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【 じっくり映画館 】No.43

日の名残り


1993年  イギリス  134分
監督 ジェームズ・アイヴォリー
出演
アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、ジェームズ・フォックス
クリストファー・リーヴ、ピーター・ヴォーン、ヒュー・グラント
ミシェル・ロンダール

  ストーリー
 在英の日本人作家カズオ・イシグロがイギリス最高の文学賞、ブッカー賞を受賞した同名小説を映画化した作品。イギリスの名門一家 に一生を捧げてきた老執事が自身の半生を回想し、密かな思いを寄せた女中頭への愛を確かめる人間ドラマ。
 1936年のイギリス・オックスフォード。ダーリントン卿(ジェームズ・フォックス)に仕えていた執事のスティーヴンス(アンソ ニー・ホプキンス)は、勝気で率直なミス・ケントン(エマ・トンプソン)を女中頭として雇う。2人は引かれあうが、私事を慎む執事の 美学を貫くスティーヴンスは、職務を全うするために彼女への思いを抑える。ケントンはあきらめて他の男と結婚する。
 時代は戦争への暗い道を進んでおり、ダーリントン卿は急速に反ユダヤ主義に傾いていく。  それから20年。ダーリントン・ホールは、アメリカ人の富豪ルイス(クリストファー・リーヴ)の手に渡り、スティーヴンスは再び 執事として雇われる。ミス・ケントンを忘れられずにいた彼は、海辺の小さな町に住む彼女に会いに行く。

  一口感想
 夜、スティーヴンスが自室で安っぽい恋愛小説を読んでいるのを、ミス・ケントンにみつかってしまう場面がある。あれほど自信に 満ちて邸内を切り盛りしているスティーヴンスが、少年のように頬を赤らめ、本を両腕に抱え込む。「見せて」と迫るミス・ケントン。 恐れるように窓際に後ずさりす るスティーヴンス。
 この時のミス・ケントンは、彼の固い殻を破りたい、今なら破れる、という思いに突き動かされていたように見える。そして、だから こそスティーヴンスは怯えたのだろう、ずっと秘めてきた想いを彼女に悟られる、と。頬が触れるほどに近づいた2人の慄きと昂ぶりが とても官能的だ。

 20年後、スティーヴンスは海辺の小さな町までミス・ケントンに逢いにいく。途中、立ち寄るパブでは、村人たちが闊達に前の大戦 について意見を交し合う。それまでダーリントン・ホールでの抑制的な描写が続いていただけに、パブにみなぎる自由で柔軟な空気は ひどく印象的だ。
 スティーヴンスは執事として自分の意見はおろか、感情すらもふたをして生きてきた。邸を訪れる貴族たちの教養あふれる会話にも、 世の中に起きている変化にも、彼はあえて関心を持とうとしない。執事の分を超える、という厳しい自制があったからだ。
 しかし、それで自分を生きていることになるのだろうか。このパブの場面で、いきなり、強烈に、私はそんな思いに襲われた。 スティーヴンスはこの生き生きと自由な空気をどう感じているのだろう、と。

 スティーヴンスの上品でストイックな雰囲気から、村人は彼を上流階級の人間と勘違いする。スティーヴンスはあえて否定せず、 あたかもそうであるかのようなフリをする。これまで誠実に裏表なく生きてきた彼が嘘をついたことに、私は驚いた。
 彼はさらに、ダーリントン・ホールの名が出た時、“親ナチ” “裏切りもの” の貴族の邸だ、という村人の反応に迎合し、ダーリン トン卿とはなんの関係もないフリをする。
 私はこの場面で、キリストの弟子ペテロが、師のことを夜明け前に3度「知らない」と言ったという、聖書の話を思い出した。 ダーリントン卿をキリストになぞらえる気はもちろん毛頭ないが、あれほど尊敬し仕えた人を「知らない」といったスティーヴンスの 心の内を推し量らずにおれなかったのだ。これは彼にとって、自分の全人生を否定するのに等しい言葉だったのではないのかと。
 このパブで、スティーヴンスは初めて自分の内面に向き合わされた気がしてならない。それがミス・ケントンに逢う旅の途中だったこと が意味深く思える。

 村の牧師はさすがに彼のストイックな雰囲気の意味を見抜き、「失礼ですが、あなたは執事でいらしたのでしょう」と問いかける。 スティーヴンスは、「その通りです。ダーリントン卿に仕えていました」と打ち明ける。このことが彼の心を少し開放したのだろうか、再会したミス・ケントンに「もう1 度、ダーリントン・ホールで働く気はないか」と申し出る。
 非常に婉曲だけれど、これはスティーヴンスなりの愛の告白だったと思えてならない。でも、彼とミス・ケントンはあまりに長い時間を 別々に過ごしてしまったと思う。
 「夫を愛していることに気づいた」というミス・ケントンの言葉を聞いた後、並んでベンチに座ったスティーヴンスの虚ろな眼、 「ご主人と幸せに暮らしてください」とスティーヴンスにいわれ、何かをこらえるように涙を滲ませたミス・ケントンの顔。2人の間に 漂うのはそこはかとない悲しみだ。

 2人が雨中のバス停で、手を握り合って互いに別れを告げる場面は哀切さに満ちている。去っていくバスから、身じろぎもせず スティーヴンスを見つめるミス・ケントン。彼女を見送り、車のスイッチを入れるスティーヴンス。想いをついに口に出すことの なかった2人。もう再び逢うことはないだろう。
 淡々とした中に深い情感を滲ませたアンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソンが素晴らしい。

 私がスティーヴンスに感じる切なさは、プロの執事として自分を無にすること、それが彼の誇りだったところにある。もちろん執事が すべてそうだというのではない。ミス・ケントンの夫となるベンはそれに嫌気がさして執事を辞めるし、女中頭だったミス・ケントンも 自分の感情を殺すことなく、意見ははっきり主張する。人に仕えるという枠の中で、自分らしさを生きている。

 スティーヴンスがそうしない(あるいは、できなかった)のは、同じく執事だった父を尊敬し、その教えに忠実だったからではないか と思う。
 スティーヴンス・シニアは死の直前、息子に「妻を愛せなかった」と打ち明ける。彼も孤独な人だったのだと思う。生涯を執事としての 誇りに生き、死んでいった。スティーヴンスは執事として父のように生きることを悔いてはいなかっただろう。それだけに、彼の孤独の 深さが胸に迫る。

 ダーリントン・ホールにもどったスティーヴンスは、広間に迷い込んだ鳩を、新しい主人ルイス氏と一緒に空に向かって逃がしてやる。 鳩の飛翔を表すように、眼下に広がる田園の眺めは美しい。静かになだらかなその光景は、“日(=人生)の名残り” を見つめる スティーヴンスの心象風景のように思えた。

 最近読んだ本のなかで、執事について興味深い記述を見つけた。一部をご紹介したい。

 ロンドンにある駐英日本大使のお宅にうかがった折の話だ。私に忘れがたい印象を残したのは、(略)玄関にで迎えてくれ、その 午後中なにかと世話をしてくれ、そして、帰る時には玄関の扉を開けてくれた、大使公邸つきの執事だったのである。
 名は知らない。年の頃は、六十は相当に越したというところか。中背の少し痩せた体が、存在を主張しすぎては失格という執事にぴったりだった。
     (中略)
 大使公邸に働く男や女の召使は、用事のある時しか姿をあらわさなかったが、執事のX氏はいつもそばにいた。少なくとも、そういう印象を与えた。他の召使が食事の給仕をしている間ずっと、執事がそばにひかえているわけではない。料理場と食堂に間を往復してはいるのだが、彼の眼がいつでも光っているという安心感を、主人である大使夫妻にも客である私たちにも、そして、その場で働く他の召使たちにも感じさせるのだ。
 それも、なに気なく自然に振舞っての結果なのだから、彼の存在を誰も気にする必要はない。気になるのはおそらく、彼の監督下にある召使たちだけだったにちがいない。執事のX氏は、すべてがスムーズに運ぶための、潤滑の湯のような役目をしているのである。
     (註:読み易さのために、このパラグラフのみ、一部改行しています。)

 この人が、私たち客の眼を直視しないのが、また興味深かった。
 仕える側が主人の客に対して、その顔に視線を向けるのは礼を失する行為であることを、この執事は知っていたのであろう。それで いて私たちの一挙一動に注意を払っているから、私たちの要望に、それが口で言われる前にすでに応ずる用意ができている。ひかえめに 振舞う、という形容が、日本から遠いロンドンで思い出されるのが、私にはおかしかった。(後略)

塩野七生著 文藝春秋刊 「男たちへ フツウの男をフツウでない男にするための54章」より


 この文を読みながら、当然のことながら私の頭に去来したのは、ダーリントン・ホールを取り仕切るスティーヴンスの姿だった。
  【◎△×】8

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