| 【映画メモ】 え で始まる映画 |
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ストーリー 今日を人生最後の一日と覚悟した老詩人の心の旅を、難民の子供との交流を通してイメージ豊かに描いた映像詩。 北ギリシアの港町テサロニキ。アレクサンドレは、夏の早朝、友人たちと海辺の家から島まで泳いでいた。バルコニーから母が呼ぶ 声がする。 ・・・少年時代の夢から醒めた作家で詩人のアレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)は、今日が不治の病をもつ自分の最後の日だと 自覚する。明日は病院に行こうと決意し、亡き妻の手紙を託すために娘の家へ向う途中、彼はアルバニア難民の少年(アキレアス・ スケヴィス)と出会う。 アレクサンドレは少年と行動をともにしながら、30年前の夏の一日に思いを馳せ、過去への心の旅を始めるのだった。 カンヌ国際映画祭で最高賞であるパルムドール(作品賞)を受賞した。 最初に見た時はなんだかよく分からなくて、そのくせ妙に気になって、結局3回も見てしまい、見るたびに少しずつその魅力に はまってしまった。 死期を悟った老作家がさまよう、北ギリシャの小さな港町テサロニキの寂寥とした冬の風景、出産直後の女性の 美しさを湛えた妻が「アレクサンドレ!」と呼ぶ、陽光煌めく夏の海辺の光景、ー現在と過去ーー。そしてアルバニア難民の少年と辿る 現実の旅と、作家の心によぎる心象風景。 それらが入り交じって、“死”という「永遠」の前の「一日」が、一生分の重みを持ってひたひたと迫ってくる。 難民の少年は庇護者だったセリムという年上の少年を事故で失い、それをきっかけに、老作家のもとから旅立つ決意をする。 初めは少年を守る立場だった作家は、一日が終わる夜には「もう少し傍にいてほしい」と少年に懇願し、死に赴く不安を少年によって 守ってもらおうとする。少年も旅立つ勇気をもう少しの時間、老作家と過ごすことで得たいと思う。 二人の乗るバスは幻想的だ。宮沢賢治の“銀河鉄道”みたいだなぁ、なんて思ったりした。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 南フランス・ニースの映画スタジオで、ロマンス映画『パメラを紹介します』の撮影が始まった。監督のフェラン(フランソワ・ トリュフォー)は、トラブル続きの現場に悩まされっぱなしだ。 ノイローゼ気味のハリウッド女優や台詞を忘れる大物女優、スタントマンと駆け落ちする記録係に気むずかしい男優。スタッフや 俳優たちそれぞれのドラマや思惑が交錯し、撮影はちっとも進まない。果たして映画は出来上がるのか・・・。 タイトルにある “アメリカの夜” とは、昼間撮影しても夜のように見せる撮影技法のことで、ほかにもろうそくに豆電球を仕かけて 持つ人の顔を照らしたりする、大小の撮影テクニックが散りばめられている。アカデミー最優秀外国語映画賞を受賞。 映画冒頭の街頭風景の撮影が私には興味深かった。犬を連れて散歩する人、急ぎ足で行き過ぎる人、ベンチで新聞を読む人、自転車で 走り過ぎる人・・・。 私は初め、街角にカメラを持ち出して実際に町の様子を撮影しているのだとばかり思っていた。ところが監督の「ストップ」の一声で、 一斉に町の人が動きを止める。「犬のご婦人、もっとゆっくりと」などという細かい指示が1人1人に入り、「スタート」。 すると大勢の人が一斉に動き出し、さっきとまったく同じ雑踏が眼前に現出する。それはあまりに自然な、ただの町の光景だ。これが すべて演出された演技なのか、と呆然としてしまう。
監督を次々にトラブルが見舞う。それがいかにも実際に起こりそうなことばかり。かつての大物女優(ヴァレンチィナ・コルテーゼ)はアル中気味で台詞が覚えられない。そんな自分に腹を立ててヒステリーを起こす ものだから、撮影はちっとも進んでないのに「今日はこれまで」ということになる。 主演男優(ジャン=ピエール・レオ)は恋人(ダニ)とのトラブルで気もそぞろ、演技に身が入らない。 ハリウッドから招いた主演女優(ジャクリーン・ビセット)は途中からやって来て、自分の出番が済むとさっさと帰ってしまう。 撮影済みのフィルムは現像中に停電でオジャンになるし、窮めつけはなんと主要男優(ジャン=ピエール・オーモン)が事故死して しまう。代役で取り直すだけの余裕はない。そこで、後ろ姿の代役を立てて、背後から撃って映画の中で“殺す”ことにして切り抜ける。 「映画ってこんな風に作られていくのかぁ」と、これだけでも興味津々だ。そのうえ名もないスタッフの1人1人にいたるまで、現場 全体に「映画が好き!」という空気が漲っている。 愉快だったのは、時々現れる監督の少年時代の夢。うなされたりして、まるで悪夢でも見ているように見せかけて、じつは『市民 ケーン』のポスターを映画館からまんまと盗み出した思い出の夢なのだ。ここにもトリュフォー監督の映画への思いが表れている。 こうして映画は完成する。現場はさぞや感激の抱擁で盛り上がるのかと思いきや、スタッフはさっさと次の仕事に散っていく。いかにも あっさりしたお別れは、祭りの後片付けが始まった時のような一抹の寂しさと満足感が漂って、なんともいえない。 撮影現場を舞台にした映画はいろいろあるけれど、こんなに楽しい映画は初めてだった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 8歳の少女エイミー(アラーナ・デ・ローマ)は、大好きなロックスターの父が亡くなったのは自分のせいと思い、それ以来、聴力と 言葉を失ってしまう。何人も専門医に診てもらうが、回復の兆しはない。 でもエイミーは、歌を通して周囲とコミュニケーションすることが出来た。他の音は聞こえないのに、歌は聞こえるし、一言も声は 出せないのに、歌は歌えるのだ。 それに最初に気づいたのは、隣に住む売れないミュージシャン、ロバート(ベン・メンデルソーン)だった。でも、母のタニア (レイチェル・グリフィス)にはとうてい信じられない話だった。 エイミーは、歌なら聞こえるし、声も出せる。それを理解した母のタニアがカウンセラーに伝えようと、エイミーを連れて役所に 出かけるシーンがある。 エイミーがトイレに行きたくて、もじもじしながら一生懸命歌うのに、タニアは自分の喋ることに気を取られて、全然気づかない。 初対面の受付嬢のすべてを察知して、歌でトイレの方向を教える。 母親は、子供を愛し理解しているのは自分だけだとつい思いがちだけど、あんがい岡目八目、他人の方が分かってることもある。 そんなことをそれとなく示しているようで、このシーンをおもしろいと思った。 エイミーに話しかけようと思ったら歌うしかない。だから、お巡りさんも、カウンセラーも、役所の融通の利かなそうな受付嬢も、 水ばかり撒いてる意地悪な老嬢も、みんな歌う。 どの人も上手い。いい声をしている。うまくハモる。ミュージカルの出来損ないみたいなところもあるけれど、これがけっこう楽しい。 最後は、フランス映画『百貨店大百科』みたいに全員で大合唱してくれたら、盛り上がって楽しい結末になっただろうなぁと思う。 そこがちょっとザンネンだけど、でも、エイミーと死んだパパとの二重唱で締めるラストも悪くない。 エイミー役のアラーナ・デ・ローマは声になんともいえず哀調があって美しい。歌がうまいのには驚いた。 【◎○△×】6 |
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ストーリー 1880年代の西部を舞台に、アリゾナからニューメキシコへ向う駅馬車に乗り合わせた客たちの、さまざまな人間模様を描いた ジョン・フォード監督の代表作。 1885年、アリゾナからニューメキシコに向けて駅馬車が出発する。父の復讐のために脱獄して
きたリンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)をはじめ、酒場女、飲んだくれの医者、実直な酒商人、傲慢な銀行家、身重の軍人の若妻、いか
さま賭博師、保安官、御者などさまざまな人物が乗り合わせ、たっぷり2日を要する旅だ。途中、若妻(ルイーズ・プラット)が産気づくが、医者(トーマス・ミッチェル)は酒場女ダラス(クレア・トレヴァー)の手助けで、 無事赤ん坊を取りあげる。州境を越えると一行を待っていたのはアパッチの襲撃だった・・・。 B級西部劇の経験しかなかったウェインが本作で主役の座を獲得し、酔いどれ医者を演じたトーマス・ミッチェルはアカデミー助演 男優賞を受賞した。また、フォード西部劇のトレード・マークとなるモニュメントバレーが初めてロケーションに使われた。 リンゴ・キッドが初めて登場する場面は、当初、ウェインの演技があまりに下手なので、上達してから撮り直したものだそうだ。そんな 裏話にびっくりしてするくらい、ライフルを片手に荒野に立つウェインは鮮やかだ。若々しい清潔感と不敵な落ち着き、そして意外なほど ハンサム(何しろ、中年以降の彼しか知らない私です)。演技が不器用なところ、それが朴訥な魅力になっているところ、いるだけで オーラを発するところなど、若い頃の三船敏郎によく似ている。 商売女ダラスを演じたクレア・トレヴァーには、ウェインと違って成熟した魅力がある。パッと目を引くあでやかさと、人々の軽蔑の 眼差しにも面(おもて)をあげる凛とした強さ。いわゆる “粋ないい
女” だ。この2人をふくめ、登場人物といえばほとんど駅馬車に乗り合わせた9人だけ。舞台は荒野をひた走る駅馬車の中か、時々休憩のために 停まる中継駅だけ。 下手をしたら単調な話になりかねないが、9人の個性がきちんと描き分けられ(ふつう1人か2人は印象が薄くなるものだが、ぜんぶ 誰が誰だかちゃんと分る)、彼らが織りなす人間模様がじつに面白い。一種の密室劇だけに、そこに展開されるドラマは濃密で、1人1人 の背景や人間性が明らかになっていく様子はスリリングでさえある。 なかでも、やっぱりリンゴとダラスの絡みがいい。みんながダラスを貶めるなかで、リンゴだけは淑女としての敬意を失わない。ダラス はこれまで散々苦労し傷ついてきた女だけど、ピュアなものを失っていない。それがリンゴはちゃんと分っている。 彼女が軍人の若妻ルーシーの出産を手伝い、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて出てくる場面が印象的だ。みんなは赤ん坊に気を取られる が(むくつけき男たちがニコニコして、これ自体、い
い場面です)、リンゴだけはじっとダラスを見つめる。彼女の中の母性の輝きを見て
いたんだと思う。この時に結婚を申し込もうと決めたんじゃないのかな。ダラスが初めはからかわれているんじゃないかと用心するのが、苦労してきた女らしくて切ないんですよね。 “インディアンの襲撃” の西部劇らしい迫力(撮影秘話によると、ナホバ・インディアンにギャラを支払うことで彼らの困窮を援助 する意味もあったとか。つらい話です。個人的には、先住民を悪役に仕立てて騎兵隊が彼らをやっつけるという図式がイヤで、 ずっと西部劇を敬遠していました。もちろん、今はそれだけでないと分って、いろんな西部劇を楽しんでいます)、一方リンゴの復讐は、 仇の三兄弟との対決までをじわじわ盛り上げ、対決そのもはあっさりと仕上げるなど、緩急の付け方はさすがに巧いものです。 リンゴが保安官の粋な計らいでダラスとともに新生活に踏み出すラストは、温かみのあるいい結末だと思った。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 竹神部落は越前の国・武生の寒村で竹細工の産地として知られている。 ある大雪の日、1人の女が竹細工職人・喜助(山下洵一郎)を訪れる。芦原(あわら)遊廓の遊女・玉枝 (若尾 文子)だった。かつて世話を受けた喜助の父・喜左衛門の墓参りに来たのだという。 その美しい面影が忘れられず、喜助は名前を頼りに玉枝を探し出し、竹神の家に来てくれと頼む。一途な真心に打たれた玉枝は、 年季が明け秋も深まったある日、嫁入りして来る。 ささやかな式をあげた2人だったが、なぜか喜助は彼女を抱こうとせず、その夜から玉枝を写した竹人形作りに没頭し始める。 ある時、かつて玉枝の馴染み客だった忠平(西村 晃)が、偶然にも京都から竹細工を仕入れにやって来る。玉枝の変わらぬ美しさを 目の当たりにして、忠平は喜助の留守をいいことに、玉枝を手籠めにしてしまう。 若尾文子がほんとに綺麗。雪の深い日、粗末な戸口があき、玉枝が現れた時の喜助の驚きが容易に想像できる。喜助は暗い土間で、 日なが竹細工に励むたった1人の生活だ。その孤独は考えただけでもつらい。そこに突然現われた玉枝は、喜助には天女のように見え たんじゃないだろうか。 せっかく夫婦になりながら、喜助はどうして玉枝と真の契りを結ばなかったんだろう。喜助は玉枝に、「母親と思って大切にする」と いう。女盛りの玉枝にとってこんな残酷なことはない。父の馴染みだった玉枝と男女の関係になるのは、「母」を犯すような気がした んだろうか。それとも、1人の女を父と「共有」することに躊躇いがあったのだろうか。 喜助は同じ芦原遊郭で働くお光(中村 玉緒)に、玉枝と喜左衛門は肉体関係はなかったと聞かされる。そんな言葉を真に受けて、 喜助は今度こそ玉枝と本当の夫婦になろうと思うのだけれど、こんなところを見ると、喜助は身体は大人でも、精神的にはまだまだ 子供だったのかと、じれったい気にもなる。 死んだ玉枝の後を追って自害した喜助。2人の墓が雪の中で仲良く並んでいるラストシーンは、見ていてほんとに切なかった。 それにしても、玉枝を犯す忠平に扮した西村晃、こういう役をやらせると憎らしいほどうまい。彼の存在で2人の哀れさがいっそう 際立つのだから、貴重な役者だなぁとつくづく思う。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 終戦後間もない高知の田舎村を舞台に、双子の兄弟の目を通して昭和20年代の日本の村の生活を描いた映像寓話的ドラマ。 ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞。 夏の終わり、絵本作家の田島征三は双子の兄・征彦のアトリエを訪ねる。田舎の村で過ごした2人の少年時代を、絵本にするための 打ち合わせに来たのだ。 昭和23年、高知の田舎村に住む双子の兄弟・征三(せいぞう)(松山 慶吾)と征彦 (ゆきひこ)(松山 翔吾)は、教師をしている優しい母(原田 美枝子)、めったに帰らない父(長塚 京三)、思春期の姉 (真々田 瑞季)の5人家族だ。 絵といたずらが好きな2人は、豊かな自然に包まれて、元気に駆け回って日々を過ごしていた。川の中からは「相撲取ろう」と何者か が呼びかけ、不思議な3人の老婆が大木の枝に座って2人の行動を見守る。 2人は転校生のセンジ(田宮 賢太朗)と仲良くなるが、なぜか彼は周囲から不思議な差別を受けていた。 プロローグでモデルになった双子の画家兄弟が登場する。そのせいか、ファンタジーのようでありながら、反面、とてもリアルな感じ のする映画だ。 主人公を演じた双子の兄弟がなかなか面白い。川で遊んでいるうちにだんだん喧嘩になり、しまいにヒステリックなキーキー声で、 泣きながら相手に掴みかかっていくところなど、とても演技と思えない。案外、自由に演技させているうちに、本気の喧嘩になって しまったんじゃなかろうか。 そんなところが随所にあって、この映画を生き生きしたものにしている。 貧しくて靴が買えないために、裸足で学校に通うハツミ(山内 美佳)という同級生が出てくる。冬はそのため足にあかぎれ出来て、 ハツミは泣きながら血の滲む足を洗うのだ。 そういえば私の生まれた岩手も、冬は手や足にしょっちゅうあかぎれが出来たものだった。冷たい水が割れた皮膚の裂け目に入ると 飛び上がるほど痛かった。 さすがに学校に裸足で来る子はいなかったけど、校内に入れば上履きなんて洒落たものはなくて、夏は足の裏を真っ黒にして、裸足で ぺたぺた歩いたっけ・・・。 転校生のセンジが征三と征彦の誘いに応じて、家に遊びに来るシーンも心に残る。彼は2人の母親が自分を拒絶していると分かって、 「やっぱり」といってスタスタ帰っていくのだ。 一時住んでいた新潟に、私にも似たような同級生の男の子がいた。かくべつ差別はされていなかったけれど、どういうわけか、自分の 方からけっして同級生の遊びの輪に入ろうとしなかった。彼とセンジの面影が重なる。その後、私は東京に転校してしまったけれど、 彼はどういう人生を送ったのだろう、と何かの時にふっと思い出すことがある。 私は双子の田島兄弟と同世代だ。住んでいた場所は農村ではなかったけれど、同じ心象風景を持っているんだなぁ、と映画のなかに 自分の子供時代を見るような、懐かしい気持ちを覚えた。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 山口瞳の直木賞を受賞した同名小説の映画化。江分利(小林 桂樹)は36歳、洋酒会社の宣伝部に勤めるサラリーマンだ。雑誌編集者 と意気投合し、酔った勢いで原稿を書く約束をしたのはいいが、なにを書いていいのか分からない。自分のような平凡なサラリーマンが 一生懸命に生活している様子を書こう、と思いつく。 妻・夏子(新珠 三千代)との出会い、息子・庄助の誕生、家族の病気、成金と破産を繰り返す父(東野 英治郎)、そんな夫に 連れ添った母の死(英 百合子)・・・。こんな小説とも随筆ともつかぬものが意外な好評を呼び、続編の依頼が来る。江分利はますます 困ってしまう。 “Every Man”氏というからには、江分利はすべてに平凡な男なのかと思っていたら、なんと、彼の父親って相当に 山っ気のある人で、波瀾万丈の人生だ。こういう親を持ったら子供は大変だなぁ・・・。東野英治郎が困った親だけど憎めない父親役に ピタッとはまって、すごく面白い。 江分利は酒ぐせが悪いらしく、酔うとすぐ人にからむ。そういう夫やこういう舅なのに、よくしたもので、妻の夏子がのんびりした 性格。新珠三千代がおっとりした感じをじつにうまく出している。ほんとにこの人って芸域が広い。小林桂樹も好演。 サントリーのCMでおなじみの柳原良平のアニメが登場したり、江分利と夏子の靴が、チャップリンの靴ダンスよろしく2人の会話を 体現したり、朝の出勤時のサラリーマンが江分利の心中の考えそのままにランニングシャツ一枚だったり、日本映画にしては珍しく すっきり笑える楽しさがある。 ただ、直木賞受賞のお祝いの席で江分利が周りにからみだし、延々と戦争批判をするのにちょっと閉口した。たしかに、甘い言葉で 若者を誘惑して戦場に送り出し、自分は生き長らえている白髪の老人や、親爺(と、明らさまにはいわなかったけれど)のように軍需 産業で儲けるヤツは許せない、という江分利の気持ちは分からないではないけれど。 岡本監督は、多分、この部分を言いたくてこの映画を撮ったんだろうな、と思ったけど、酔っ払いの「くだ」はしつこくてカナワナイ なぁ、というのが本音だった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 政治犯として流刑にされた反ファシズムの作家、カルロ・レーヴィの自伝的小説を基に作られたヒューマン・ドラマ。モスクワ 国際映画祭で作品賞を受賞した。 ムッソリーニのファシズム政権下、思想犯としてカルロ(ジャン=マリア・ヴォロンテ)は南イタリア、バジリカータの寒村に流刑 された。村長の出迎えを受けたカルロは、村人たちと次第に言葉を交わすようになる。やがて彼が医学校出身であることが分かると、 村人たちは診察を受けにやって来るようになる。 乾いた厳しい自然のなかで営まれる農民の生活、それを静かな、しかし確かな眼で見つめるカルロ、・・・初めは彼に偏見の視線を 投げていた農民とカルロの間に、いつしか信頼の絆が生まれていった。 さしたるストーリーがある訳でもなく、「休憩」を挿んだ3時間に近い長尺なのに、まったく緩むところがない。原題は 「キリストはエボリに止まりぬ」という意味だそうだ。レーヴィが流刑されたバジリカータはエボリよりさらに辺境に位置する。 つまり、そこは神さえもやって来ない、神にも見捨てられた場所なのだ。 こういう僻村すらもムッソリーニ政権下、ファシズムがじわじわと覆っていく。映画は、ここでの因習に閉ざされた厳しい農民の 生活や、レーヴィが村人たちと静かに交流を深めていく様子を、淡々と緩やかな流れのなかで描いていく。ジャン=マリア・ヴォロンテの 穏やかで深い眼差しが忘れがたい。大好きな映画の一つだ。 【◎○△×】9 |
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ストーリー ヴァージン・クイーンとしてイギリスの黄金時代を築いたエリザベス一世の波乱の半生を描いた
歴史大作。16世紀のイングランド。国内ではカトリックとプロテスタントの争いが激化していた。女王メアリーはプロテスタントを弾圧、 腹違いの妹エリザベス(ケイト・ブランシェット)を反逆の容疑でロンドン塔に幽閉する。しかし、間もなく女王は崩御、エリザベスは 若干25歳にしてイングランドの王位を継承する。 宮廷ではさまざまな謀略が渦巻き、国内財政は逼迫し、隣国との関係は緊迫していた。エリザベスはプロテスタントで国を統一すると 決めるが、これを怒ったローマ法王は暗殺の密使をイギリスに送り込む。閣僚たちは女王の身の安全を守るため、政略結婚を迫る。 しかし、エリザベスには愛人ロバート・ダドリー卿(ジョセフ・ファインズ)がいた。 小学生の頃読んだ漫画に、たくさんの死体が積み重ねられ、カラスが目玉をついばんでいる絵があった。作者も題名も内容も忘れて しまっているのに、これだけ妙によく覚えているのは、子ども心によほど怖かったのだろう。あとになって思うと、どうもそれ は “ブラッディ・メアリー” と称されたイングランド女王メアリーのプロテスタント弾圧の場面だったらしい。子供向けの漫画にして はいやに恐ろしい図柄だが、歴史を分かりやすく描いたものだったのだろうか。 大人になって手軽な「世界歴史おもしろ話」的な本を読み漁った時期がある。たいてい “イギリス宮廷” に関する章があった。この手の本だから真偽定かでない話も多いのだが、花形はスコットランド女王メアリーだ(本作に登場するメアリー・オブ・ギースではなく、彼女の娘のほう。本作が
舞台の頃はフランスに亡命していた)。この人は美貌の女王だったらしく、恋愛遍歴も多彩で、いろんなエピソードが紹介されていた。エリザベス一世のほうは歴史の勝ち組のせいかあんまり面白みがない。ただ、本作にも描かれているダドリー卿との恋の経緯は興味 深かった。彼の妻が不審な死を遂げた時、エリザベスとの結婚をもくろんだダドリーが謀殺したという噂が国民や廷臣の間に広がり、巻き添えを嫌ったエリザベスはコレをきっかけに彼との縁を切ったというのだ。 恋多き女・スコットランド女王メアリーとの対比で書かれていたせいか、エリザベスが国政のためにはただ一つの恋さえ捨てた非情さ に、ある種の ‘男気’ を感じたものだった。 “ヴァージン・クイーン” を名乗ったエリザベスだけれど、ほんとうにヴァージンだったのかという論議は昔から繰り返されている らしい。私個人は本作に描かれているように、彼女はダドリーと夜の逢瀬も重ねていて、侍女たちが控えの間から覗いていたりするほう が、リアリティを感じるし、一人の女としても、そうであってほしい。 ダドリーとの恋は実際はドロドロとしたものだったようだが、映画は、彼への悲恋を通して女王として政治に生きる決意を固める、という風にストーリーをまとめており、それはそれですっきりして
よかったと思う。ケイト・ブランシェットは私がイメージしていたエリザベスにあまりにぴったりで驚いた。少女時代のダドリーとの恋に酔う初々しさから、反逆の汚名を着せられロンドン塔に幽閉される時の、不安を強い意志で押し込めた凛とした姿、義姉のイングランド女王メアリーに忠誠を誓うしたたかさ、・・・徐々に変貌していく様子に唸らされる。 女王に即位してからは、感情を容易に表わさず、風格さえ漂うようになる。 脇役では、側近ウォルシンガムを演じたジェフリー・ラッシュが印象に残った。女王とはいえ、結婚して男児を産まなければ一国の 統治は難しいと考えられていた時代に、細い眼に冷徹な光を秘めて、エリザベスの人間としての素質を見抜いていたウォルシンガム。 冷酷でありながら、エリザベスへの揺るぎない忠誠を示す姿は、カソリック派のノーフォーク卿を演じたクリストファー・エクルス トンの鷹のような鋭さともども、見応えがあった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー エルヴィス・プレスリーのラスベガス・インターナショナル・ホテルのステージを記録したドキュメンタリー。戦後のアメリカを代表 する不世出のエンターテイナー、エルヴィスが復活ののろしをあげるきっかけとなった。デビュー当時の歌からヒット曲まで全26曲と、 リハーサル場面や開幕前のエルヴィスの様子、ファンの熱い声なども織り込まれ、単なるステージの再現を超えた、人間エルヴィスの 魅力に迫るドキュメントとなっている。 カルヴァー・シティでリハーサル用のテープを録音するところから始まって、そのテープに合わせてリハーサルするラスべガスの バックコーラス・メンバー、そして開幕直前ちょっと緊張して「歌詞を忘れそう」なんて言っているエルヴィス、とオープニング前の 様子が興味深い。 ステージそのものはもう文句なしの迫力。歌は少々粗い気がしたが、ステージと客が一体となり、楽しさ が溢れ返っている。「ラブ・ミー・テンダー」などはもう完全に女性ファンへのサービス・ソングで、歌うのは初めの数小節のくらい、 あとはひたすら彼女たちにキスのサービスだ。嬉々とする女性客、脇で笑いながら眺める連れの男性客。みんな、エルヴィスが好きで 好きでたまらない、そんな気分がじんじん伝わってくる。 もちろん、本格的に歌う時のエルヴィスの歌・パフォーマンスの凄さはもう圧倒的。本場のステージを十分堪能できた映画だった。 【◎○△×】7 |
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ストーリー 大正時代のアナーキスト大杉栄の半生を前衛的な手法で描いた吉田喜重監督の野心作。大杉栄が三角関係のもつれから刺された大正 時代の事件と、1970年に生きる現代女性の物語が、時間軸・空間軸を超えて同一画面に現われる実験的な手法によって語られていく。 平賀哀鳥(稲野 和子)に憧れて上京した伊藤野枝(岡田 茉莉子)は、「青鞜社」に入り女性解放の運動にのめりこんでいく。そんな 野枝の行動力を高く評価しながらも、夫の詩人・辻潤(高橋 悦史)は家庭を顧みないことで妻に不満を抱いていた。ある日、 義妹と抱き合っているところを野枝に目撃される。 一方野枝は、家庭と私有財産を否定し自由恋愛に生きるアナーキスト大杉栄(細川 俊之)に惹かれ、深い仲になる。大杉には妻・ 保子(八木 昌子)がいたが、さらに女流記者・正岡逸子(楠 侑子)とも関係を持っていた。そんな大杉の奔放な女性関係を同士たちは 非難した。 大正5年、葉山海岸に近い日蔭茶屋に入った大杉と野枝を、その夜逸子が訪れる。 公開当時、モデルの1人だった神近市子が名誉毀損で訴訟を起こして話題になったことや、刺激的なタイトルなどから、どんな映画 だろうと興味があったが、感想は「テンポがぬるく、とにかく長い」の一言に尽きる。 有名な“日蔭茶屋事件”などは、延々と逸子が大杉を追いかけのたうち、いつまでこの調子で続けるのかなぁ、としまいに飽きてくる ほど。見続けるのにかなりの忍耐が要った。 日本映画を見る時いつも思うことは、無用に長い。だらだらしている、ということ。もっとメリハリの利いた映画作りをしないと世界 に通用しないと思う。現代の若いカップルを登場させて過去と現代を交錯させた手法も、話がダレて長くなるばかりで、私にはあまり 意味が感じられなかった。 俳優では、大杉栄役の細川俊之はまずまずとしても、伊藤野枝役の岡田茉莉子は仮面をかぶったように表情が固い。大杉栄が高く 掲げた“自由恋愛”という理想は、現実には嫉妬・執着・愛憎の中でどろどろした泥沼に化していく。その中でのたうつ苦悩が感じ られないのだ。 その点、逸子役の楠侑子には、よくも悪しくも生身の女の情念が感じられて共感した。 【◎○△×】5 |
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ストーリー 1950年に起きた金閣寺放火事件を題材にした三島由紀夫の小説「金閣寺」を原作とする心理ドラマ。映画化に当たって金閣寺側 からクレームがついたため、劇中では “驟閣(しゅうかく)寺” に変更されている。 亡父(浜村 純)から “驟閣寺” こそこの世で最も美しい存在だと教えられた吾市(市川 雷蔵)は、寺への深い憧憬から、父の親友で この寺の住職・田山老師(中村 雁治郎)の好意で徒弟として住むことになる。しかし寺は観光客であふれ、俗世にまみれていた。 住職の好意で古谷大学に通うようになった吾市は、脚の悪さを誇示して超然としている戸苅(仲代 達矢)により、妾を持ち女色に 溺れる住職の私生活を知らされる。絶望に捕らわれた吾市は自殺を図るが果たせない。警察に保護され、連れ戻された吾市を迎えた母 (北林 谷栄)と住職は冷たかった。 三島由紀夫の原作では、犯人の金閣寺放火の動機は “絶対的な美への嫉妬” になっている、と以前何かで読んだことがある。いかにも 耽美的な自意識の持ち主である三島由紀夫らしいが、美男美女への嫉妬ならともかく、芸術的な美が対象となると俗人の私にはとうてい 理解しがたい。 本作では、「この世に変わらぬものなどない。驟閣(=金閣寺)だっていずれ変わる」という戸苅の言葉に煽られて、驟閣の美を永遠の ものにするために吾市は火を放ったことになっている。これなら私にも分かる。終盤、炎に包まれて燃え上がる驟閣は恍惚とするほど 美しい。吾市は震え
るような喜びのなかで、驟閣の炎上を見つめたに違いない。吾市にとってのキーパーソンは父親だ。吃音(きつおん)で思うことが十分に言えない吾市にとって、父親は心の拠り所のすべてだったのだろう。回想シーンに現われる日本海の荒い海と寂しい砂浜は、吾市と父の結びつきの深さを暗黙のうちに示しているように思える。 絶対的なる “美” を永遠の中に留めるために、現(うつ)しみの姿はこの世から消失させる。それは、すでに この世にない父への思い、父と吾市の親子の “愛” と重なっていたような気がする。 母が生活苦からこの寺の下働きとして住み込むことになった時、吾市は拒否反応を示す。じつは少年の頃、吾市は母の姦通現場を目撃 している。寺に母が入ってくることは、吾一にとって、“絶対的なるもの”=驟閣寺=父、を汚されることだったのだろう。 無惨なのは、現場検証に立ち会わされた吾市が、驟閣の黒く焼け残った柱を見てしまうところだ。炎によって永遠 (とわ)の彼方に浄化されたはずの驟閣が、黒く醜い残骸をさらしている。手錠をかけられたまま、呆然とする 吾市の顔が印象的だった。 市川雷蔵は自ら望んでこの役を演じたそうだが、翳りのある寂しげな顔は主人公・吾市が乗り移ったかと思うほどぴったりだ。脚本も、 “美” への憧れと肉体の障害へのコンプレックス、そして父への思い・・・これらが重層的に絡み合った吾市の複雑な人物像を、 くっきりと浮かび上がらせていたと思う。 仲代達矢の扮する戸刈は、脚が悪いというコンプレックスを吾市とは逆に外に向って攻撃的に発散する。露悪的に開き直りながらも、 硝子のように壊れやすい。悪魔的といいたいほど魅力的だった。 【◎○△×】8 |
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ストーリー 日活ロマン・ポルノ出身の根岸吉太郎監督が、立松和平の同名小説を映画化した硬派な青春映画。 母と祖母とともに暮らす満夫(永島 敏行)は、東京近郊の農村でトマト栽培をしている。父は先祖代々の土地の大半を手放した金で 遊び暮らし、挙句にバーのホステスと同棲を始めた。兄も農業を嫌って東京でサラリーマンをしている。 満夫は見合いをし、相手のあや子(石田 えり)とその日のうちにモーテルに行く一方、スナックのママで人妻のカエデ(横山 エリ) とも関係している。ある日、親友・広次(ジョニー 大倉)がカエデと駆け落ちしてしまう。その頃アブラムシが大発生し、トマトが 全滅するという災難が起きる。 ずいぶん以前、石田えりが雑誌かなにかのインタビューで、『遠雷』の撮影エピソードを語っているのを読んだことがある。モーテル の風呂場のシーンだったと思うが、「はい、脱いでーー!」と声をかけられて、スッポンポンの全裸になって出て行ったら、監督も共演 者の永島敏行もア然として目が点になったというのだ。 「脱ぐ振りをすればいいのを、私は真に受けてほんとに脱いじゃったのよね。」 当時石田えりはデビューして間もなくて、撮影というものがよく分からなかったのだという。アッケラカンとした語り口で、 彼女の個性がそのまま表われたようなエピソードがいかにも可笑しかったのを覚えている。 立松和平の原作は発表当時とても面白く読んだ。農村の若い男女の健康な息吹きがしゅんしゅん煮え立つように伝わってくる。どう いうワケか、満夫とあや子がトラックで近くの団地に取れ立てトマトを売りに行く場面がとても印象に残っていた。 映画は原作のイメージそのままに描かれていて嬉しかった。永島敏行、石田えり、ジョニー大倉、ともに適役だったと思う。 【◎○△×】7 |