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【 じっくり映画館 】No.14

倦怠


1998年  フランス  120分
監督 セドリック・カーン

出演
シャルル・ベルリング
ソフィー・ギルマン
アリエル・ドンパール
ロバート・クレイマー

  ストーリー
 妻ソフィア(アリエル・ドンパール)と別居中の哲学教師のマルタン(シャルル・ベルリング)は、執筆中の本も進まず、人生 すべてに行き詰まりを感じていた。
 そんなある日、彼は老画家(ロバート・クレイマー)のモデルをしているという若い娘・セシリア(ソフィー・ギルマン)と知り合い、 関係を持つ。愛を交わす時は情熱的だが、ふだんはそっけないセシリア。マルタンは彼女の心が読めず、懊悩する。
 ストーカーのように彼女をつけ回し、ついにマルタンはセシリアに若い恋人がいることを突き止める。セシリアへの執着から解放され ようともがくマルタンは、半ば自殺とも取れる自動車事故を起こすのだが・・・。
 ゴダールの『軽蔑』(63)、ベルトルッチの『暗殺の森』(70)などの原作で知られるアルベルト・モラヴィアの同名ベストセラー 小説を映画化。

  ふた口感想
 最近の映画のカタカナタイトルにいささか疲れ気味の私は、タイトルが日本語というだけでフラフラ見に行ってしまう傾向がある。 そしてこの映画、“けんたい” という響きも私好みだ。なにか物憂くけだるい気分・・・。人生に疲れた主人公のそんな憂鬱につき合う つもりで出かけた映画だった。ところが彼マルタンは、けだるいどころかのべつピリピリと神経質に動き回る。

 哲学教師の彼は妻と別居中だ。おまけに本の執筆ははかどらない。主任教授に「孤独は嫌だが人に会うのはうんざり。家に居たく ないが出かける気にもなれない」とまくしたて、呆れた教授から精神科に行けといわれたりする。そんな彼がセシリアという17才の絵のモデルと知り合い、関係を持つ。
 丸顔で、足も首も逞しい肥り気味のセシリアは、およそモデルとか、男を破滅させるファム・ファタール(運命の女)のイメージから 懸け離れている。これがヒロインかとあ然とするほどだ。マルタンも初めのうちは「平凡で退屈な女だ。まつわりつかれてはかなわない。 早めに別れよう」などと思っている。
 しかしセシリアは毎日時間通りにやってきて、さっさと裸になり、セックスが済めば「また明日」と帰ってしまう。何を考えているか 分らない捉えどころのなさに、マルタンはだんだん焦るようにな る。
 哲学の教師らしく何ごとも知的に理詰めで理解しようとするマルタンは、会うたびにセシリアを「なぜ」「なぜ」と質問責めにする。 その執拗さは見ているこちらもうんざりする程だ。しかしセシリアはいっこう動じない。ちょっと困ったように「分らない」「考えた ことない」と、答は簡単極まりない。
 「もしも」の形で未来を考えたこともないし、過去を振り返ることもない。無知な動物のようにセシリアはただそこに「在る」 だけだ。
 セシリアに若い俳優の恋人がいると分かってから、マルタンの行動は常軌を逸してくる。彼女を尾行し、執拗に電話をかけ、しまい には結婚話までもちかける。それでもセシリアは変わらない。「今がうまくいってるのになぜ結婚するの」。セックスでも征服できず、理知でも捉えられない。焦り、逆上し、動き回るマルタン。

 なんのためらいもなく全裸になり、シャッターを降ろした仄暗い部屋を歩き回るセシリアの姿は、ルノワールの絵に描かれた裸婦を 思い起こさせる。体内時計のままに生きるたっぷりした肉体は大地そのままだ。ぬたりと横たわるセシリアを前にしてマルタンは無力に あがくしかない。
 マルタンが人生に行き詰まり、フライパンの中の炒り豆のように焦燥に苛まれていたのはたしかだ。私の “倦怠” のイメージとは 違っていたが、別の意味で、マルタンはこれまで生きるという実感が持てずに来たのではないだろうか。しかし、セシリアとの出会いは それ迄のマルタンの世界をひっくり返してしまったように思える。
 理性も言葉も感情すらも通用しない、ただ肉体として存在するだけのセシリア。そんな彼女を前にして、マルタンはそれまでの 生き方の無力さを思い知ったのではないかと思う。そう考えると、ラストシーンで自殺に近い交通事故で重傷を負ったマルタンが、 「生きることにした」というのは、とてもよく分ることだと思った。

 それにしてもセシリアを演じたソフィー・ギルマンという女優には圧倒された。演技なのか地なのか、現実にはありそうにもない 女性像なのに生々しい存在感があって、納得させられてしまう。希有な素質をもった俳優が登場したと感じさせられる。(2000.11)


 久しぶりに読み返して見ると、この映画はふつうの男女関係を描いたものでなく、原初的な女性性(母性)をセシリアに具現させた 映画だと、改めて思う。その圧倒的な肉体性の前には観念や理屈はなんとひ弱なものか。マルタンが哲学教師という設定なのも故の ないことではないと思わせら れる。
 観念とか理屈は男性を特徴づけるものと一般的には考えられているが、ほんとは今は女性も大方そういう傾向があるのではないかと 私は考えている。いわゆる「頭でっかち」だ。私なんかもその傾向大! 理屈・理論で説明し尽くして納得しようとする。だから セシリアのような存在に興味が惹かれるのかもしれない。
 セシリアは土偶その他で太古から描かれてきたような原初的女性像を象徴している、だから、ふつうのファム・ファタールのように、 モデルのようなスタイルや蠱惑的な美貌をもっている必要はなくて、むしろあんな風に垢抜けなくて、肥り肉(じし) であることが必要なのだと思える。
 母性の本質のなかには、愛する子どもを呑み込んで破滅させてしまうほどの破壊力と、逞しい再生の生命力や創造力を与えるという、 相反する二面性があるといわれている。そう考えると、マルタンが一旦はセシリアに呑み込まれ、事故に遭い、そしてそこから生還した ことは、とても深い意味を持っているとあらためて思う。(2002.7)
  【◎△×】7

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