| 【映画メモ】 お で始まる映画 |
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ストーリー 空挺部隊の元軍曹ダニー・オーシャン(フランク・シナトラ)は、妻とうまくいってない憂さ晴らしに、賭博の町ラスベガスの カジノを5つ同時に襲撃しようという大胆な計画を立てる。 彼は、サム(ディーン・マーティン)、金持ち息子のジミー(ピーター・ローフォード)、電気技術師バーグドーフ(リチャード・ コンテ)、ジョシュ(サミー・デヴィス・ジュニア)ら、かつての戦友10人に声をかける。 大晦日の午前0時ちょうどに停電させ、その隙に金を奪う作戦は成功し、大金を運ぶゴミ運搬車は非常線をゆうゆう突破する。 ところが、持病を持っていたバーグドーフが突然の発作で急死してしまう。おまけにジミーの母の6番目の夫サントス(シーザー・ ロメロ)が計画をかぎつけ、口封じの金を要求してくる。こうして事態は思わぬ方向に・・・。 5つのカジノを同時襲撃というのは、話としては面白いけど、欲張りすぎ。よほどテンポよく進めないとまとまりがつかない。それに してはこの映画はひどくノンビリしてほのぼのムードだ。 主要登場人物が11人というのも多すぎる。公開当時、「シナトラ一家勢ぞろい」とずいぶん話題になったものだが、みんな出そうと してこういう人数になったのかな?
私はシナトラ一家といえば、ディーン・マーティンとサミー・デイヴィス・ジュニアくらいしか
知らないのだけど、そういえばピーター・ローフォードやリチャード・コンテ、シーザー・ロメロなんかも、シナトラたちと
共通の “ちょっと小粋なやくざ” という雰囲気がないではない。思うに当時のアメリカのファンにとっては、「このメンツが勢ぞろい!」ということが感激で、そのこと自体に意味があったのかも しれない。 ストーリーは今一だけど、スタイリッシュな場面はけっこう多く、それなり楽しめる。(ドアノブに夜行スプレーをかけたり、 スタッフ・オンリーの部屋にすっと入り込む時の動きの垢抜けていること! カッコいいなぁと、つい見惚れる。) とくに最後の、教会に安置されたバーグドーフの棺を開けて遺体を持ち上げ、なかに奪った札束を入れるオーシャンらの シルエットや、まさか火葬と思わずにいた彼らが、棺が焼かれていることに気づいて順繰りにたがいの顔を見る流れなど、スマートさと ユーモアが巧みにミックスされて、印象に残るシーンになっている。 大計画が夢と潰えてもさばさばしているところも、お洒落だなぁと思った。シャーリー・マクレーンが可愛い酔っ払いでカメオ 出演しているのにびっくりした。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 親子ほど年の離れた2人が愛し合い、そして “死” という大きな壁にぶつかるラブ・ストーリー。 48歳のウィル(リチャード・ギア)はニューヨークで高級レストランを経営するプレイボーイ。ある夜、彼のレストランで チャーミングな女性シャーロッ(ウィノナ・ライダー)トの22歳の誕生日パーティが開かれた。ウィルは帽子のデザイナーだという シャーロットに惹かれ、彼女の電話番号を聞き出し、強引にデートを重ねる。 刹那的な恋愛ばかり繰り返してきたウィルに訪れた初めての本当の恋。しかしシャーロットは心臓に不治の病を抱えており、余命 一年と宣告されていた・・・。 『ラスト・エンペラー』(87)で悲劇の皇后を演じたジョアン・チェン。凄絶な美貌とアヘン中毒で錯乱した演技が忘れがたい。 監督に転じては『シュウシュウの季節』(98)という優れた作品を送り出し、監督としてもすごい才能を持っている、と期待したのだ けど、正直いってがっかりした。 ウィルが中年になってもモテモテのハンサムだというのはいいとしても、それを自分で意識してい
るような匂いが紛々とするのはやはり興醒めだ。二枚目は、自分が二枚目であることに無頓着でないといけない、それが二枚目の美学だ
と思うのだが・・・。これは演出というより、リチャード・ギアの個性なんだろうか。ギア自身は嫌いな俳優ではないが、本作のウィルはあまり好きに なれない。どうも人物像が薄っぺらなのだ。 そのせいか、シャーロットとの恋も、いつもは自分が言っている別れの台詞を、逆に相手から言われてしまったために、未練が生じた だけなんじゃないか、とつい勘ぐってしまう。一度振った女とばったり会ったらその夜のうちにセックスし、シャーロットにばれると 「抑えられない」とかいうのも、いただけない。 ウィルの人物像をしっかり描かないと、愛する人の余命1年、とせっかく劇的な状況を用意しても、ドラマが少しも盛り上がって こないと私は思う。 彼が孫を抱いて、娘と一緒にボートに乗っているラストシーンもちょっと首をひねる。本作のリチャード・ギアは正直言ってとても キザな男だが、それならそれで、そのキザさを押し通してほしい。背中丸めて赤ん坊にミルクをやっているギアなんて、似合わないこと おびただしい。 この映画で印象に残ったのは、秋の黄葉が美しいセントラル・パークを主人公2人が散策するシーンくらいなものだった。 【◎○△×】5 |
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ストーリー ブロードウェイ・ミュージカルの演出家を主人公に、華やかなショー・ビジネスの世界の表と裏を描いたボブ・フォッシーの自伝的 映画。 ブロードウェイ・ミュージカルの大物演出家ジョー・ギデオン(ロイ・シャイダー)は、別れた妻オードリー(リランド・パーマー) を主演にすえた新作ミュージカルのアイデアに苦心していた。 酒と女と煙草、そして多忙な生活に蝕まれたジョーは、死の天使(ジェシカ・ラング)の幻想をたびたび見るようになる。ついに 過労から心臓発作を起こしたジョーは、ベッドの上でこれまでの人生を振り返るのだった。 カンヌ国際映画祭グランプリ、アカデミー賞では音楽・美術監督装置・衣装デザイン・編集などを受賞、監督のボブ・フォッシーは この映画で予感したかのように60代で亡くなっている。 オーディションのざわめきの中で映画は始まる。充血した眼に目薬を差す、日に何度も薬を飲む、鏡の前で疲れた自分を励ますように 両手を広げ、“It‘s a Show Time.” とポーズを作
る。頻繁に挿入されるジョーのこれらのショットから、一見華やかなショー・ビジネスの世界の苛酷さが皮膚感覚にびんびん伝わってくる。 過労と不規則な生活でぼろぼろになりながらも、なお新作のミュージカルにかけるジョーの執念が凄まじい。 しかし、この映画からいわゆるバックステージものとは少し変わった感じを受けるのは、ジョーがいつも自分の死を感じているらしい ところだ。彼が新作映画の編集でこだわるのは、スタンダップ・コメディアンが早口で喋りまくる【死に向かう5段階】のネタだ。 “怒り”→“否認”→“交渉”→“絶望”→“受容”ーー「何で自分が死ななければならないんだ!」「そんなバカな。自分が死ぬ はずはない」「なんとか生き延びさせてくれ」「どうしてもダメか・・・」「しかたない」。こうして人はあきらめ、死を受け入れる。 心身をすり減らす極限状況で、体の不調を感じるジョーは、やがて “死” の天使の幻想をたびたび見るようになる。天使に扮する ジェシカ・ラングは優しくて温かいのだが、生々しさのない、ちょっと不思議な雰囲気をかもし出す。 私は初め、彼女は一体なにものなのかと思っていたのだが、だんだんと、彼女に包まれてジョー
は癒されているのだと感じ出した。
彼女に過去の過ちや死の不安を告白し、慰められ、励まされ、受容されて、ジョーは死への準備を整えていく。死を予感しつつも、これまでの生活を変えようとしないジョーを見ていると、ショー・ビジネスの魅力ってまるで麻薬みたいだなぁ、 と思わされる。過労が極まり、心臓発作を起こしたジョーは、死の渕をさまよいながらも、なお、自らの生涯をミュージカルに仕立てる 幻想を見る。これをプロ根性といわずしてなんと言おう。 人工的な空間で繰り広げられるミュージカル。そして、病院の白々した光の中で、ジョーの入った死体袋のジッパーがザッと閉め られるラスト。この鮮やかな対照が「ジョーの “人生” というショーは終った」と告げる。 精悍さのなかに、蓄積した疲労が澱のように淀むロイ・シャイダーの個性が魅力的。ジョン・リスゴーが虚栄心のかたまりみたいな ライバル演出家を演じていて面白かった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 2002年の日中国交正常化30周年を記念して作られた日中合作映画。 北京で小さな旅行代理店を営む市川雄一(渡辺篤史)は、持病の目の病気を漢方医リ・レン(朱旭)に治療されて以来すっかり漢方 ファンになってしまう。 倒産の危機に直面していた市川は、起死回生の作として“漢方体験ツアー”を思いつく。市川に率いられた心身に悩みを抱える日本人 旅行団は、万里の長城の麓にあるリ・レンの家に合宿し、数々のユニークな漢方治療を受けることになる。 不思議に「映画を見ている」という気がしない。ストーリーらしいストーリーがないこともあるが、なにより映画全編をのんびり ゆったりした空気が包み、自分も漢方体験ツアーに参加している気分になるせいかもしれない。よく中国を形容する時に “悠久” と いう言葉を使うけれど、この映画はまさしくその “悠久” の感で満たされている。 それを伝えてくるのが “万里の長城” だ。漢方医リ・レンの家や薬草工房が長城の麓にあるという設定なので、観光名所として でない長城が始終画面に登場する。そして、ツアー参加者とリ・レン一家のやり取りが長城を舞台に描かれる。 今までさして長城に興味なかった私だが、映画を見ていると「一度いってみたいなぁ」という気分になってくる。この映画の一番の 主役は “万里の長城” そのものかも知れない。 日中国交正常化30周年を記念した映画だそうだが、日中友好を声高に謳いあげるわけではなく、あっさり淡々と流れていく。 その点で物足りなさもあるけれど、一面好感の持てる映画だとも思った。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 天才的な詩人かつ劇作家、オスカー・ワイルドの半生を描いたドラマ。 19世紀イギリス、オスカー・ワイルド(スティーヴン・フライ)は妻コンスタンス(ジェニファー・エール)との間に2人の 息子にも恵まれ、幸せな結婚生活を送っていたが、ロバート・ロス(マイケル・シーン)というカナダ人青年に出会い、自分がホモ セクシュアルであることに気づく。 やがて彼はアルフレッド・ダグラス卿、通称ボジー(ジュード・ロウ)という美青年を愛するようになる。小説「ドリアン・グレイの 肖像」や戯曲「サロメ」など数々の傑作を発表するワイルドだが、彼の同性愛は裁判沙汰に発展する 大スキャンダルとなる。ボジーの父(トム・ウィルキンソン)が彼を訴えたのだ。 かつての愛人ロスは国外への逃亡を進めるが、ワイルドはあえて裁判に望む決意をする。法廷闘争の結果、ワイルドには猥褻罪で 2年の服役、重労働の刑という判決が下る。 オスカー・ワイルドが30過ぎまで、自分の同性愛傾向に気づかずに過ごしてきたというのは、意外だった。オスカー・ワイルド= 同性愛、というのがあらかじめ私の中にインプットされちゃってるせいかも知れない。 それまでごく普通の生活を営んできたにしては、若いカナダ人ロスから誘惑された時、ワイルドは迷わずロスと抱き合う。今と違い 同性愛は重猥褻罪で処罰される時代に、普通なら「お・・・」と引きそうな気がするが・・・。 迷いながら徐々にその世界に深く耽溺するようになったのか、芸術家の資質がポンとその溝を飛躍させてしまったのか・・・。しかし、 冒頭シーンのアメリカ銀鉱山で、上半身裸の若い鉱夫たちを前に講話をする時の、彼らを見つめるワイルドの目はかなり粘っこい。彼 自身まだ自覚していなくても、同性愛の性向を持っていることを強烈に感じさせる場面だ。 演じるスティーヴン・フライって、ボヨンと膨れた顔や眠そうな目とかが妙にセックスを感じさせる不思議な俳優だ。 ボジーは見てくれは男だけど、感じがもうまるで若い驕慢な娘そのまま。ジュード・ロウがじつにうまい。彼に比べると、最初の愛人 ロスはちょうど貞淑な妻みたいな感じ。そこに本当の妻コンスタンスが加わると、もう三角関係だか四角関係だかわけの分からない 様相を呈してくる。 妻や子供に対して変わりない愛情を持ち続け、自分の同性愛も堂々と受け入れる。悪学生にボジーへのラブレターをネタに脅迫された 時の、「今に価値が出るからそのまま持っておきたまえ」と開き直るウィットの素晴らしさ。 ロスもコンスタンスも、ボジーに溺れるワイルドを最後まで見捨てなかったところを見ると、ワイルドってそうとう魅力のある人 だったんだろうなぁと思う。スティーヴン・フライがそんなワイルド像をじつに巧みに演じていたと思う。 【◎○△×】7 |
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ストーリー フレデリック・フォーサイスのベストセラー小説を映画化。ナチズムの復活に警鐘を鳴らすサスペンス・ドラマ。 1963年、西ドイツのハンブルグ。ケネディ大統領暗殺ニュースが世界を駆け巡った日、1人の老人が自殺する。ルポライターの ペーター・ミラー(ジョン・ヴォイト)は母の家を訪ねた帰り、偶然その現場に出くわす。老人が残した日記には、ナチ収容所での 地獄のような生活を記録してあり、収容所長だったロシュマン大尉(マキリミリアン・シェル)への復讐が果たせず、絶望のうちに 自殺することが記してあった。 興味を感じたミラーは、老人の死の真相を調べるうちに、元ナチスSS隊員からなる秘密組織 “オデッサ” が健在であることを知る。 組織はクモの糸のようにヨーロッパ各地に張りめぐらされ、メンバーの職業も裁判官、弁護士、警察と広範囲にわたっていた。彼は元 SS隊員に化けて “オデッサ”に潜入を図る。 ミラーが元ナチSS隊員を装って“オデッサ”の幹部に面接試験を受けるシーンはすごい迫力。収容所の建物の上には何が見えたかと 聞かれ、一瞬詰まって「空」と答えた時は、もう万事休すかと思った。 しかし、スリルがあったのはこの辺りまで。ミラーの正体は意外と簡単にばれてしまうし、そのことにミラーがまたすぐ気づいて手を 打つという、何とも盛り上がりに欠けた展開。 それにしても、偶然出くわした老人の死の真相を探るのが目的だったはずなのに、どうしてミラーは命の危険を冒してまで組織に潜り 込もうとするんだろう、と途中から不思議な気がし始めていたのだが、最後の最後に、ロシュマンに殺された父の復讐のためだったと 分かって納得がいった半面、「なぁ〜んだ」と興ざめた気分になった。 私怨をからめたことで、急に話が小さくなってしまった気がするからだ。真相を究明したいというジャーナリスト本能と、今も各地に はびこるナチ組織への義憤が彼の行動の動機、という線で最後まで押したほうが、骨太のサスペンスものになったんじゃなかろうか。 リアルタイムで見た時はとても面白いと思ったのだけれど、久しぶりに見て、その辺りで少し色褪せた感じがした。 【◎○△×】6 |
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ストーリー フランソワ・トリュフォーの長編デビュー作であるとともに、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する1本。 12歳の少年アントワーヌ(ジャン=ピエール・レオ)は、家庭も学校も面白くなく、仲間たちと悪さを繰り返していた。その日も 学校で立たされ、アパートへもどれば日課の掃除が待っており、口やかましい母親(クレール・モーリエ)と妻の顔色を窺う父親 (アルベール・レミ)と慌しく食事するだけだ。 ある時、親友のルネ(パトリック・オーフェ)と一緒に学校をサボったアントワーヌは、タイプライターを盗み、警察に捕まって しまう。彼は両親にも見放され、少年感化院に入れられる。 アントワーヌのキャラクターは、実際に家出を繰り返し感化院にも入ったトリュフォーの自画像だといわれている。 体育の授業で町の舗道を生徒たちがランニングするシーンがとても印象的だ。生徒たちが1人、2人、とビルの中や路地の蔭に エスケープし、どんどん減っていく。しかし、のんびり腕の屈伸などをしながら先頭を走る教師は、まったく気づいていない。それを 上から俯瞰するように追うロング・ショット。 大人の規制をたくみにすり抜けていく少年期の心性と、子供たちの本当の姿が見えていない大
人たちのギャップが、見事に映像化されている。学校の教師は叱ってばかりいる。母親はぎすぎすしていて、父親は妻の機嫌取りばかり。うちも学校もく面白くない。 フランソワは学校をサボって友達と町で遊び回ったり、ミニ家出をしたりする。こんなことにしか、気持ちの持って行き場がないのだ。 しかし、日常生活のこんな小さな逸脱が徐々に大きな横道にそれていく。 フランソワの住むアパートの殺風景な部屋が、かさかさに乾いた日常を写している。家庭というにはあまりに荒れた光景だ。環境から 逸脱しないではいられない少年期の子どもの心情が、こんなところからさり気なく伝わってくる。 アントワーヌは親友のルネと、父の勤める会社からタイプライターを盗み出して質に入れようとするが、うまく質入れ先が見つけられ ない。持て余した2人はタイプライター返しに行き、警備員に捕
まってしまう。2人のしたことは悪いに決まっているが、律儀に返しに
行く辺りに子どもらしい可愛さが感じられる。しかし、父親はなんとアントワーヌを感化院に入れるように警察に要求する。面会に来る母親もなんとなくよそよそしい。 映画は、少年院を脱走して砂浜をひた走るアントワーヌのクローズアップで終る。ストップモーションをかけられた彼の顔 からは、両親に見捨てられた少年の孤独が痛いほど伝わってくる。 少年、青年、壮年、老年・・・、それぞれの年代にそれぞれの孤独がある。そして、少年の孤独は無力であるゆえに、いっそう 瑞々しく切ない気がする。 【◎○△×】7 |
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ストーリー ある夜、トキオ(塚本 晋也)はバスタブの冷たい水の底に沈んで動かない妻クミコ(片岡 礼子)を発見する。息をせず、心臓も 止まっている。どうしたらよいか分らず、パニックを起こしたトキオは、クミコを居間のソファに運びそのまま眠ってしまう。 翌朝、目を覚ましたトキオは、クミコがちゃんと生きていて、泥酔した自分を世話しているのに気づき、驚愕する。昨夜のことは 記憶にない、とクミコは言う。風呂の中で君はたしかに死んでいた、と言えないトキオ。 これまで通りの日常が戻って来るが、2人の関係は以前と同じではなくなっていた・・・。 クミコは本当はもう死んでいて、トキオと暮らしているのは彼女の幽霊ではないのか、という興味で初めは見ていたのだが、そういう 種類の映画ではないらしいと途中で思い始めた。 しかし、ちょっとした事故が夫婦の間に思わぬ亀裂を生み、それが2人の関係を壊していく、という夫婦の微妙な関係を描く映画に しては、友人やトキオ本人が「すぐ救急車を呼ばなかった罪の意識」とか「死んでると思った君が一番綺麗だった。その君を永遠に 自分のものにしたかった」などど、いやに簡単にトキオの心理分析をする。 「あ、そうなのか」とすべてが分かった気になる。もっと見る側の想像に委ねる部分を残してもよかったんじゃなかろうか。すべてを 説明すると、底の浅い映画になってしまう気がする。 しかし一番気になったのは、科白がよく聞き取れないこと。録音が悪いのか、俳優の発音が明瞭でないのか、とにかく喋っていること がよく分らない。科白を聞き取ることに神経が取られ、しまいにイライラしてくる。映画を映画として楽しむところまでいかなかった のが残念だ。 【◎○△×】5 |
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ストーリー 刑務所を脱走した2人の男が巻き起こす騒動を描くアクション・コメディ。マイケル・カーティス監督による55年製作の同名作品の リメーク版。 カナダ国境近くの州刑務所に服役しているネッド(ロバート・デ・ニーロ)とジム(ショーン・ペン)は、凶悪犯ボビー(ジェームズ ・ルッソー)の脱獄計画に巻き込まれ、その気もないのに一緒に脱走してしまう。2人は国境の町の教会に神父と身分を偽って もぐり込み、機会を窺う。 聖母マリア像を国境の向こうの教会へ運ぶ祭りの日が来る。行列に加わるには障害者の同伴が必要だ。ネッドは親しくなったモリー (デミ・ムーア)の娘が耳と口に障害を持つことを思い出し、娘の同行を頼むが、モリーは承知しない。 そこにボビーが現われ、自分も連れて行なければ2人の正体をバラす、とネッドを脅迫する。 ハンフリー・ボガート主演のオリジナル版のつもりだったが、始まってみたらリメークのほうだった。そこそこ面白かったけれど、 周りの人たちが2人を神父と思ったなんて「ほんと?」と言たくなるくらい、2人が「らしく」ない。 2人はちょうどその教会を訪れることになっていた世界的に著名な神父兼宗教学者に間違われるのだが、どう逆立ちしてもそう 見えないのだ。デ・ニーロはずる賢い兇悪犯罪者の風貌だし、ペンはいかにもおどおどと落ち着きがない。 デ・ニーロは地のまんま、ペンは演技力、という言い方も出来そうだが、2人の呼吸がしっくりいかないまま話が進んだ感じもする。 そんなちぐはぐな感じが最後まで取れなかった。 ただ、新人修道士に扮したジョン・C・ライリーの純真さは、ユーモラスで可愛かった。 【◎○△×】5 |
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ストーリー ヒットラーが政権を取った1933年のある日、メキシコのベラクルスから、ドイツのブレーメルハーフェンに向って客船ベラ号が 出航した。船客の1人グロッケン(マイケル・ダン)は、自らをも含
めて、この船を “愚か者の船” と命名する。船には、狂信的なナチ信奉者リーバー(ホセ・ファーラー)、外交官の夫と離婚したばかりの、気位の高い女メアリー(ヴィヴィアン・ リー)、球団をお払い箱になった元野球選手テニー(リー・マーヴィン)などさまざまな乗客や、ジプシー舞踏団、娼婦らが乗り 合わせている。 この航海を最後に下船することにしていた船医のシューマン(オスカー・ウェルナー)は、キューバから乗船してきた政治犯の伯爵 夫人(シモーヌ・シニョレ)に心を揺り動かされる。彼女は、自らの農園で働く労働者たちに人間的な立場から同情し、闘争のための 武器を与えたのだ。一方、伯爵夫人もシューマンの飾り気のない態度に好意を寄せる。 アカデミー撮影賞・美術監督賞を受賞した。またヴィヴィアン・リーの最後の出演映画となった。 本作は、限られた空間で展開されるいわゆる “グランド・ホテル形式” の映画だが、“グランド・ホテル形式” というのは、多くの 登場人物たちが同時進行的にさまざまなエピソードを繰り広げるため、全体としてバラバラな印象になりやすい。
各エピソードを交錯させたり、中心になる強い流れを作ったり、それ相応のワザがいると思うのだが、本作はどうもそれが
成功しているとは思えない。話が羅列的でまとまりが悪く、その上、どのエピソードもあまり魅力的ではないのだ。船医と伯爵夫人の
淡い恋が多少印象に残る程度か。しかしそれとても、政治犯として流刑地に護送される伯爵夫人と、心臓の持病を持ち、妻との仲も冷えている船医という、それぞれの 背景が2人の恋にほとんどからんで来ないので、陰影は意外に浅い。 端正な顔立ちの小男、グロッケンがこの船を “愚か者の船” と名づけるのだが、彼をこの船の観察者としてクローズアップ し、“なぜそう呼ぶことにしたのか” という彼の視点を前面に押し出したら、話に1本、筋が通ったかもしれない。出演者が豪華な 割りに薄っぺらな仕上がりで、もったいない気がする。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 圭子は(高峰 秀子)銀座のバーの雇われマダムだ。夫が亡くなり、マネジャー小松(仲代 達矢)の口ききでこの世界に入って5年に なる。 以前圭子の下で働いていたユリ(淡路 恵子)が店を出し、上客を取られてしまう。圭子は久しぶりに現われた高級利権屋・美濃部 (小沢 栄太郎)の案内で、ユリの店へ行ってみる。店は繁盛していたが、ユリは借金苦から自殺してしまう。 圭子は過労から胃潰瘍になり佃島の、実家で正月を過すが、おちおち寝てもいられない。バーの女将まつ子(細川 ちか子)が、集金に 回れ、と暗に催促に現われ、兄(織田 政雄)は借金が訴訟になったため、弁護士費用を用立ててくれという。 プレス工場主・関根(加東 大介)の誠意が心にしみて、圭子はプロポーズを受ける決心をするが、彼には妻がいることが分かる。酒に 溺れ、圭子は銀行支店長の藤崎(森 雅之)と一夜を過す。しかし彼も、大阪支店へ転勤が決まっていると言って去る。 高峰秀子はこれまで見た彼女の映画の中では一番綺麗。だけど色気のない人だなぁ・・・。身体の内側から匂いたってくるような 女っぽさがないのだ。 彼女目当てに何人もの男たちが通ってくるというのが、私にはちょっと解せない気分。触れなば落ちん風情なのに難攻不落、凛として いるのに柔らかい、というところで男性は「我こそは」と思うんじゃないのかなぁ。でも彼女の場合は女学校の先生みたいな青臭い固さ ばっかりの印象だ。
映画の終わりのほうで、藤崎の妻が圭子のことを「きちんとして、バーの人じゃないみたい」という場面があるが、これは
女優・高峰秀子そのものを言い当てているような気がする。私が一番面白かったのは、兄が借金を申し込みに圭子のアパートを訪ねてくる場面だ。その直前に弁護士費用を工面してもらった ばかり。ふつうなら「どのツラ下げて」という状況だ。なかなか用件を言い出さない。 圭子がイライラして「何なのよ一体。どうせまたお金のことなんでしょ」という。「いや、俺のことじゃないんだ」「息子のこと なんだ」「医者に手術すれば治るといわれたけど断わるつもりなんだ。金もかかるし」。 「だったら来ることないじゃない」。こんなやり取りがズキズキするほど真に迫っている。 そして、「どうして俺はこんなに意気地なしに生まれついたんだろう」「もういい。虫がよすぎるよ」と言いながら、圭子が「いくら いるのよ」というと、飛びつくように金額を言い、「もうこれっきり来ないから」「最後だと思って助けてくれよ」「息子がかわいそう だと思ったら」とかきくどく。 こんな具合に身内の情に絡まれたら、やっぱり抜けられないだろうなぁ。成瀬監督はこんな場面に演出の冴えを見せる。兄を演じた 織田政雄、気が弱くて人が好くて意気地なしで・・・、ほんとにうまいと思った。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 近松門左衛門の同名浄瑠璃をもとに、女の魔性が生み出した愛の地獄を描いている。 大阪の油屋、豊島屋の女房・お吉(樋口 可南子)が惨殺された。油と血が混じりあった現場には“河内屋”の銘の入った油樽が 転がっていた。 かつて河内屋に奉公していた頃、次男の与兵衛(堤 真一)の乳母がわりもしていたお吉は、彼の放蕩三昧の尻ぬぐいをしてやって いた。 与兵衛が油屋元締めの娘・小菊(藤谷 美和子)と密会を重ねていることを知ったお吉は、何とか2人を別れさせようとするが、2人は 小菊が別の男と結婚しても密会を止めようとしない。小菊の高慢な態度に女の意地と嫉妬心を燃え上がらせたお吉は、みずから与兵衛を 誘惑し始める。 樋口可南子が美しいのにほんとにびっくりした。彼女の映画はほとんど見たことがなく(本作以外に『阿弥陀堂だより』のみ)、 なんとなく小造りのちまちました顔という印象しか持っていなかったが、挙措のたおやかさ、居ずまいの端正さ、日本女性の本来の 美しさってこんな風だったんだろうか、とつくづく見惚れてしまった。 ただ、彼女の演ずるお吉の人物像については物足りなさを感じた。映画冒頭近くの小箱を取り合って与兵衛と争う場面からして、 お吉は与兵衛に対して触れなば落ちん風情を示す。 その後も、説教、とりなし、と口実はさまざまだけど、彼女の与兵衛に対する態度には常にただ
ならぬ雰囲気がまとわりつく。与兵衛はお吉を乳母代わりの“おばさん”、つまり女と見てないから驚くほど鈍感だけど、ふつうの男なら一遍で彼女をどうかして しまおうと思いそうなほどの色気だ。なぜ彼女がこれほどの媚態を与兵衛に示すのかが分からないので、奇異な感じを持って しまう。 たとえば、子守をして育てた与兵衛をいつか男と意識するようになり、彼に慕情を寄せるようになったというのなら、夫のある身 ながら、彼を誘惑しないではいられないお吉の心理をきちんと描いてほしい。そうすれば、お吉が自分で与兵衛に言う “女の魔性” が えぐり出せたかもしれない。 与兵衛も、小菊に対して心中しようと思いつめるほど本気なのか、大人への反抗でとりあえず手を出しているだけなのか、判然と しないし、お吉と関係が出来てからは、なりゆきで彼女を刺してしまったという印象だ。2人の女に適当に振り回されているだけという 感じなのだ。 与兵衛も小菊も深い考えもなく、若さの勢いで奔放に振舞っているのは分かるので、要めはやはりお吉だろう。与兵衛にとって 小菊は前座、お吉が本命、と2人の女の比重をはっきりさせて、不倫の泥沼にあがいて思い余った末に与兵衛はお吉を殺してしまう、と いう風にメリハリをつけたらストーリーは俄然面白くなったと思う。 全体に痴情沙汰のどろどろした感じはなく、あっさり美しく描かれているのは悪くないが、与兵衛・お吉の人物像や2人の関係の 輪郭がぼんやりしている。そこが一抹の物足りなさともなっている。 【◎○△×】7 |
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ストーリー ピッツバーグの教師フェイス(マリサ・トメイ)は、子どもの頃、占いで告げられた“デイモン・ブラッドリー”という名の運命の 人の存在を今も信じている。青年医師との結婚を間近にひかえたある日、フェイスは偶然取った電話のかけ主の名が “デイモン・ ブラッドリー” と知って驚く。 彼のあとを追いイタリアへ飛んだファイスは、ローマでついに対面を果たすが、じつは彼はボストンの靴セールスマン、ピーター・ ライト(ロバート・ダウニー・ジュニア)だった。フェイスに一目惚れしたピーターは、デイモンと間違われていることを知り、 とっさに嘘をついたのだ。 マリサ・トメイは好きな女優の1人なので、楽しみにして見たのだけれど、期待外れだった。彼女は「現実的」な匂いの強い人で、 こういうロマンティック・コメディはちょっと雰囲気が違うなぁ、というのが正直な印象。 トメイの扮するフェイスは我が侭で手に負えない、ロバート・ダウニー・ジュニアがそこまで入れ込むような女かな、という感じが 先立ってしまうのだ。メグ・ライアンとかジュリア・ロバーツ辺りなら、それでも愛らしいから許しちゃう、という感じになるんだ ろうけれど。 もともと設定が無理。運命の人 “デイモン・ブラッドリー” の名を言うように兄貴がジプシーの占い師に頼んだり、ピーターが 友人に “デイモン・ブラッドリー” を装わせたりするのがあまりに不自然で、最後まで話に乗れなかった。 【◎○△×】5 |