| 【 じっくり映画館 】No.48 |
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ストーリー ファシスト政権下の1939年のイタリア。ユダヤ系イタリア人のグイド(ロベルト・ベニーニ)は、書店を開業しようと叔父 (ジュスティーノ・デュラーノ)の住むトスカーナ地方の町アレッツオにやって来る。 小学校教師ドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)に一目惚れしたグイド、持ち前のユーモアで彼女の婚約者をはねのけ結婚する。一粒種の 息子ジョズエにも恵まれ、幸せな日々を送っていたが、町はナチス・ドイツに占領されていった。グイドは息子ジョズエ(ジョルジオ・ カンタリーニ)とともに強制収容所に送られ、ユダヤ人ではないドーラも夫と息子の後を追う。 イタリアのスタンダップ・コメディアンとして知られるロベルト・ベニーニが、監督・脚本・主演したヒューマン・ドラマ。アカデミー 最優秀外国語賞、カンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞した。 ここで語られるのは、極限状況下での “希望” と “愛” だ。ずっと以前読んだフランクルの「夜と霧」のなかに、収容所を生き 延びた人とそうでない人に違いがあるとすれば、それは希望を持ち続けられたかどうかにある、というような一節があった。 別の視点から “希望” について書いたものを読んだことがある。それは人間にとってもっとも残酷な行為は、希望を与え、しか 後にそれを奪うことだ、というものだった。
希望を失った時、人の生命力は驚くほど急速に衰退する。どれほど貧しくても、希望が持てる社会は健全であり、どれほど物質が豊か
でも、希望のない社会は頽廃する。映画の冒頭で、「これは素朴な物語だが、語るのは難しい」というナレーションが流れる。しかし驚きと幸せがつまっている」とも。 人にとって “希望” が意味することを、その希望は “愛” によって支えられることをこの映画は物語っている。 この映画は一種のファンタジーだと思う。それは陽気で明るい前半にさまざまな形で描かれる。「マリア、鍵〜!」とグイドが叫ぶと ぽ〜んと空から鍵が降ってきたり、「濡れた帽子はイヤだ。乾いたのがいい」というと、通りすがりの男がひょいと帽子を取り替えて くれたり、魔法のようなことが起きる。もちろん、これはグイド一流の “うそ” なのだが、ドーラはそれを承知で楽しむ。 雨に濡れた石段にグイドがドーラのために赤い絨毯を敷いたり、白馬の王子よろしくパーティ会場にドーラを迎えに現れるところなど は、もうおとぎ話そのものだ。しかし、グイドの乗った馬はじっさいは緑に塗られ、「ユダヤの馬」と悪戯描きがされている。陽気な 笑いの中にも、ひたひたとユダヤ狩りの暗い影が迫っていることが示唆されるのだ。 おとぎ話なら王子様とお姫様が幸せな結婚をして、めでたしめでたしで終わるが、映画は後半一転して、ユダヤ人の強制収容所に舞台 が変わる。前半の明るく楽しいラブ・コメディとのあまりの
落差に、初めは戸惑ってしまうほどだ。収容所では、まず老人・子どもがガス室送りになる。黙って歩む行列の中にはグイドの叔父の姿もある。風呂嫌いがさいわいして、ジョズエは シャワー室送りをうまく逃れるが、ここからグイドの “うそ” が本領を発揮しはじめる。 「これはゲームだ。いつだって家に帰れる」という “うそ” は、いくら5歳の子どもでもじっさいには信じがたいだろう。仮に信じ たとしても、いずれ嘘と分る時が来る。その時の絶望の深さは考えるだに恐ろしい。しかし、この映画はファンタジーの形を借り て、“うそ” の中に息をひそめる “希望” と “愛” をつかみ出して見せるのだ。 こっそり忍び込んだ放送室の拡声器から、グイドが「お姫様、昨夜ぼくは君の夢を見たよ」と、収容所のどこかにいるはずのドーラに呼びかけ、「ママ!」とジョズエの声がそれに重なるシーンのなんと感動的なことか。 同様に、ドイツ軍将校の晩餐会場で、思い出のオペラのレコードを見つけたグイドが、窓の外に向けてオペラ・アリアを流す場面。 ドーラだけでなく、収容されたユダヤ人すべてが美しい歌声に耳を傾ける。こういう場面に遭遇した時、私は、愛とその先に希望を見て 人は勇気を持つのだと、胸の震える思いで痛感する。 対照的なのは軍医レッシング(ホルスト・ブッフホルツ)だ。前半では、彼はなぞなぞ好きの好人物として登場し、グイドと友情を 結んだかに見える。しかし、収容所で再会した時、彼はグイドに気
づかない。ユダヤ人を個別の人間と認識していないのだ。グイドははじめは古い知己であるレッシングの助けを期待するが、すぐに非情な現実に気づかされる。人間に無関心な医者。そこには、 ユーモアのオブラートにくるまれてはいるが、ナチス・ドイツの非人間性が見事に表われている。 連合軍の侵攻が迫り、収容所内が慌しくなった時、グイドは毛布とスカーフで女装してドーラを探し回る。背中を丸め、がに股で走り 回る姿はベニーニらしいユーモアに満ちている。しかし、その滑稽さから妻への思いがひしひしと伝わってくる。 ついにドイツ兵士につかまって連行される時、彼はジョズエの隠れている物置箱の前を、大きく手を振り、足を上げて、楽しそうに ゆき過ぎる。箱から覗いている息子にウィンクさえする。 グイドは命をかけて “うそ” を貫き、それによって幼い息子を守り抜いたのだ。彼の目に映った父のふざけた格好、そこに溢れる愛をジョズエは一生忘れることはないだろう。 映画の冒頭で、トスカーナの美しい山野をグイドと友人のフェルッチョはアレッツォに向かって車を走らせる。フェルッチョが詩を 暗唱する。「私は囚われの身だが、今や自由だ。さあ、出発だ」。 グイドは身は収容所に囚われたが、心はいつも自由だった。テーマは 重いけれど、その軽やかさがこの映画の魅力だと思う。 【◎○△×】9 |