| 【映画メモ】 は で始まる映画 |
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ストーリー シングル・マザーのアニー(デミ・ムーア)は、ニューヨーク郊外で11歳の息子オリヴァー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)と 暮らしている。ある日、マフィアのドンとその孫が殺され、ファミリーのボス(トニー・ロー・ビアンコ)が逮捕されるという事件が 起き、アニーにアメリカ市民の義務として陪審員の出頭要請が来る。 ところが、マーク(アレック・ボールドウィン)と名乗る男が現われ、アニーは裁判では被告の無罪を主張するように強要される。もし 従わなければ息子の命はないと言うのだ。当局に知らせようにも彼女の行動は一部始終監視されている。 追い詰められたアニーは、熱弁を奮って、有罪に傾いていた陪審員たちの心証を次々と無罪へ誘導していくのだが・・・。 アメリカ映画の法廷ものを見ていて、時々「本当にこんなやり方で裁判やってるの!」とびっくりすることがある。本作の、陪審員の 委託を受けた市民が公開の場で受諾の意を示すところなど、まさにそれに当たる。これではあらかじめ誰がこの裁判の陪審員をやるかはすぐ分り、外部から不当な圧力かけられることは十分あり得る。怖いなぁと思う。
しかし、本作はそういう陪審員制度の盲点を取り上げた映画かと思うと、少し予想が外れる。途中からデミ・ムーアとアレック・ボール
ドウィンのラブ・サスペンスのほうに話が流れるからだ。マークはマフィアに雇われた殺し屋。敵対マフィアのボスだけを殺せばいいところを、目撃した孫まで殺してしまうという大チョンボを する。それだけに陪審員を抱きこんで、逮捕されたボスを無罪に持ち込むという仕事は絶対ぬかるわけにいかない。 甘い二枚目のアレック・ボールドウィン、色仕掛けで相手の懐に入り込み、ひやりとした感触で脅迫者の顔を覗かせる「色悪」ぶりは、 なかなか板についている。「坊やが危ない。僕が守ってあげる」という言い方でアニーを脅すやり方など、なまじ「殺してやる」と直接 的に言われるよりよほど怖い。 アニーの親友の女医(アン・ヘッチ)を、色事で落とした後で、薬物で自殺に見せかけて殺してしまう冷酷さや、ボスとその手下を 爆薬で一挙に片付けてしまう手際のよさなど、一見やさしげな面立ちの陰に隠れた異常さが、ボールドウィンには意外によく似合う。
デミ・ムーアも気丈なシングル・マザーを頑張ってこなしている。息子を守るために、マークどころか検事たちまで欺いて、手の込んだ作戦を実行するところは予想外の展開。この映画でもっともスリリングな場面だ。 しかし、マークがアニーを脅迫しつつ次第に彼女に惹かれていくのに対して、アニーはひたすら彼に恐怖と憎しみを向けるだけ、この 恋愛はマークの一方通行だ。話は逃げるものと追うものという単純な構図になり、思ったほどサスペンスが盛り上がらない。 舞台も南米まで広げたのはやりすぎだったんじゃないかな・・・。アニーが強い母に変身するのはいいけれど、現地の住民を従えてのアクションまで話がいくと、かえって印象が散漫になる。精神的にタフになる、という辺りでとどめた方がよかったと思う。法廷もの、ラブ・ロマンスもの、どちらにしても食い込みが足りない作品になったのが残念。 【◎○△×】6 |
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ストーリー ミュージシャンでもある実在の作家、ジム・キャロルが自らの体験を綴った「マンハッタン少年日記」の映画化。 マンハッタンのミッション・スクールに通うジム(レオナルド・ディカプリオ)、ミッキー(マーク・ウォルバーグ)、ペドロ (ジェームズ・マディオ)、ニュートロン(パトリック・マッゴウ)は、シンナーを吸い、ちょっとした盗みを働いて悪ぶっていたが、 バスケットボールでは名選手たちだった。 しかし好奇心から始めたドラッグは習慣となり、彼らを蝕んでいく。学校にばれて、ジムとミッキー、ペドロは退学。母親(ロレイン ・ブラッコ)と口論の果てにアパートを飛び出したジムは、かつてバカにしていたホームレスに成り下がっていく。 ペドロは強盗中に警察に捕まり、ミッキーは麻薬取り引きのいざこざから過って売人を殺してしまい、かろうじて逃げ出したジムは、 アパートに戻って母親に金をねだるが・・・。 『ギルバート・グレイプ』(93) のディカプリオの演技にびっくりして、彼が(知恵遅れの少年ではなく)本当に俳優であることを 確かめるために劇場まで足を運んだ作品。本作や『太陽と月に背いて』(95) 『クイック&デッド』(95)の頃のディカプリオは、演技に 清新さがあって今見てもすごい才能だなと唸らされる。 ジム、ミッキー、ニュートロンたちはバスケット選手としてけっこういい才能を持っているのに、万引きはするわ、シンナーは吸うわ、 濃厚なヌードショー屋に出入りするわで、とても16歳とは思え
ないすごさだ。一応、‘ふつうの不良少年’という設定らしいが、いつ本格的に転落してもおかしくない瀬戸際で、タイトロープを渉っているように しか見えない。映画では、親友のボビーの死がきっかけで、ジムは麻薬に手を出したような印象だが、ほんとうは理由なんてないのかも 知れない。 麻薬に溺れる子どもを親はどうやって救えるのだろう。親としてこれほど自分の無力を思い知らされることはないんじゃないかと思う。 ジムの母親は、口論のあげく息子が飛び出した後、「お守りください」とただ神に祈るしかない。 彼が捨て雑巾のようにぼろぼろになってアパートに舞い戻り、中に入れてくれと懇願するシーンは、この映画の事実上のクライ マックスだろう。「ママ、ママ」と泣きながら呼ぶ声を耳にしたら、私
なら矢も盾もたまらずドアを開いてしまいそうだ。しかし、中に
入れても事態が変わらないのははっきりしている。暴力を振るってでもジムは金をむしり取って、また飛び出すだけだろう。どうしたら息子を救えるか。親としての正念場だ。 ジムの母親は胸が引き裂かれる思いで警察に電話する。彼女の決断が正しかったのかどうかは分らない。ジムの場合はこれが立ち直り のきっかけになるが、親に見捨てられたと感じ、転落の度をいっそう深める可能性も否定できない。すべての場合に通用する方法が ないところに、問題の難しさがある。 映画は、ジムがミニ・フォーラムのような場で若い聴衆を前に体験告白をするシーンで終るため、麻薬撲滅フィルムのような後味が 残るのが少々残念だが、ある青春の一断面を切り取った印象的な映画だと思った。 【◎○△×】7 |
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ストーリー エリザベス・テイラーが初のアカデミー主演女優賞を獲得した作品。 モデルが本業のグローリア(エリザベス・テイラー)は、「バターフィールド8番」の電話番号で呼び出されるコールガールとしての 顔も持っている。NYのアパートで母(ミルドレッド・ダンノック)と二人暮らしだ。 多くの男に身体を売るグロリアだが、いつしか妻子ある男性リゲット(ローレンス・ハーヴェイ)を本気で愛してしまう。彼は富豪の 娘(ダイナ・メリル)と結婚し、妻の実家に牛耳られる生活に疲れ果てていた。グローリアは幼なじみの作曲家スティーヴ(エディ・ フィッシャー)に悩みを打ち明けるのだが・・・。 この映画でエリザベス・テイラーはオスカーを獲得したが、一体どういうところが評価されたんだろう。彼女が扮したグロリアは 娼婦という設定なのだが、まるっきりらしくない。 町の男たちがグロリアを「男から男に渡り歩く大した女」と揶揄(やゆ)し、誰もが一度は彼女と寝たかの ようにいうシーンがあるけれど、テイラーは誇り高く美しく毅然として、とうてい、そういう種類の女には見えないのだ。
客と本気の恋に陥ってしまった娼婦の哀れさも出ていない。演技というより演出の問題なのかもしれないが、全部が綺麗ごとなのだ。
取ってつけたように少女時代のトラウマを持ち出して号泣されても、ちょっと付き合えない気分になる。ローレンス・ハーヴェイが扮するリゲットも、どうもも一つ魅力が薄い。弁護士という立派な資格を持ちながら、資産のある妻の 実家に首根っこ押えられて酒浸り。いじけた男なのだ。 妻のエミリーは実家をカサに着るどころか、ひたすら夫を待ついい妻なだけに、余計彼とグロリアの恋が得て勝手なものに見えて くる。主人公2人に魅力がないのがこの映画の最大の難点だと思う。 ところで、身体の線を強調した服ってテイラーの好みなのだろうか。『予期せぬ出来事』(63)や『いそしぎ』(65)はとくに ひどかったが、本作でもそろそろ太り始めた身体を無理に締め上げた衣装は、私にはちょっと見苦しく思える。 これまで見たテイラーの映画の中では、『花嫁の父』(50)『陽のあたる場所』(51)『ジャイアンツ』(56)『バージニア・ウルフ なんか怖くない』(66)の4本がよかった。肉体や美貌を誇示せずに、無心に演技している時のほうが、かえって彼女本来の美しさが 輝くような気がする。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 望月峯太郎の同名漫画を原作に、水泳部の少女に一目惚れした高校生の少々強引な恋愛騒動を描いた青春ドラマ。 水泳部の美少女ソノコ(高岡 早紀)に一目惚れしたカオル(筒井 道隆)は思い込みの激しい高校生。カナヅチなのに水泳部に入部し、 臆面もなくアタックする。 彼女の愛を勝ち取ろうとオリンピック出場を宣言し、女性コーチ “ババァ”(白川 和子)と猛特訓を開始するカオルのあまりの しつこさに、精神のバランスを崩したソノコはやけ食いに走り、見る見るうちに太ってしまう。 女性が、水泳コーチの “ババァ” (というには、あまりに若い!)も含めてみんな元気。ぽんぽん言いたいことを言う。これだけ はっきりものが言えるのに、ソノコはストレスで過食のデブちゃんに
なったりするぅ?と、ちゃちゃの1つも入れたくなるほど。ソノコがデブちゃんになったら、「そんなに嫌ってるとは知らなかった」なんて、別れをいうカオルもかなりいい加減。「もっと 早くに気がつけよ」って言いたいけど、ほんと彼はたんにデブちゃんが厭なだけなのかも・・・。鈍いんだかずるいんだか、ちょっと 微妙だ。 一番面白かったのは、カオルのガールフレンドのプー(土屋 久美子)。振られてるのに果敢にアタックし続けて、ソノコが太って カオルに捨てられたら、意気揚々と勝利宣言。男っぽいのに微妙な女心を感じさせて抜群だった。 ところで、カオルはプールで知り合った “ババァ” のところに居候しちゃうのだが、彼の親はどうなってるんだろう? 【◎○△×】6 |
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ストーリー 1931年、オーストラリア。先住民アボリジニを白人社会に同化させるための “隔離同化政策”により、14歳のモリー (エヴァーリン・サンピ)、8歳の妹・デイジー(ティアナ・サンズベリー)は、10歳の従妹・グレイシー(ローラ・モナガン)と ともに、母親(ニンゲイル・ローフォード)から引き離されて強制的に寄宿舎に収容される。
英語とキリスト教を強要され、厳しいしつけが行われるこの寄宿舎は、一旦収容されれば2度と家族に会えないことがほとんど
だった。3人は寄宿舎を脱走し、母の待つ故郷に向かって歩き始める。その道のりは1500マイル(2400キロ)、途方もない距離だ。 彼女たちをアボリジニ保護局の局長ネヴィル(ケネス・ブラナー)、アボリジニの追跡人ムードゥ(デイヴィッド・ガルピリル)が 追いかける。 1880年代から70年代までオーストラリアで実際に行われていたという “隔離同化政策”。モリーの娘ドリス・ピルキングトンが 母の体験を綴ったノンフィクションを、オーストラリア出身のフィリップ・ノイス監督が映画化している。 この映画は3人の少女が1500マイルの行程をひたすら自分の足で歩き通した、というだけのストーリーだ。しかし、追っ手の ほうは警察の組織力を使い、馬や車で追跡する。大人と子どもの知恵比べ。けっこうスリリングな物語なのだ。 初めは3人は当てもなく荒野をさまようが、偶然立ち寄った白人の家で、オーストラリアを縦断する「ウサギよけフェンス」に沿って 北上したらよいと教えられる。
しかし、大人の側はすぐに察知する。しかも、目的地は母のいる故郷ジガロング、と初めからはっきりしている。子どもの側に
勝ち目はない。にもかかわらず、子どもたちは見事に大人を出し抜いて母と祖母に再会し、家族で砂漠の奥に身を潜めるのだ。一見ハッピーエンドの物語だが、途中でモリー、デイジーと別れたために保護局に捕まってしまったグレイシーは、二度と故郷に帰る ことは出来なかった。 また、モリーはその後結婚し2人の子どもを設けながら再び捕らえられ、再度脱走することや、子どものうちの1人は3歳の時に 彼女から引き離され、生涯会うことがなかったことなどが、字幕で説明される。こんなひどい政策が、原住民の “保護・教化” の 名目のもとに100年近くも行われていたことに驚かされる。
白人の至上主義・優越意識はいったいいつ頃から始まったのだろう。大航海時代を経て産業革命が本格化した頃あたりからだろうか。どの国どの民族にもそれぞれ固有の文化や価値観があり、白人の文化・価値観はその中の1つにしか過ぎないのだが、どうも彼らには そういう相対的な視点が欠けている。 自分たちが唯一絶対であり、それ以外の文化は「未開」「野蛮」なもの、「教化」「是正」するのが正しいと信じているように 見える。 ケネス・ブラナーの演じる局長ネヴィルにそれがよく表われている。彼はけっして冷酷な男ではない。むしろ善意の人だ。彼がこの 政策を推し進めるのは、アボリジニためになる、と心から信じているからなのだ。文化・価値観の多様性に目を向ける動きはとても のろい。圧倒的に白人文化が世界を覆っているのが現状だ。 幼い少女たちが母に会いたいという素朴な一念で歩き続ける。それだけの物語が、圧殺される民族・文化の痛みを訴えてくる。 モリーを演じた少女の聡明で強い光を宿した眼が印象的だった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー タイム・スリップを題材に、少年と老科学者の活躍を描く大ヒットSFコメディ。 のどかな住宅町ヒル・バレーに住むマーティ(マイケル・J・フォックス)は、どこにでもいるロック好きの高校生だ。変わり者の 科学者・ブラウン博士(クリストファー・ロイド)の助手をしているが、タイム・マシンの改造実験中に突然リビアの過激派に 襲撃され、ブラウン博士が射殺されてしまう。 慌ててタイム・マシン乗ったマーティは、30年前のヒル・バレーにいた。まだ高校生の両親ジョージ(クリスピン・グローヴァー) とロレイン(リー・トンプソン)に出会うが、ロレインがマーティを好きになってしまう。 マーティは現代にもどるために30年前のブラウン博士に会いに行くが、ジョージとロレインを結び付けなければマーティの存在 自体が危うくなるといわれ、ジョージに恋の手ほどきを始める。 タイムスリップものは「過去」の事実をいじってはいけない、というルールがある。それによって現代が変ってしまうタイム・ パラドックスが生じるからだ。 これまでのタイムスリップものは、そこでの葛藤がスリルを生むことが多かったが、本作はそんなことは一向お構いなし、父の ジョージがマーティの励ましで、自分をいたぶるジフをやっつけてし
まったりする。お蔭でマーティが再び現代にもどってみると、ジョージとジフの関係が逆転し、ジフの会社で社長のジフに相変わらずいびられていた ジョージが、逆にジフを使用人として使い、貫禄ある男になっているのだ。 過去を変えたために現代も変わってしまうのだけど、それもOK、というノー天気さだ。 まだある。マーティは現代にもどる前に、ブラウン博士に「30年後に過激派に襲撃されるから気をつけてほしい」と一生懸命 伝えようとするのだが、ブラウン博士は「未来のことを知るのは危険だ」といって、ちっとも聞こうとしない。 「う〜〜む、それは正論だ。タイム・パラドックスを避けるためには未来のことは知らないほうがいいのかも。けど・・・」なんて 思っていると、30年後の現代で過激派に襲撃されたブラウン博士は、なんと、ちゃんと防弾チョッキを着込んでいるのだ! マーティが驚いて「未来は知らないほうがいいと言ったでしょ」と言うと、博士は澄ました顔で「まーいいかと思ってね」と答える。 博士は正論を通したばかりにやっぱり死んでしまった、と一瞬悲壮になりかけたマーティと観客が、ともにズルッとこける瞬間だ。 こんないい加減さ、というかアバウトな感覚が私はひどく好きだ。 映画自体は30年前と現代のファッションやカルチャーの違いがきちんと描きこまれ、過去と現代をつなぐ伏線も周到に張られて、 丁寧な作りになっている。ただ、その根っこの気分がアバウトな遊び心に満ちていて、それがこの映画の楽しさになっている。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」をもとに、冬の八甲田山で命をかけた行軍に挑んだ男たちの姿を描いたドラマ。 明治35年、日露戦争を目前にひかえた陸軍は、耐寒訓練と国威発揚のために、真冬の八甲田山越えを行うことを決める。雪中行軍は 青森第5連隊と弘前第31連隊の双方が青森と弘前から出発し、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。 徳島大尉(高倉 健)率いる少数精鋭の弘前第31連隊27名は、地元の案内人を先頭に立て、綿密な計画のもとに、十和田湖を 迂回して八甲田山を踏破する11日間の日程で弘前を出発する。 3日遅れて青森を立った神田大尉(北大路 欣也)率いる青森第5連隊は、大隊長・山田少佐(三国 連太郎)の指示により210名と いう大編成となったばかりか、案内人もいない状態だった。 神田隊が記録的大寒波の中で道に迷い、立ち往生する一方、徳島隊は計画通りの行軍を続ける。 公開当時、季節は夏だった。3時間近く冷房の効いた映画館で猛吹雪のシーンを見続けていたら、心身ともにすっかり冷え切って、 映画が終って外に出て、夏の蒸し暑さに触れてホッとした記憶がある。それほど、ほぼ全編にわたって大寒波の中の雪景色。撮影隊も 俳優陣もさぞ大変だったろうと思う。 映画が始まった辺りでは、私は、遭難するのは弘前・徳島隊のほうと思っていた。厳寒の八甲田を10日近くもかけて、十和田湖を 迂回して踏破していく。映画の中でも「無理なスケジュール」という科白がでてくるが、それほど無謀に思えたのだ。 一方、青森・神田隊は3日の日程で移動し、あとは列車で帰ってくる。雪中行軍の資料集めという当初の目的からすれば、これは 合理的な計画に見える。
しかし、青森第5連隊に大隊がオブザーバーとして随行することになって、様相が変わってくる。弘前31連隊に負けられない、あちらが少人数なら、こっちは旅程が短い分、大人数で、という大隊長の主張が通ったのだ。 日本の軍隊というのは、どうも、合理的・科学的思考よりも、意地や面子が先行する傾向があるみたいだ。これは軍というより、 日本人の体質か? この八甲田山の雪中行軍も、当初の目的を外れて2つの隊が競う形になってしまったのが、悲劇のもとという気がする。結局、弘前・ 徳島隊は全員生還するが、青森・神田隊の生存者は大隊長・山田少佐以下わずか12名だった。 青森5連隊も、直接の指揮官・神田大尉は、弘前31連隊と同じく少数精鋭で、山に詳しい地元の案内人を立てる計画だった。 そのままでいけばこんな悲惨な犠牲者はでなかったろうに、とじっさいに起きた事件だけに、ちょっとやりきれない気持ちになる。 豪華なオールスターキャストだが、実質的な主役は神田大尉を演じた北大路欣也だろう。隊の指揮権は大尉にあることを出発前に上官 将校が確認しながらも、じっさいに行軍が始まれば、大隊長の意見に従わざるを得ない。その葛藤が見応えあるドラマを作り上げて いたと思う。 女案内人に扮した秋吉久美子のぷっくりした笑顔が可愛い。紅一点の存在感をしっかり示していた。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 疾走する列車の中で起きた謎の事件に巻き込まれるヒロインの姿を描いたサスペンス映画。 バルカンの小国バンドリカでは雪崩のために列車が立ち往生し、ホテルは宿泊客で溢れかえっていた。アメリカの富豪の娘アイリス (マーガレット・ロックウッド)も一泊することになり、音楽教師の老婦人ミス・フロイ(メイ・ウィッティ)やイギリス人ギルバート (マイケル・レッドグレイヴ)と知り合う。 翌朝ダイヤは復旧し、アイリスはミス・フロイと同じコンパートメントに乗り合わせるが、一眠りして目を醒ますと彼女の姿が消えて いた。乗客や車掌はそんな人物はいないと取り合ってくれない。ギルバートだけがアイリスの言葉を信じ、一緒にミス・フロイを探して くれるのだが・・・。 さっきまでここにいた人が忽然と姿を消してしまう。一体どこへ消えてしまったのか? これだけでも1本のミステリーが出来る。 そこへ持って来て、だれもが「そんな人は初めからいなかった」と口をそろえていうのだ。「あなたが夢を見たのでしょう」とか いわれたら、どんなに不思議な気持ちになるだろう。これだけでもワクワクしてしまう。 列車に舞台が移ってからは、前半はこのミステリーでぐんぐん引っ張っていく。
ミス・フロイはやはり「いた」と信じてくれる人(ギルバート)が現われると、「では彼女はどこにいったのか」という
謎になる。なにしろ場所は一度停車しただけの疾走する列車の中、つまり一種の “密室” 状況なのだ。このミス・フロイの “隠し場所” のトリックがじつに巧妙だ。そして、それをアイリスとギルバートが見破るきっかけが、“尼さん の履いているハイヒール” というのが面白い。 こうしてミス・フロイが発見されると、後半は英国スパイの出国を阻もうとするバンドリカのスパイ団と、ギルバートを中心とする 列車乗客との銃撃戦だ。がらりと雰囲気を変えてくるところが、ヒッチコックの巧いところだ。 それにしても人の好さそうな太ったおばちゃんほど曲者はいない。なぜなら、誰だって「ごく平凡なふつうの人」と思うに決まって いるからだ。しかも、楽教教師という触れ込みのミス・フロイが国外に持ち出す “暗号” は、彼女の口ずさむメロディのなかに 隠されている。こんなことを一体
だれが想像するだろう。『三十九夜』(35)同様、アイデアの奇抜さにうならされる。「この国の人は音楽が好き」という彼女の言葉にころっと騙されていたけれど、雪のために客がホテルに足止めされていた時に、 すでに伏線が張られていた。そのことに、後になって思い当たる仕組みだ。 ミス・フロイは使命遂行のために、銃弾飛び交う中を勇敢にも列車から飛び出していく。やっぱりただのおばちゃんではなかった! てっきり死んだとばかり思っていた彼女だが、ギルバートたちが外務省にやっとも思いでたどり着くと、例のメロディをピアノで 楽しげに弾いている。肝心のメロディをアイリスへの求愛が成功して有頂天になった途端に忘れて、ギルバートがうろたえる直後だけに、 このラストシーンは気が利いている。 クリケットの試合しか眼中にないイギリス人二人組のとんちんかんぶりや、ギルバートのうっかりぶりなどヒッチコックらしい ユーモアが随所にまぶされて、イギリス時代の彼の作品の中では一番好きな映画だ。 【◎○△×】8 |
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ストーリー ある日、元警部の梶(寺尾 聰)が出頭してくる。3日前に妻を殺したというのだ。妻の啓子(原田美枝子)は若くしてアルツ ハイマー病となり、梶は看病のために辞職していた。 梶は素直に取り調べに応じ、“完落ち” も目前と思われた。しかし、自首するまでの2日間については固く口を閉ざし、取調べに 当たった捜査一課の志木(柴田 恭兵)もこの “半落ち“ 状態に困惑する。やがて、“空白の2日間” に梶が新宿歌舞伎町に行って いたことが分かる。妻の死体を放置したまま、彼はいったい歓楽街で何をしていたのか。 警察はこのスキャンダルの揉み消しに躍起となるのだが・・・。 映画が始まってわりに早い段階で、「梶はだれかを庇っている」とか、「誰かのために生きている」という台詞が取調官たちから出て くる。一体なにが根拠でそんなことが分かるんだろう。とても奇妙な気分になる。 ほかにもこの映画は変なところがある。例えば、空白の2日間は捜査上の秘密のはずなのに、
なぜか検察も取材記者もみんな知っているのだ。「死に場所を探して県内を歩き回っていた」という梶の供述に対する、志木の反応も変だ。梶は、空白の2日間を隠すため、いはば 自分の意志でこの供述したのだ。それなのに、志木はまるで自分が無理に言わせたような、大仰に悲痛な態度を示すのだ。 原作は、この辺りは納得いくように書かれているんだろうか。 私は原作は読んでいないので、映画だけの印象なのだが、梶の行動がまるで美談のように描かれるのも、とても奇異に映る。梶が どれほどの人格者であれ、妻殺害にいたるまでにどれほど同情すべき事情があったにせよ、少なくとも妻を殺した犯人として 出頭しているのだ。 その現実をきちんと抑えた冷静なストーリー運びが必要なんじゃなかろうか。全体に情緒過多で、それを当然のように押しつけてくる べったりした感覚が、私には少々居心地悪い。 元警官による嘱託殺人、警察の面子をかけての検察との裏取引、記者との駆け引き、など素材としては相当面白い。しかし、後半、 アルツハイマー病の介護や骨髄移植に話が移って、急速に焦点が拡散したような気がする。テーマを欲張りすぎたのかもしれない。 【◎○△×】6 |
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ストーリー ニューハンプシャー州の静かな町、ハイランド。小児科医のキャロライン(メリル・ストリープ)は、彫刻家の夫ベン(リーアム・ ニーソン)、17歳の息子ジェイコブ(エドワード・ファーロング)、娘ジュディス(ジュリア・ウェルドン)の4人暮らしだ。 ある日、病院に運びこまれた少女の死体を見て驚く。ジェイコブのクラスメート、マーサだったからだ。帰宅した彼女のもとに地元の 警察署長フラン(ダニエル・フォン・バーゲン)が訪れ、ジェイコブにマーサ殺しの容疑がかかっている、と伝える。その日の朝、 ジェイコブと口論して気が咎めているベンは動揺する。 敏腕弁護士のデメリス(アルフレッド・モリーナ)がジェイコブの弁護を引き受ける。しかしベンは息子を無罪にしたいあまりに、 「事件の前にマーサとは別れた」という作り話をさせる。 息子に殺人容疑がかかっていると知った時の両親の反応の違いが面白いと思った。父親ベンは(変な言い方だが)何の疑いもなく それを信じる。それは、たまたまその日の朝、息子と口論したりして、「そのためにひょっとして」という親としての後ろめたさも 働いていたからだろう。 車のトランクにあった血の付いたジャッキや手袋は、まさに息子の犯罪を証明している。と思ったベンは、反射的にそれら の “証拠” を隠匿したり、消滅させてしまう。 ところが、母親キャロラインは「自分の息子がそんなことをするはずがない」と、ハナから容疑を信じない。自分が生み、育てた、と いう女親の理屈を超えた自信だ。これは母親の一人として、大
いに肯ける部分だ。しかし、ベンが証拠を隠滅したことも、彼女にとっては「息子の無罪を証明するかも知れない」ものを消滅させたことになってしまう、 という辺りは少し「う〜〜ん」となる。私だったら血の付いたジャッキや手袋を見た時点で、揺らいでしまいそうだ。 キャロラインの自信は大したものだが、「信じたくない」「そんなはずはない」と、事実を見ることを拒否しているようにも思える。 それだけに後半の、真実こそ大事だという彼女の信念はいささか立派過ぎる気もする。 親の気持ちとしてベン、キャロライン、どちらもとてもよく分かるのだが、どちらかといえばベンのうろたえぶりにより共感して しまう。高潔な人物を演ずることの多いリーアム・ニーソンだけに、息子を愛するあまり親の弱さを露呈してしまう父親がいっそう 身近に思えてしまうのかもしれない。 結局、マーサは事故死だったことがわかり、ジェイコブは殺人罪はのがれるが、証拠隠滅の罪を問われて、ベンともども有罪の実刑 判決を受ける。息子を思うベンの行為がかえって悪い結果を呼んだのだ。 親の愛なんて得てしてこうしたものだと思う。決して立派なものではなく、むしろ愚かなものなのだ。この結末は身につまされると 同時に、深く肯くものがあった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー ポーランドの国民的詩人アダム・ミツキエヴィチが、1834年に亡命先のパリで発表した長編叙事詩『パン・タデウシュ』の映画化。 原作はポーランドの人々に広く読み継がれてきた国民的読み物で、ナポレオンのモスクワ遠征を控えた1811年から12年、第三次 分割でロシア支配下にあったリトアニアの農村が舞台となっている。 学業を終えて叔父ソプリツァ判事(アンジェイ・セヴェリン)の館に帰ってきたタデウシュ(ミハウ・ジェブロフスキー)は、庭で ホレシュコ家の娘ゾーシャ(アリツィア・バフレダ=ツルシ)を見かけ、一目惚れする。しかしホレシュコ家とソプリツァ家には浅からぬ 因縁があった。 20年前、タデウシュの父ヤツェク(ボグズワフ・リンダ)がホレシュコ卿の一人娘へのプロポーズを断われた腹いせに、ロシア軍の 襲撃に便乗して卿を射殺し、逃亡してしまったのだ。ホレシュコ家の老臣ゲルヴァズィ(ダニエル・オルブリフスキー)はそれ以来、 復讐の機会を狙っていた。 劇場で予告編を見た時は清新なラブストーリーかと思ったが、予告編に登場したタデウシュとゾーニャはむしろ脇役で、土地の小貴族、 ソプリツァ家とホレシュコ家の確執をめぐって展開する物語だった。それに、妖艶な中年女性のテリメーナ(グラジーナ・シャポウォフ スカ)や、謎の僧ローバク(じつは20年前に失踪したソプリツァ家の当主でタデウシュの父でもあるヤツェク)が絡むという趣向だ。
ホレシュコ家の老臣ゲルヴァズィが煮ても焼いても食えない一徹の頑固者。20年前にヤツェクに当時の当主ホレシュコ卿を殺された
ことを今だに恨んでいる。年は取っても血気盛ん、芸術家肌の現当主・ホレシュコ伯爵(マレク・コンドラト)を煽っては、ソプリツァ家との戦いを強硬に 主張する。 顔に傷のある禿げ頭のひげ親父。私には一番印象に残る面白い存在だ。どこかで見たことのある顔だ、と映画を見ている間中ずっと 考えていて、ハタと気づいたのは、あの『ブリキの太鼓』の2枚目、『愛と哀しみのボレロ』では世界的音楽家に扮したダニエル・ オルブリフスキー! かつての繊細な美青年が20数年を経て、見事に変身しての登場だ。思わず(内心で)拍手してしまった。 ナポレオンのロシア遠征軍が着々と近づいているという情報がもたらされる度に、司祭ローバク
が領地の村人たちに、リトアニア独立の反乱を起こそうと煽動して回る場面が表われる。ナポレオン軍のリトアニア通過に便乗して、
ロシアからの独立を果たそうというのだ。映画の最後では、ナポレオン軍がロシア軍を蹴散らし、村人たちがリトアニア解放の喜びに湧くシーンが出てくる。しかし ナポレオンはその後、冬のロシアで大敗北を喫したことは、よく知られた歴史的事実だ。 映画は、パリに亡命した原作者ミツキエヴィチが、同じく亡命した友人たちに望郷の思いを込めて自作の物語を朗読して聞かせる形に なっている。つまり、民族解放の喜びと、それが一時の夢で終った悲痛を描くことが、この映画の本当の主眼らしい。 しかし、ポーランドやリトアニアの歴史が分らないせいもあって、そういう壮大さよりも、むしろソプリツァ家とホレシュコ家の いさかかのんびりした争いと、それにまつわる人間模様を綴った物語という印象を受け、そういう意味ではユーモラスで楽しい映画 だった。 【◎○△×】7 |