検、そこで初めて空港でケースを取り違えたらしいと気づく。この発端は さり気なくて、うまいなぁと思う。旅行好きの私は、空港の荷物
受け取りカウンターで、たまに、自分のによく似たケースを持っていきそうな人がいて、「あ・・・!」と思うことがあるからだ。夫は空港に連絡を取ると、バスルームでシャワーを浴びる。妻が何か言う。声がシャワーの音でかき消されてよく聞こえない。重要な ことなら浴室に顔を出して言うだろう。ガラス戸越しに見える妻の様子に格別なところはない。よくある夫婦の光景だ。 ところが、直後に妻は忽然は消えてしまうのだ。それまでが何の変哲もないだけに、妻に何が起こったのかまるで見当がつかない。 夫の困惑と不安がとてもリアルに感じられて、巧みなオープニングだと思う。 夫のリチャードは、取り違えたスーツケースに原因があるらしいと気づいてからは、なかなかの行動力を示す。平凡な医師にして 出来すぎかもしれない。
もっとも、扮するハリソン・フォードはすでに中年、動きは悲しいほどモタモタしている。とくに、ミシェルの部屋に屋根伝いに
入ろうとするシーンでは、足を滑らせ、思わずつかまったアンテナが折れて、ズズーッと屋根のヘリまで落ちそうになる。後生大事に
持っていたスーツケースも落としてしまう。前夜、若いミシェルがさっさと同じルートで部屋に入ったことを思うと、情けないほどにみっともない。それだけに、なりふり構わず 妻を探すリチャードの必死の思いが伝わってくる。 彼らが巻き込まれる陰謀は大味で、もう1つの感があるけれど、リチャードが体験する異邦人としての不安には共感する部分が 多かった。 ところで、この屋根の上のシーンで、靴が滑るものだからリチャードは靴と靴下を脱ぎ、その靴下をわざわざ靴の中に入れるところが ある。彼の日頃の律儀さがかいま見えて、なかなか演出が細かい。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 36件もの殺人を犯したフランス犯罪史上まれに見る凶悪犯と、それを追う国家警察きっての敏腕刑事の姿を描いた実録小説をもとに したクライム・アクション。 1947年。連続殺人犯ビュイッソン(ジャン=ルイ・トランティニャン)が脱獄し、フランス国家警察の刑事ボルニッシュ(アラン・ ドロン)は逮捕を命じられる。ビュイッソンは自分を密告したバーのオーナー、レイモン(マリオ・ダヴィッド)を始末すると、またも 大胆な犯罪を繰り広げる。 3年にわたる執念の捜査の末に、ついにボルニッシュはビュイッソンの隠れ家を突き止めるが・・・。 ドロンは自分でプロデュースしたというだけあって、すごく気合が入っている。といっても主役として目立とうというのではなくて、 役柄としてはむしろジャン=ルイ・トランティニャンの引立て役に回っている。映画を「面白くしたい」「成功させたい」、その心意気が 憎い。 彼が演じる刑事ボルニッシュは署内でも一目置かれる腕利きということになってるが、上司からは始終がみがみ嫌味を言われ、部下 には「説得型」の取り調べは生ぬるい、と白い目を向けられ、そうバリバリという印象ではない。けどちっとも気にせずマイペース。 じわじわ味が出てくるタイプだ。若い頃の輝くばかりのドロンも好きだけど、中年過ぎて渋みを増した彼もいい。 トランティニャンは『Z』(69)を見たばかりだったので、雰囲気がまるで違うのにびっくりした。どちらも怜悧な刃物を思わせるが、 『Z』は真相追究という信念をゆるぎなく持つ予審判事、“正義の人” だ。ところが本作では、黙って車から降りるだけのシーンでも、 横顔に何ともいえぬ荒んだ凄
みがある。それだけで、これまでどれほどの悪事を無感情に犯してきたかを窺わせる。その後の冷酷非情な殺人の数々。とくに、高級レストラン強奪の後、追走してきた白バイの前でわざと車を急停止して、転倒した警官を 窓から身を乗り出して射殺するシーンは、ゾッとするほど手際がいい。逃げるばかりが能じゃない、こんな手もあったのか。怖いです。 ボルニッシュは恋人(クローディーヌ・オージェ)との結婚をひかえ、手柄を上げて昇進をもくろんでいる。そんな彼にとって、名だ たる凶悪犯ビュイッソンの逮捕命令は渡りに舟。早速捜査に乗り出すが、ビュイッソンの立ち回りの速いこと、これじゃさすがの国家 警察も歯が立たないなと思ってしまう。 もっとも時代は1940年代後半、捜査の仕方もどことなくのんびりしているし、ビュイッソンも凶悪犯罪を繰り返しながら、高飛び するわけでもなく、パリ周辺をうろうろしている。レトロな人間臭さがある。 ハイライトは田舎のレストランでの逮捕劇だ。せっかくクローディーヌ・オージェが出ているのに見せ場がないなぁと思っていたら、 ここで俄然いいところを見せる。根性の座った顔しているから、こういう役がピッタリだ。ビュイッソンがふと心の隙を見せるのが、 ピアフの歌というのも泣かせる。 ニセ電話をかけるフリをしながら、様子を窺うボルニッシュ。ビュイッソンの頭の切れ、凶悪ぶりは骨身に沁みて分かっているだけに、スリル満点でほんとうにドキドキした。 ここで終わってもいいくらいだけど、逮捕後の話がまたいい。取り調べは午後からで、午前中はデスクをはさんでボルニッシュは書類を 調べ、ビュイッソンは、片手は手錠でポールにつながれたまま、残りの手でボルニッシュのおごりのワインを空け、フィガロ紙を読む。 2人の間には奇妙な友情と尊敬があり、たがいに対等の立場で時間を過ごすのだ。こういうのをフランス的っていうんだろうか。洒落てていいなと思う。 死刑判決を受けたビュイッソンは、1956年2月28日に刑を執行されたそうだ。ドロンとトランティニャンは役柄を変えても ぴたっとはまった気がする。それくらい息が合っていた。 (なお、“フリック” とはフランス語で「刑事」のこと。) 【◎○△×】7 |
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ストーリー 60年代から70年代にかけて大流行したカー・チェイス・アクションに先鞭をつけた映画。 サンフランシスコの坂道で展開するカー・チェイスのデッドヒートは、スタントなしでマックィーン自身が運転している。濃紺の タートルネックを着たマックィーンは、映画における刑事のイメージを一新したといわれ、映画を見た本物の刑事たちの間でも 流行したという。 サンフランシスコに、仲間を裏切って200万ドルの金を持ち逃げしたシカゴのギャングが潜入した。裁判の証人としてこの男の 証言を必要としていた政治家のチャーマース(ロバート・ヴォーン)は、男の護衛を刑事ブリット(スティーヴ・マックィーン)に 命じる。 ところが、その証人はなにものかに射殺されてしまう。ブリットは男が生きているように見せかけて、敵をおびき出そうとする。 オープニングのタイトルシーンがすごく垢抜けている! ブリットは組織からはみ出した一匹狼ということになっているが、どこまでもついて来てくれる相棒刑事(ドン・ゴードン)がいるし、 美人で可憐な恋人(ジャクリーン・ビセット)もいる、今をときめく上院議員に対ししっかりブリットを庇ってくれる上司はいるしで、 後の『ダーティ・ハリー』などに比べると全体の雰囲気が暖かいし、明るい。 マックィーンの個性もあるのかも知れないが、ブリット自身にも非情な感じがなくて、ささくれ立っ
た気分にならずに見ていられる。名高いカーチェイス・シーンがやはり面白かった。ブリットに尾行されていることに気づいた殺し屋が、猛然と走り出す前に、まず シートベルトをガチッと締める。「本気を出すな・・・」と映画を見ているこちらにも一瞬の緊張が走る。こんな細かいところに 目配りした演出がいい。 サンフランシスコは坂が多いことで有名だが、それがじつに効果的に使われている。坂の向こうから突然現われた車がボンと大きく ジャンプし、ドスンと着地する。タイヤの軋む音だけが聞こえる。 今の凝ったカーチェイスを見慣れた目には、2台の車がひたすら走るだけの素朴なものだが、その素朴さがかえって現実感覚を 呼び起こすのだ。マックィーンはスタントを使わず自分で運転したそうだが、それもリアルさを感じさせる要因の1つかも知れない。 マックィーンはモンキー・フェイスで決して美男とは言えないが、存在自体がひどくかっこいい。スターのオーラが放散されている。 対照的に、相棒刑事デルゲティはいぶし銀のような男だ。寡黙でさり気なく、どこまでもブリットをサポートする。地味に徹している ところがいいなぁと思った。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 1935年のテキサス.。保安官の夫を拳銃の暴発事故で失ったエドナ(サリー・フィールド)は、2児を抱えた心細さに加えて、家の ローン返済を要求されて途方に暮れる。 やがて、窃盗容疑の黒人浮浪者モーゼス(ダニー・グローヴァー)をかばって雇い入れたエドナは、彼の助力を受けて、自分の土地に 綿花を作ることにする。同じ頃、エドナに融資した銀行員は、眼の不自由な義弟ウイル(ジョン・マルコヴィッチ)を下宿人として 押しつけて来る。 ある日、凄まじい竜巻が町を襲う。エドナも家や畑に大きな被害を受けるが、くじけることなく畑仕事を再開する。そして収穫の日を 迎えるが・・・。 エドナに扮したサリー・フィールドは本作で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。 ある朝、いつもと同じように出勤した夫が死体となってもどってくる。家事と育児の小さな世界で夫だけを頼りに生きてきた主婦が、 突然、身一つで世間に放り出される。 手に職があるわけでもなく、ローンや金利のこともよく分らない。家は追い立てを食う。子どもはまだ幼い。自分ならどうするだろう、 と家庭の主婦ならみな我が身に置き換えて考えてしまうんじゃ
なかろうか。夫が保安官だったり、エドナが手がけるのが綿の栽培だったり、彼女を助けるのが黒人の流れ者だったりして、時代も背景も 1930年代のアメリカ特有のものだけれど、彼女に降りかかった運命はそういうものを超えた普遍性を持っている。 エドナはおずおずと銀行にでかけ、辛抱強く掛け合って、家の立ち退きを待ってもらうばかりか、綿作りの費用まで融資してもらう。 収穫一番乗りには報奨金が出ることを知ってからは不眠不休で頑張る。綿の売却では手だれのバイヤー相手に馴れない駆け引きを こなして、ほんの少しだけど相場より高い値で交渉を成立させる。 突然肩にのしかかった重荷で押し潰されそうになりながら、エドナが徐々に芯の強さを発揮してゆく過程に心が揺すぶられる。 エドナに綿作りや売買のノウハウを教えるのは黒人モーゼスだ。流れ者の彼はやっと彼女の農場に自分の居場所を見つけるのだが、 KKKに襲われて負傷してしまう。彼はエドナに危害が及
ぶことを恐れて、町を出る決心をする。普遍的な話と書いたけれど、ここで1930年代のアメリカ西部の現実が顔を出し、ぎょっと
させられる。エドナは悲しみをこらえつつも、凛とした態度で彼に感謝を伝え、送り出す。彼女がいつの間にか逞しい西部の女になっていることを 感じさせられるシーンだ。 目の不自由な下宿人ウィルも印象的だ。彼は世間に背を向けた偏屈な青年だが、一家に溶け込むにつれて、本来の優しさが 表われて来る。竜巻の襲来で家が今にも壊れそうな時は、手探りで必死にエドナの幼い娘ポッサムを探し回る。モーゼスがKKKに リンチされた時は、見えない目で拳銃を振り回して彼を守ろうとする。 エドナと家族同然の絆で結ばれるのが黒人であり、視覚障害者という、社会のマイナーな人たちであることに引かれる。 エドナに扮したサリー・フィールドは本作でアカデミー賞を手にした。平凡な女性を自然体で演じての受賞に、女優としての非凡さを 感じる。ウィルを演じたジョン・マルコビッチの繊細で透明感を漂わせた演技も心に残る。 ある夜、彼は台所のテーブルで、エドナにどんな顔をしているのか教えてほしいという。「美人じゃないの」と照れるエドナ。小さく 口を開いて聞き入るウィル。温かさに満ちた大好きなシーンだ。 【◎○△×】8 |
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ストーリー ヒット・コメディーの舞台劇をもとに、スクープをモノにしようとする新聞社の騒動を描いている。本作は3度目の映画化。 1929年のシカゴ。「エグザミナー」紙のトップ記者ヒルディ(ジャック・レモン)は、恋人ペギー(スーザン・サランドン)と 結婚して、社を辞めると宣言する。デスクのバーンズ(ウォルター・マッソー)はなんとか彼を引き止めようとするが、うまくいかない。 ヒルディが記者クラブに挨拶にやって来ると、外から銃声が聞こえる。警官殺しの犯人として死刑を宣告されたアール(オースティン・ ペンドルトン)が脱走を図ったのだ。一斉にクラブを飛び出す記者たち。ヒルディの記者魂がムラムラと動き出す。 ジャック・レモンとウォルター・マッソーの漫才みたいなやり取りが可笑しくて、ずっと笑ってばかり
いた。公開当時の「面白い!」という印象はまったく変わっていない。ヒルディは白スーツにカンカン帽、ステッキをくるくる回して、いかにも軽薄なお調子者。とうてい切れ者には見えない。「ほんとに、編集長がどうしても引き止めたいほどやり手なの?」と初めは思うけど、裁判所の記者クラブで事件が発生すると、やおら上着を脱いでの身動きや眼の配りは、ずるさやしたたかさも込めて、一分の隙もない。 恋人ペギーのために生活を変えようと思ってるのはほんと。でも、目の前で一発、事件が発生すれば、記者の血が騒ぎ、抑えようがない。気がつけば社への直通電話を握り、もう速射砲のごとくタイプライターを叩いている。新聞記者は ‘ちょっとヤクザな’ 商売と思われていた時代があったが、そんな時代の活気が全身にあふれている。 待ちくたびれたペギーがクラブまで上がってくると、ヒルディは「ペギーーー?」といかにも ‘そんな女は知らん’ という顔、それ からハッと我に返って投げキスのご機嫌取り。心は完全に事件に占拠されているのが見え見えだ。 ウォルター・マッソーの編集長の食えなさぶりもたまらない。辞めるというヒルディを引き止めるために、あの手この手の策を弄する。 それがまたあこぎというか、見え透いているというか。 でも、本当は何もしなくても、事件さえ起これば彼は食いついてくるって、ちゃんと分かってたんじゃないかな。クラブのヒルディから電話がかかってくると、「ほーらよ!」とばかりに動き出す。 スクープをモノにするためなら、多少(かなり?)のあくどい手は辞さず。これぞ現場の記者魂。その臭さが痛快でかっこいい。駅頭で のしんみりした別れの後のオチにも笑ってしまう。
スーザン・サランドンがレモンの恋人役で出ているのは、今回初めて気がついた。あの頃は、この目の大きな女優がこれほど大物になる なんて思わずに見ていたのね、きっと。 彼女がオルガンを弾きながらレトロな節回しで歌を歌う。クラブか何かかと思ったら、ニュース映画の前座らしい。そういえば、子供の 頃のおぼろな記憶でも、ニュース映画だけをやる映画館があって、それだけでもけっこう客が入っていた。アメリカはそれにさらに前座が ついていたのだろうか。 記者クラブの懲りない面々、善良で頼りない殺人容疑の労働運動家、キュートなサランドン、みんな何の屈託もない。やっぱ喜劇は こうでなくっちゃね。 【◎○△×】7 |