| 【映画メモ】 い で始まる映画 |
|
ストーリー ジョン・アップダイクの同名小説を『マッドマックス』のジョージ・ミラー監督が映画化したファンタジー・コメディ。 彫刻家アレキサンドラ(シェール)、音楽教師ジェーン(スーザン・サランドン)、ジャーナリストのスーキー(ミシェル・ファイ ファー)の3人の未亡人は、魔女伝説の残るニューイングランドの田舎町イーストウィックに住んでいる。 ある嵐の夜、3人で理想の男について語り合っていると、ダンディでセクシーな男ヴァン・ホーン(ジャック・ニコルソン)がやって くる。じつは彼は愛に飢えた “悪魔” だった。 ハーレムのような奇妙で楽しい四角関係が始まるが、やがて3人は “悪魔” を厄介払いしたいと思うようになり、禁断の魔術を実行に 移すことにする。 出演者の顔ぶれからするともっと面白くなってもよさそうだが、どことなく不完全燃焼。シェール、スーザン・サランドン、ミシェル ・ファイファーの3人に、はっきりした個性の違いがないのが弱い。 シェールは3人の中では姉さん的存在かな、とか地味だったスーザン・サランドンは後半はいやに大胆に色っぽくなりましたね、とか 思うけれど、言ってみればその程度なのだ。ミシェル・ファイファーなどは、小さい子どもがいやにたくさんいたっけ、くらいの印象しか ない。
たとえば、はぜ豆みたいに怒りっぽい、メソメソ泣き虫、陽気でノー天気、とかくっきり個性が違っていて、その3人が後半はがらっと
性格が変わり、連係プレーよろしくニコルソンをキリキリ舞いさせる、という具合に、メリハリをつけたら、もっと印象が強くなった
だろうと思う。せっかく実力派をそろえているのに勿体ない。一番強烈なのは、千里眼的に4人の関係を見通して、わけの分からぬ危機感を募らせる超道徳夫人フェリシアだ。ヴェロニカ・カート ライトが完全に3人を食ってしまっている。彼女が死んでしまった後は、ストーリーの求心力がなくなってしまったほどだ。 ニコルソンの駄々っ子悪魔ははまり役。女心のツボを押さえ、フェミニストぶりを発揮して3人を口説き落とす辺りはなかなか手際が よい。それでいて、3人が自分を捨てようとしているのを察すると、「愛がほしい」「ふつうの男と変わらないんだぁ」と地団駄を踏む。 ラストの、テレビに現れて赤ん坊をあやす顔なんて、もうやんちゃそのもの、可愛いったらありゃしない。 4人がペアでテニスをするシーンが楽しい。ボールが勝手に動き、4人があたふたさせられる。ミシェル・ファイファーがお尻でポーン と打ち返す場面はとってもキュート。あんな可笑しさや楽しさがもっともっとほしかった。 【◎○△×】6 |
|
ストーリー 1920年代のローマ。兵役を終えたウリッセ(アラン・ドロン)は、仕事が見つからず、宣伝に乗せられて何も知らずにファシストの 黒シャツ党に入る。彼の最初の仕事は反ファシストのビラを作った印刷所を探すこと。 最初に調べに行った印刷屋で店の手伝い頼まれ、そこの可愛い娘フランカ(バルバラ・ラス)に一目惚れしたウリッセは、住み込む ことにする。ところがここは反ファシストの幹部の家だった。ウリッセはフランカの気を引くために、大物アナーキスト、カンポサントを 装うが・・・。 『太陽がいっぱい』を成功させたルネ・クレマンとアラン・ドロンのコンビが、同じ年に発表したライト・タッチの政治コメディ。 若い頃の軽い二枚目を演じるアラン・ドロンは、天真爛漫な明るさが素敵だ。同じ年に『太陽がいっぱい』で屈折した青年を演じている とはとても思えない。 彼が扮するウリッセは、可愛いフランカの気を引くことだけが関心事。そのために印刷所に住み込み、大物テロリスト、カンポサント (=“墓場”)になりすまし、引っ込みつかなくなって破壊工作をしている振りをし、・・・とみんなずるずる成り行き任せだ。それでも ぜんぜん悩んだり困ったりしない。フランカとデートできれば、それが “生きる歓び”。こんなシンプルな人生もいいなぁ、と思わせる 明るさに満ちている。 ここに登場するアナーキストたちが全然アナーキーでないのが微笑ましい。国賓がこの国を訪れる時は、彼ら “危険分子” は監獄に 留置される慣わしになっている。「危険」と見なされるのが彼らの誇りだ。いそいそと準備して、警察のお迎えを待つ。
フランカが18歳になって、監獄に「入れる」(「入れられる」ではない)ようになると、1人前になったとお祝いをする変な
連中だ。監獄の告解室には抜け穴があって、留置中も彼らは自由に外に出入りできる。ウリッセも破壊工作と称してフランカと外でデートを 楽しむ。(もっとも、フランカはほんとうに爆弾を仕掛けるために、2人であちこちに出かけているのだと思っているのだが。) そのうちに、本物のテロリストたちが現われて、彼らの仕かけた爆弾が爆発し始めると、ウリッセの尻に火がついてくる。何しろ、 爆弾犯人が “墓場” だと思われてしまったからだ。ウリッセは今度はせっせと彼らが仕掛けた爆弾を回収しては、テロを妨害するように なる。顔もこの頃にはちょっとは引き締まってくる。 政治も信条も関係ない、彼にとって大事なのは、フランカとの恋と平和、それだけ。そんなシンプルなメッセージが、軽快なコメディ ・タッチの中から伝わってくる。 家族に独居宣言をして屋根裏部屋に住む、フランカの祖父(カルロ・ピザカーネ)が面白い。風呂に入らずヒゲも剃らず意気は軒昂、 元気なアナーキー爺さんだ。ワインが飲みたいばかりにウリッセを “墓場” に仕立て上げ、アナーキスト教育を施す。ラストシーンでは 手作りの爆弾が見事爆発すると「やったぁ」と嬉々とする。彼の存在が楽しい映画のアクセントになっていた。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 『ロゼッタ』(99)、『息子のまなざし』(02)のダルデンヌ兄弟の監督作品。カンヌ国際映画祭の批評家連盟賞、全米批評家協会賞 の外国語映画賞などを受賞。 15歳のイゴール(ジェレミー・レニエ)は自動車の見習工だが、父ロジェ(オリヴィエ・グルメ)の呼び出しがあると、すぐ職場を 抜け出してしまう。不法滞在労働者の仕事の斡旋や宿泊施設の世話、時には彼らの売買も手がけるロジェを手助けするためだ。 ある日、移民局の抜き打ち査察が入り、建築現場で作業中の労働者の1人、アミドゥ(ラスマネ・ウエドラオゴ)が落下して大怪我を 負う。父は警察ざたを恐れて病院に連れて行こうとせず、そのままアミドゥは息を引き取る。死の前に、アミドゥは妻アシタ(アシタ・ ウエドラオゴ)と子どものことを頼むとイゴールに言い残す。 ロジェは、アミドゥは妻子を置き去りにして、借金のために失踪した、とアシタに嘘をつくのだが・・・。 主人公のイゴールは、働いている自動車の修理工場で客の財布から金を抜き取るような少年だ。取り立てて正義感が強いわけではない。 年齢相応にゴーカートに熱中しているが、それも仲間と盗んできた来た部品で組み立てたものだ。タバコを横ぐわえにした格好も けっこうサマになって
いる。イゴールは不法滞在労働者の斡旋という父の商売を、いっぱしの働き手として手伝っている。車を運転するロジェにタバコを吸いつけて 渡す姿は、息子というより、ヤクザの子分そっくりだ。 彼らが暮らす部屋同様、殺風景で荒寥とした親子の関係。でも本人たちには格別そんな自覚はない。 ある日、不法移民労働者のアミドゥが作業現場で大怪我を負う。イゴールはベルトで彼の太腿を縛って止血し、病院に連れて行こうと する。ところが、ロジェは手荒くベルトを外すと、建築物の土台に運び、上から砂利をかぶせてしまう。面倒が起きるのを恐れたのだ。 「アミドゥは死んだ。病院に連れて行っても仕方ない」というが、イゴールは、この時彼はまだ息があったのを知っている。この出来 事をきっかけに、イゴールはそれまで思いもしなかった眼で、父親を見始める。 アミドゥは意識を失う前に、「妻子のことを頼む」とイゴールに言い残す。15歳の少年に一体なにが出来るというんだろう。でも、 イゴールはなんとかこの約束を守ろうとする。アミドゥを見殺しにしたという負い目が、彼の心に責任感を目覚めさせたのだ。
初めのうちは、イゴールは父の眼を盗んでアシタの世話をする。しかし、父が彼女を騙して娼婦に売り飛ばそうとしているのを知った
時、初めてはっきりした行動を取る。旅費を工面して、アシタをイタリアの彼女の親戚のところに旅立たせようとするのだ。イゴールが自動車修理工場で、追ってきたロジェを鎖に縛りつけて、動けないようにする場面はとてもショッキングだ。彼は父を愛して いるし、父が父なりに自分を愛していることも知っている。それでも、自分自身の価値観で行動しようという時、精神的な “父親殺 し” をしなければならない。それが “少年” というものの宿命だ。 男として父と対決し、そこから自立を果たす。それはなんと大きな痛みを伴うものなのか。こうしてイゴールは、一体化し、恐れても いた父親との訣別を果たす。 イゴールは駅でアシタに、「アミドゥは失踪したのではなく、死んだ」ということを告げる。アシタはそれを聞くと、階段を上りかけて いた踵を返して、来た道をもどる。彼女もそうではないかと薄々思
っていたのだ。事実がはっきりしたことで、この国で自力で生きていこうとあらためて決意したのだと思う。事実に目を塞がない。それがイゴールの “自我の目覚め” の最初の意志だ。アシタもそれをしっかり受け止めた。 彼女の後を追うイゴールの後ろ姿は、冒頭の大人びた彼に比べるとひどく頼りなくて心許ない。背伸びしていた彼が、本来の15歳の 少年にもどったようだ。 ロジェのところに戻れば、彼は多分ひどく殴られるだろう。それでもいい。これまでの彼とはもう何かが変わったのだ。イゴールは これからは自分の価値観で生きていくことだろう。駅の通路を去って行く彼の背中に、そんな希望を感じた。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 19世紀フランス自然主義文学の巨匠エミール・ゾラの名作をルネ・クレマンが映画化。ヒロインを演じたマリア・シェルはヴェネ チア国際映画祭で主演女優賞に輝いた。 1850年代のパリ。内縁の夫ランチェ(アルマン・メストラル)に逃げられた洗濯女のジェルヴェーズ(マリア・シェル)は、女手 1つで子どもを育てながら、やがて実直な屋根職人クポー(フランソワ・ペリエ)と結婚する。 ところが、クポーは屋根から落ちて大怪我をして以来やる気をなくし、酒浸りとなってしまう。ジェルヴェーズは鍛冶工グジェ (ジャック・アルダン)の援助でやっと自分の店を手に入れるが、再び姿を表わしたランチェ、昔なじみで今はランチェの情婦ヴィルジ ニイ(シュジ・ドレール)の企みで、クポーの死とともに、それも手放してしまう。 “男運が悪い” という言葉があるけれど、ジェルヴェーズほどそれが当てはまる女はいない。最初の男ランチェは女と遊ぶだけの怠け 者、次の男クポーはちゃんと結婚もし、堅気な職人だったのに、怪我をしたことで人格が崩れてしまう。 しかし、ほんとうにジェルヴェーズは運が悪いのか? どうも私には、自分から “悪い運” を引き寄せているように見えて仕方ない。 ランチェはまぁ仕方ない。彼と出会った時、ジェルヴェーズはまだ15,6の世間知らずの田舎娘だった。見栄えがよく、口のうまい男 に夢中になったとしても無理
はない。首をひねるのは、怪我をしてやけになったクポーがランチェを連れ帰り、同居を始めようとした時だ。「世間の目が」と一応反対は しても、結局は夫に従ってしまう。思うに、ジェルヴェーズはやっぱりランチェに惚れていたのだろう。 下層階級の人々が生きるのは今よりずっと大変な時代に、ジェルヴェーズは女手1つで子どもたちを育て、乏しい賃金をやり繰りして 金を溜め、自分の店を持つまでになる。甲斐性のある働き者だ。ところが皮肉なことに、こういう人ほどダメな男を好きになる。 ジェルヴェーズは鍛冶工グジェが自分に思いを寄せているのを知っていた。彼はランチェやクポーと違って芯のしっかりした頼りがい のある男だ。影になり日向になってジェルヴェーズを支え、彼の元で修業を積んでいる長男に対しては父親の役割も果たしてくれている。 クポーが死んだ時、ジェルヴェーズは彼と再出発することだって出来たのだ。しかし彼女はそうせず、逆に一気に転落する。それまで の頑張りが嘘のように酒に溺れるジェルヴェーズを見ていると、彼女は男を支えることで、自分が支えられていたのだと思わずにおれ ない。グジェのように支えを必要としない人は、友人として信頼はしても、男として愛することは出来なかったのだろう。 クポーはなぜ女房の前の男を家に引き込むようなマネをしたんだろう。それがずっと気になっている。ランチェは箸にも棒にもかからぬ 男だ。そこに自分のダメさ加減と同質のものを見つけ出し
て、逃げ場にしたんだろうか。しかしランチェは、女を食いものにして生き延びるしたたかな男だ。クポーはその強さも狡さも持ち合わせていない。結局、クポーも ジェルヴェーズも、ランチェに食い潰されてしまった。 幼い娘ナナが赤いリボンを首に巻いて、窓ガラスにシナを作るシーンが印象的だ。これはランチェの情婦ヴィルジニイがくれたものだ。 母親を不幸のどん底に叩き落した女のリボンをひらひらさせながら、ナナが女王のように少年たちを引き連れて駆け出す様子は、少女の 無邪気さゆえにいっそう残酷だ。 実父ではないが、ランチェそっくりの華やかさ、軽薄さ、冷たさをあわせ持ったナナは、この映画の一番の皮肉かもしれない。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 美奈子は50歳の独身女性(田中 裕子)。朝は牛乳配達、昼はスーパーのレジ係として働いている。市役所に勤める高梨(岸部 一徳) は末期ガンの妻・容子(仁科 亜季子)を自宅で介護する毎日だ。美奈子が毎朝届ける牛乳以外、2人に何の接点もない。 じつは高校時代、2人は恋人同士だったが、ある事情から別れてしまっていたのだ。しかし、容子は2人の間にまだ密かな思いが続いて いるのを知り、ある願いを抱くようになる・・・。 坂の多い長崎を舞台に、人生の後半にかかった平凡な男女の恋情を淡々と綴った、大人のためのラブストーリー。 朝まだき頃、長く細い坂の石段を「よし」と小さく気合を入れて、美奈子は駆け上り始める。肩に担いだ鞄の中で牛乳びんの触れ合う音 がする。牛乳受けから空瓶を取り出し、新しい瓶を入れる。玄関先で美奈子を待ち、その場で飲む老人もいる。手際よく刻まれるリズムが 朝の空気に溶け込む。空が明るくなるにつれて、白い光が周囲を包み、次第に色を帯びていく。 これほど長崎を魅力的にとらえた映像がこれまであっただろうか。そして「これが私の生きかた」と思い定めた美奈子の暮らしぶりが、 この一連のオープニング・シーンに凝縮されている。
もう1つ、美奈子の人生を象徴するのが、狭い部屋には不釣合いな大きな本棚だ。そこにぎっしり積まれた本は、おそらくまだ読まれて
ないものばかりだろう。昼はスーパーのレジ係をする美奈子は、若い同僚に「寂しくないか」と聞かれ、「クタクタになるほど働いたら、そんなことを感じる 暇はない」と答える。じっさい、読みかけの本を開いたまま、ベッドで眠ってしまう場面が出てくる。本棚の “読まれていない本”は、 美奈子の人生のまだ始まっていない何かを表わしているように見える。 美奈子が牛乳を届ける家の一軒には、高校時代、恋人だった高梨が病妻と住んでいる。2人は、美奈子の母と高梨の父のスキャンダラス な事故死がきっかけで別れた。 高梨の妻・容子が封印された2人の思いを察知するのは、病人の研ぎ澄まされた感性からばかりではないだろう。彼女は日記に「輪郭が はっきりしない」と高梨のことを記す。穏やかで優しい夫には違いないが、容子はずっと、彼がどこか遠くを見ているような寂しさを感じ 続けていたのではないかと思う。 自分の死後、夫と美奈子を結婚させようとする容子に、2人の後半生を自分の手の中に握ろうとする怨念を感じるのは、意地悪い見方 だろうか。静かに流れる物語の中で、ただ1人、病み衰えた容子だけが生々しい「生」を感じさせるのが皮肉だ。 美奈子と高梨がただ一度結ばれた後、突然訪れた高梨の死は意外だったが、やはり2人は別々の人生を全うするしかないような気が する。母親代わりの古い友人に、「これからどうするの」と聞かれて、美奈子は「本を読むわ」と答える。“いつか読書する日” が こんな風にやってくるとは思わなかったけれど、空を仰ぐ美奈子からは、そこはかとない諦観と過去から解き放たれた清々しさが感じ られた。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 名探偵金田一耕助が活躍する横溝正史の原作を、市川崑監督のメガホンで映画化した “角川映画” の第1回作品。 信州の財閥犬神佐兵衛が他界し、顧問弁護士・古館(小沢 栄太郎)によって遺言状が公開される。そこには、莫大な遺産は佐兵衛の 恩師の孫娘・野々宮珠世(島田 陽子)と結婚した者に相続者させる、と記されていた。 3人の孫息子たちはそれぞれ珠世を我がものにしようと企み、やがて不気味な連続殺人が起こり始める。古館に招かれた探偵・金田一 耕助(石坂 浩二)が事件解明に乗り出す。 この映画の公開当時、何度目かの横溝ブームが起こり、私も相当に読み耽ったものだった。映画は本とタイアップした宣伝が功を奏して 大ヒット、その後シリーズ化されたこともあって、金田一耕助は石坂浩二と評価が定まった感じだが、どうも私は違和感がある。 金田一は身なりは構わず、髪はぼさぼさ、頭をぼりぼり掻いてフケを飛び散らかすのがトレードマークの、憎めないけど、どこか 掴まえどころがない男。「ほんとにこの人、頼りになるの?」と思われかねないが、時々キラッと光るものをみせる。 その点、石坂浩二は見るからにシャープで、どこを押しても「怜悧〜ン!」と音が出そう。演技力でカバーしているが、地の「頭の よさ」がどうしても顔を出す。金田一の茫洋とした感じは今1つ。 市川崑監督の演出がいかにもあか抜けているのも、当時の私には原作のおどろどろしさを薄めているように思えて、少し物足りな かった。 しかし20数年を経て見直すと、かなりよく出来た映画だったんだなぁと思う。長くて複雑な筋を混乱なくまとめた腕は大したもの。 映像的にも、地方の小さな古い町の佇まいや、旧家のどっしりし
た豪華さが、物語の雰囲気を盛り上げている。金田一とこの町の警察署長が、話しながら家並みの細い道を抜けてゆくシーンなどは、上方から急角度で見下ろしたアングルがびっくり するほど新鮮だ。『東京オリンピック』(65)の斬新な映像感覚を思い出す。 60歳近い高峰三枝子の瑞々しい色気と美しさには驚嘆。大女優の貫禄とはこうしたものかと感じ入った。佐清と抱き合って泣くシーン などは、母子なのに男女の関係にも見えて、我ながらドキドキしてしまった。 坂口良子が扮する宿の女中が一服の清涼剤。莫大な遺産を巡って肉親の欲と憎悪がぶつかりあう重苦しい話だけに、そうしたものと 無関係な彼女の動きが軽やかに感じる。口いっぱいに蕎麦をほおばったぷっくり顔の可愛いことといったら! 加藤武が演ずる警察署長の「よし、わかった! ○○が犯人だ!」は今回もやっぱり笑ってしまった。こんな思い込みの強い早とちり 署長がほんとにいたら困るだろうなぁ。人は悪くなさそうだけど・・・。このシリーズは何本か見たが、彼のこの台詞を聞かないと映画を 見た気がしない。一番お気に入りのキャラクターだ。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 犬と人をテーマに11のエピソードが綴られたオムニバス映画。 広告代理店のCMプランナー山田(中村 獅童)は、ドッグフードのCMを手がけたことから、少年時代、彼になついていた野良犬 ポチのことを思い出す。仕事に疲れ、山田はある日思い立って故郷を訪れる。そこで彼は同級生だった香織(小西 真奈美)から、ポチに ついて意外な話を聞かされる。−「CMよ、 どこへ行く」。ほかに「A Dog‘s Life:good side」「うちの 子 No.1」「ねぇ、 マリモ」など。 11もエピソードがあったの?! ということは、時々間にはさまっていたアニメも数に入っていたのかな、単なる場面転換用の つなぎかと思っていたけど。
ミュージカル仕立てのペット自慢とか、パグ犬コロの片想いとか、犬語解析器を開発した男の話とか、「ぐふ・・・」と来る話もない
ではないが、全体としてひどく取りとめがない。“いぬ” という共通テーマだけ決めて、あとはテンデンバラバラに作ったフィルムをつないだだけ、という印象だ。 マリモの話はとくに私は参った。あんまりベタにしつこく「泣き」を要求されると白けてくる。こういうので泣くのは、小学生の女の 子くらいのものじゃないだろうか。 全部ひらがなのほのぼのしたタイトルに惹かれたのだが、映画というより、少年少女向けの「つぶやき詩集」をイメージ映像にした みたい。ポチと山田のエピソードを核にしっかり構成したら、エピソード集ではあっても、映画としてもう少し「らしい」形を成した のではないかと思うが。 【◎○△×】5 |
|
ストーリー チャップリンの作品がドタバタ喜劇から物語性の強い作品への移行を果たした初期の映画。 浮浪者チャーリー(チャールズ・チャップリン)が子犬を野犬の群れから救い出し、一人と一匹の共同生活を始める。 犬をだぶだぶズボンに忍ばせて入った酒場で娘(エドナ・パーヴィアンス)と出会い、思いを寄せるが、すぐに追い出される。2人組 の泥棒が埋めた大金を犬が掘り当て、また酒場に戻るが、金は2人組に取り返されてしまう。そこでチャーリーは・・・。 原題の “A Dog‘s Life” とは「惨めな生活」のことだそうだ。実際チャーリーは泊まるところもなく地面にじかに寝る。 たしかにこれは惨めだ。それでも彼は暢気至極。求人案内所では窓口に並ぶ順番を次々に先を越されて、仕事をもらい損なう。 ここのギャグはかなり長い。そういえば、破れた板塀の下をくぐって警官をからかう場面も、屋台で亭主が横を向いてる隙にマフィン を盗み食いする場面もかなり長い。が、若いチャップリンの動きは切れがよく、とんとんリズムよく運ぶので、見ていて飽きない。ドタ バタの真骨頂か。
とくにマフィンはもぐもぐしたり飲み込んだりを一切しない。次々口に突っ込んでは澄ましてる。これにはまったく驚いた。酒場の二人羽織が面白い。こういう芸って日本の落語だけかと思っていた。初めにカーテンの後ろから2人組の泥棒のうちの1人を 殴って気絶させ、両脇から手を出して本人みたい見せかける。相手が騙されている間に、気絶した男の懐を探って金をせしめる。 これでさっさと逃げるのかと思うと、テーブルのビールを1本、ポケットに忍ばせる。こういういじましさがチャーリーらしくて 面白い。相手が気づくと、ビール瓶で頭をゴン。ついでにその男の金も頂戴する。泥棒の上前をはねるんだから、隅に置けない。 野犬に苛められているのをチャーリーに助けられる “生粋の雑種” の子犬が愛らしい。 酒場の入り口には「犬、お断り」の張り紙。彼はだぶだぶズボンに子犬を押し込んで店に入る。お尻に開いた穴から、犬の尻尾が ニュッ。みんなびっくりするけど、もちろんチャーリーだけが気づかない。 このわんちゃん、尻尾で太鼓を叩いていいリズムを刻む。チャップリン顔負けの芸達者ぶりだ。 オチのあるラストはチャップリンの映画では珍しい気がするが、犬がからんで、ほんわりしたいいシメだと思った。 【◎○△×】7 |
|
ストーリー 山本周五郎原作の「深川安楽亭」を素材にした時代劇。 幾造(中村 翫右衛門)と娘のおみつ(栗原 小巻)が営む三安楽亭は四方を堀に囲まれた一膳飯屋だが、定七(仲代 達矢)らのならず 者たちが集まる根城でもある。町奉行さえ容易に立ち入らない場所だが、新任の同心(神山 繁、中谷 一郎)は密貿易の噂を嗅ぎつけ 探索に乗り出す。 そんなある日、仲間の1人、与兵衛(佐藤 慶)が袋叩きに遭った若者を連れてくる。女郎屋に売られた幼馴染の娘を探す寅次郎 (山本 圭)だった。 冒頭、2人の同心と密偵とのやり取りが非常に緊迫感があって、つい期待したのがいけなかった。話が進むほど失望が大きくなる。 いくつか理由があるが、まず安楽亭が少しも不気味でない。 抜け荷をしているという目星がついても、お上は容易に手が出せない。密偵も探りを入れるのに二の足を踏む。素性の知れぬ男たちが たむろし、一度足を踏み入れたら生きては戻れぬ魔窟のような場所。 そういう前提で始まった話だと思うのだが、ただならぬ空気は初めの十数分でものの見事に消失。安楽亭は亭主の幾造を中心にちょっと 変わった連中が作っているコミュニティ、という感じで
怖くもなんともない。これは決定的だった。むしろ同心の岡島や金子のほうがよほど冷酷そうで怖い。定七が富次郎の恋のために命を張って危ない橋を渡ろうとする理由もよく分からない。富次郎に「命、棒に振っちゃいけませんか」と いわれて、定七は「へなちょこに先手を打たれた」と言う。世間知らずの若造の開き直りに感銘したというのだろうか。 他の連中が次々に「俺も」「俺も」と名乗り出るのも変だ。世間の情けとは無縁のところで生きてきた一匹狼たちが、赤の他人のため に「いのちぼうにふろう」とする時は、もっと切羽つまったのっぴきならない事情があるはずだ。タイトルに引かれてこの映画を見たの だが、安手の人情に流れる甘さが気になる。これは終盤、親方の命令で逃亡したはずの連中が、続々帰って来てしまうところにも出て いる。こんなことなら初めから “情と信義の絆に結ばれた一団” という設定にしたほうが、よほど話がすっきりする。 最もわけの分からないのが “酔っ払い” の男だ。勝新太郎が扮しているし、何かあるのだろうとずっと思っていたが、富次郎に金を 渡すためにだけ出てきたような人物で、彼が身の上話を始めた時はほんとにずっこけた。“座頭市” そのままの雰囲気の勝新は、どう 贔屓目に見ても、元堅気の職人ではない。妻子に死なれて生きる希望を失った男の柄でもない。せっかく彼を持ってくるならぜんぜん 違う設定にして、立ち回りの見せ場も作ってほしかった。 モノクロの映像が美しい。堀に渡した細い板の橋、川原の枯れた葦、とくに捕り手たちの提灯が列を作って暗闇を動き回るシーンは 幻想的で、しばし見惚れてしまった。 【◎○△×】6 |
|
ストーリー “トンデモ精神科医”伊良部が活躍する、直木賞作家・奥田英朗の人気シリーズの映画化。 伊良部総合病院の跡取り息子・伊良部一郎(松尾 スズキ)は神経科に勤める精神科医だ。彼の前には、24時間勃起し放しの気の弱い 営業マン・田口(オダギリ ジョー)、火の始末や戸締りが気になって仕事にならないルポライターの涼美(市川 実和子)ら、深刻な 悩みを抱え患者たちが次々に訪れる。豹柄のシャツにブーツという出で立ちの伊良部は、ナースのマユミちゃん(MAIKO)のアシ ストでトンデモナイ治療を開始する。 ところで彼がはまっているのはスイミング。ここではストレス解消のはずだった水泳に取り憑かれたビジネスマン・大森(田辺 誠一) がいた。 患者以上におかしい精神科医、どこか怪しい上司たち、患者の前に現われる人たちはみんなどこか変。自分が病気だと自覚している分、 患者本人が一番まともに見える。こういう設定は分りやすいというか、ありがちというか、すっと入って笑えそうな気がしたのだが、 主演の松尾スズキの爬虫類っぽいヌメッた感じがまったくダメだった。 彼の演技が悪ふざけしているようにしか見えのも、私にはイタカッタ。彼が登場するたびにサーッと気持ちが引いてしまう。もちろん、 ちゃんと計算した上でそういう演技をしているのだろうから、
これはもう相性の問題としか言いようがない。他の出演者はなかなか面白かった。 「持続性勃起症」のオダギリジョー、彼の笑顔の魅力を再発見、がのどかというか愛らしいというか。怒りの行きどころがなくて勃起 症になるのは困るけど、出来ればずっとあの笑顔でいてほしい。 エレベーターの前で部長に取り引き先の女性を紹介されて、妙な腰つきで握手するシーンなんて、ほんとに爆笑もの。美貌に溺れず、 マイナーな映画や妙な役柄を好んで引き受けるところはジョニー・デップによく似ている。 「強迫神経症」の市川実和子は、存在そのものがユニークとしか言いようがない。大きくて出っ張り加減の目、大きな口、細い身体に ひょろ長い手足。ポパイの恋人のオリーブにそっくりだ。重そうなズダ袋を肩からぶら下げ、ふわふわ走る。日常から5cmくらい浮き 上がった浮遊感がなんとも言えない。 そしてもう1人、雑誌編集長のふせえり、この人、私は初めて見たが、ふつうにやっていること自体がなんとも言えず可笑しい。編集 室に入ってきて、「や」「や」「や」とスタッフに指を振って挨拶するところなんて、独特のマというか空気というか、私はこういうの ほんとに好き。3,4度ビデオを巻き戻して見てしまった。 【◎○△×】5 |
|
ストーリー 2000年、ドーバー港についたコンテナ船から不法入国を試みた中国人58人の死体が発見された事件に衝撃を受けたマイケル・ ウィンターボトム監督が、難民問題を取り上げて作ったドキュメンタリー・タッチのロードムービー。 じっさいに難民キャンプで生まれ育ち、名前も本人そのままの2人を起用し、ロンドンまでの4000マイルに及ぶ苛酷な旅を描いて いる。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。 パキスタン北西部、ペシャワールの難民キャンプ。15歳の孤児ジャマール(ジャマール・ウディン・トラビ)は、従兄のエナヤット (エナヤトゥーラ・ジュマディン)と共にロンドンへと旅立つことになる。将来のない難民キャンプの暮らしに見切りをつけたエナ ヤットの父(ジャマウ)が、親戚のいるロンドンへ息子を亡命させようと考えたのだ。 2人は見ず知らずの “人の運び屋” (イムラン・パラチャ)の指示に従って、バスでイラン国境の町タフタンを目指す・・・。 冒頭のナレーションによる説明によると、現在世界中で1450万人もの難民がおり、そのうちの約3分の1の500万人がアジアに いるという。その多さに絶句する。 始まりは1979年のソ連のアフガン侵攻だ。ソ連撤退後は内戦とタリバン勢力の台頭、さらに最近では2001年のアメリカ 主導のアルカイダへの爆撃、とアフガニスタンは20数年にわたって戦禍にさらされ、多くの人々が戦乱を逃れてパキスタンやイランに 移った。それがアフガン難民だ。 本作の主人公ジャマールも、パキスタンの北西部ペシャワールにある難民キャンプで生まれ育ったアフガン難民の少年だ。 映画は、ジャマールが従兄のエナヤットとともにヨーロッパを目指して旅する様子を描いている。息子の将来を心配したエナヤットの 父親が、多少英語を話せるジャマールを道連れに、親戚のい
るロンドンに亡命させようとしたのだ。ペシャワールを出発した2人は、密入国業者の指示に従って偽造旅券を買い、イランでは怪しまれないように衣装をイラン風にあら ため、バスやトラックを乗り継いで旅を続ける。 途中、検問にかかってパキスタンに送り返されたり、極寒に震える深夜のトルコ国境越えでは、国境警備兵の銃撃を浴びて肝を冷やし たりする。小型のビデオカメラによる撮影がリアルな迫力を生む。 苦難の連続だが、途中、イランではクルド人家族の親切につらさを忘れ、イスタンブールの金物工場や、フランスの難民キャンプで 知り合った仲間とは、ひと時の心の交流がある。 ジャマールを演じる少年はオーディションで選ばれたじっさいのアフガン難民だそうだが、彼の演技以前の自然なありようが、映画に フィクションを越えた息吹きを与えている。悲観せず、楽観せず、ただ現実を見つめて進んでいく。それは困難な環境で育った人のみが 持つ強靭さだ。 ようやくイスタンブールにたどり着くと、そこからは他の不法移民たちとともに、コンテナ船でイタリアのトリエステに向かう。密閉 されたコンテナの中で大人たちは窒息死し、かろうじてジャマールと乳児だけが生き延びる。 ジャマールらが開かない扉を内側から叩いて助けを求める場面は生々しくて、目をおおいたくなる。ウィンターボトム監督はこの場面 で、密航中国人の死亡というじっさいに起きた事件の悲惨さを、静かな怒りとともに再現しているのだ。ここでエナヤットは死に、ジャ マールはただ1人がロンドンにたどり着く。 現実のジャマール少年は、撮影終了後、特例でロンドン滞在を認められたものの、18歳の誕生日前日までには国外退去するよう イギリス政府から告げられているという。果たしてここに彼の求めた未来への希望はあったのだろうか。モスクで懸命に祈るジャマール の声が、海鳴りのように耳に響く。 【◎○△×】7 |