| 【 じっくり映画館 】No.39 |
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ストーリー アルメニア人を両親に持つアトム・エゴヤン監督が自身のルーツと向き合い、1915年に起きたアララト山麓でのアルメニア人 大虐殺にスポットを当てたドラマ。 アルメニアからの亡命画家ゴーキーをモチーフに、1915年にアララト山の麓で起きたアルメニア人虐殺の史実を映画化しようと カナダにやって来た映画監督エドワード・サロヤン(シャルル・アズナヴール)は、ゴーキー研究家の美術史家アニ(アーシニー・カン ジャン)に顧問を依頼する。 アニは2回の結婚歴があり、最初の夫との間の息子ラフィ(デイヴィッド・アルペイ)と、2度目の夫の連れ子シリア(マリ=ジョゼ・ クローズ)は恋人同士だ。 映画の要の1人、トルコ人総督に起用された新人俳優アリ(イライアス・コティーズ)には、同性の恋人フィリップ(ブレント・ カーヴァー)がいる。彼は空港関税検査官の父デイヴィッド(クリストファー・プラマー)との関係がこじれていた。 映画はクランク・インした。撮影現場で雑用係として働いていたラフィは、映画の内容に触発され、母から聞かされた父の死に疑問を 抱き、真実を知るためにアララトへと旅立つ。 トルコ人による100万とも150万ともいわれるアルメニア人の大虐殺があったというのは、この映画を見るまでまったく知らな かった。トルコ政府は公式には認めていないそうだが、ドイツ・ナチスによるユダヤ人虐殺とさほど隔たっていない時代に、同様のことが 中近東でもあったとは驚きだ。このことを世に知らしめただけでも、エゴヤン監督が本作を作った意味は十分あったのではないかと思う。 しかし、本作で印象的だったのは、エゴヤン監督がこの事件を自身のルーツを襲った悲劇として悲憤慷慨するのでなく、事実が風化し 忘れ去られていく過程で、どのようにそれを保持し、かつ乗り越えていくのかを描こうとしているということだった。 エゴヤン監督は1915年に起こったこの事件を、シャルル・アズナブール扮するアルメニア人映画監督の製作する映画、という【劇 中劇】として再現する。決して事件の悲劇性の中に浸かりこもうとはしない。緊迫した場面になるほどカメラを引いて、監督を初めとする 撮影スタッフの姿をフレームの中に入れて、観客にこれが【再現ドラマ】であることを思い出させる。
現在のドラマとしては、主人公ラフィをめぐる母アニと恋人シリアの葛藤が描かれる。シリアは、アニと再婚した父が突然自殺した のは、アニに原因があると思っている。彼女は執拗にアニを問い詰め責め続ける。しかし真相は亡くなった父にしか分からないこと なのだ。 ラフィも、トルコ大使を襲って殺された父は、アルメニア人の英雄なのか、単なるテロリストなのか悩み続けている。ここでも真相は 闇に包まれている。 映画を通す1本の芯として、空港関税で足止めを食らったラフィが、トルコから持ち帰ろうとした3つのフィルム缶について、検査官 に「どこで何を撮影したのか」「撮影の目的は何なのか」について、尋問を受ける流れがある。 サロヤン監督の映画製作は、彼の事情説明の中に登場する回想場面であることが徐々に明らかになるのだが、本作はこのために二重 三重の複雑な構成を持つことになる。 このフィルム缶は、同行したCMディレクターがラフィに託したものなのだが、じつは中身はヘロインではないかという疑いがかけ られている。ラフィは未現像であることを理由に開封を拒否し、どうしても開封するのであれば、調べ室を真っ暗にしてほしいと要求 する。 そしてハタと気づく。真闇ならば、中身が何なのか、直接手で触れる検査官にしか分からないということに。この場面には映画の テーマが凝縮して現れている気がして、私はとても興味を感じた。 【劇中劇】にトルコ人将校として出演したカナダ生まれのトルコ人俳優アリは、ラフィに「そういうことがあったとはぜんぜん 知らなかった」と言う。そして、「いろいろ調べたが、トルコにはトルコの止むを得ない事情があった」とも言ってラフィを怒らせる。 トルコ人としての彼は、今はこういう形でしかこの事実に向き合えないのだ。
アルメニア人虐殺をモチーフにしながらも、この映画で描かれるエピソードに共通しているのは、“真相はどこにあるのか”ということだ。過去に起こった虐殺が事実であったとしても、今となっては真相は誰にも分からない。人はただ、自分がそうと信ずるものを信じるしかない。 検査官デヴィッドが、長い間確執のあった息子フィリップと車の中で語り合う場面が心に残る。フィリップに「缶の中身は何だった の?」と問われて、デヴィッドは「ヘロインだった」と答える。しかし「残りの2缶は分からない」とも言う。 「ラフィはフィルムと信じていた。その彼を信じて罪には問わない」と言うデヴィッドに、フィリップは「あなたは変わった」と 微笑し、デヴィッドは「お前のお陰だ」と返す。 エゴヤン監督は自身の民族に起こった悲劇を痛みとして受け止めつつ、その真相を究明・糾弾するのではなく、赦しの心に向かおうと しているのではなかろうか。映画の結末にそんな明るさを感じるのだ。エゴヤン監督の気迫のこもった演出が印象深かった。 【◎○△×】8 |